6月
「そろそろ一年生の諸君も練習に慣れてきた頃だと思う。そこで今日は我がテニス部伝統の、『無限打ち』という練習をしてみようと思う」
薫子先輩の言った無限打ちというワードに、言いようのない不安を感じたが、とりあえずは黙って内容を聞くことにした。
ちなみにソフトテニス部の普段の練習は、思っていたよりもかなり辛く、五十人以上いた一年生の女子部員は、既に八人まで減っていた。一年生の男子は二人辞めて、今は四人だ。
ただ、辞めた女子部員も、ほぼ毎日コートまでは来ていて、フェンス越しに薫子先輩がボールを打つたびにキャーキャー言っている。結局ミーハーなんだろうな、あの連中は。
ゲンは最初の頃は野球とテニスのフォームの違いに戸惑っていたが、今ではすっかりテニスのフォームが板に付いてきた。俺も経験者として、うかうかしていられない。
「無限打ちはやることは単純だ。まず一人がコートの中央に立つ。私がコートの右端にボールを出すので、それをそいつが打ち返す。次に私がすかさず左端にボールを出すので、それをまた打ち返す。後は私がいいと言うまで、ひたすら今の行程を繰り返すだけだ」
ほう。
確かに単純だが、問題は薫子先輩がいつ『いい』と言ってくれるかだ。
それについての明言はなかったので、不安がどんどん膨らんでいく。
「まあ何にせよやってみるのが早いだろう。まずはそうだな……戸川、お前からだ」
「えっ!?」
「何をしてる。早く位置に付け」
「は、はい」
いきなり俺が指名されるとは思っていなかった。
ツイてない。
最初はひとのを見て、どれくらいキツいのか様子を見たかったのに。だがこうなったら腹を括るしかない。
俺はコートの中央に立ち、自分を鼓舞するように大きな声で「よろしくお願いします!」と薫子先輩に言った。
「うむ。その心意気や良し。いくぞ戸川!」
「はい!」
まずは右端にボールが来た。
俺はそれを相手コートに打ち返す。
次は左端。
それも何とか追いついて打ち返す。
その後、右、左、右、左、といつ終わるともわからないまま延々ボールを追いかけ続けた。
どれくらい経っただろう。
体感では三十分くらいに感じるが、恐らくまだ三分も経っていないだろう。
既に全身の細胞が悲鳴を上げている。
それでも何とか気力を振り絞り、必死にボールを追ったが、ビキッという音と共に右足がつってしまい、俺は地面に倒れ込んだ。
「大丈夫か戸川!」
「は、はい、大丈夫です」
「うむ。まあこの辺にしておこう。よく足を揉んでおけ」
「はい……」
クソッ、不甲斐ない。
もう少しいけると思ったのに。
まだまだ身体は中学レベルだってことか。
その後一年生は、全員無限打ちの洗礼を受けたが、みんな結果は似たり寄ったりだった。
女子の一人は、余りの辛さに泣き出してしまった程だ。
全員終わった頃には、お通夜の様な雰囲気になってしまっていた。
「ふむ、これで全員回ったな。酷なことを言う様だが、これが今の諸君の実力だ。だが実際の試合は、今の練習以上に過酷だ。極端な話、ラリーが続く限り無限に休む暇はない。ただ、相手のコートにボールを返し続ける限り、絶対にこちらが負けることもない。諸君にはいつ終わるともわからぬラリーを、不屈の心で戦い抜いてもらいたかったため、この練習を行った次第だ」
なるほどな。
薫子先輩の言うことは、一理あるかもしれない。
だが次の薫子先輩の一言には耳を疑った。
「では次は二周目を始めようと思う。ここからは挙手制にする。我こそはという者は、手を挙げてくれ」
……マジか。
二周目だと。
あの地獄を味わった後で、ホイホイと手を挙げる者は一人もいなかった。
たまにジュラハンで、苦労してモンスターを倒した後に、間髪入れずに二匹目が出てくることがあるが、今の言葉はそれ以上の絶望を俺に与えた。
そんな一年生達の姿を見て、薫子先輩はちょっとだけ寂しそうに俯いて、
「そうか」
と呟いた。
その顔を見た瞬間、俺の中の何かにバチッと火が付いた。
気が付くと俺は、震える手で挙手していた。
「ほう……戸川、足はもう大丈夫なのか?」
「大丈夫です」
俺はさっきと同様、コートの中央に立ち、さっき以上の声で「よろしくお願いします!!」と叫んだ。
「うむ。骨は拾ってやるぞ戸川!」
それは流石にそうなる前に止めてください。
今度は足になるべく負担が掛からないように、動き出し以外では足に力を入れすぎないことを心掛けた。
恐らくさっきはずっと全身をこわばらせていたので、足が耐えきれなくなったのだ。
一周目で体力はほぼカラになっていたので、一分もしないうちに水の中にいるみたいに息が苦しくなっててきたが、薫子先輩が言った不屈の心で、ガムシャラにボールを追い続けた。
その甲斐あってか、明らかに一周目よりも長く続いたが、遂には精魂尽き果てて、コートに膝を突いてしまった。
「よしそこまで!よくやった戸川」
「ひゃ……ひゃい」
『はい』すら言えなくなった俺は、コートの隅に座り込んだ。
だが不思議な達成感がある。
自惚れかもしれないが、今日俺は人として、一皮剥けたのかもしれない。
「ぼ、僕もお願いします!」
俺に感化されたのか、ゲンもコートに立ってラケットを構えた。
「よし、小森の骨は戸川が拾ってやれ」
「よ、よろしくね閃ちゃん!」
いや何でゲンの骨は俺が担当なんですか。
俺はゲンの嫁じゃないんですが。
ゲンも俺程ではなかったが、一周目よりも長く無限打ちを続けられた。
終わった後、ゲンは吐きそうになっていたので、俺は一緒に水飲み場まで行き、ゲンの背中をさすってやった。
結局その日、俺とゲン以外には二周目に挑戦した一年生はいなかった。
次の日には、一年生の数は更に半分程に減っていた。
ある日の放課後。
夕方から学校内で農薬散布が行われるというので、全部活が休みになった。
テスト前以外で部活が休みになるのは初めてだったので、俺は少しだけゲンとだべった後、ウキウキしながら一人で駅への道を歩いていた。
すると駅の手前にある図書館に、江藤が一人で入っていくのが見えた。
何か借りたい本でもあるのかな?
ここで俺も図書館に入っていったら、流石に江藤にキモがられるかな。
いや、でもちょうど読みたい本もあったし、もし江藤と会っても偶然てことにすれば問題ないか。
そう自分に言い訳し、俺はドキドキしながら図書館に入っていった。
この図書館には初めて来たが、意外と本も充実しており、広々とした割には静かで、なかなかいい場所だなと思った。
本を物色するふりをして、江藤を探したが見当たらない。
もしかしてもう帰っちゃったのかなと諦めかけた時、不意に後ろから声を掛けられた。
「あれ?戸川君?」
「お、おう江藤!奇遇だなこんなとこで!」
「そうだね。私はよくここ来るんだけど、戸川君もよく来るの?」
「いや、俺は初めて来たんだ。ちょっと借りたい本があってさ」
「へえ、どんな本?」
「えーっと、その……何かいい感じの終わり方するやつ」
「ふふ、何それ」
天使のように笑う江藤を見ると、何故か俺の鼓動はドクドクと早くなっていったが、江藤の持っている本を見た瞬間、俺はハッとした。
「江藤、その本は……」
「あ、うん……笑わないで聞いてくれる?」
「笑わないよ」
それは獣医学の本だった。
「……私将来、獣医さんになりたいの」
「獣医」
なるほどな。
今まで江藤に対して抱いていた疑問が、全部解けた気がした。
部活に入っていないのは、放課後いつもここで勉強するためだ。
プロの画家にならないのかと聞いた時に、言いかけたのもこのことだろう。
だが父子家庭で獣医学部の大学に行くのは、経済的に厳しいだろうから、スマホを買う余裕もないのだ。
「江藤らしいな。本当に動物が好きなんだな」
「うん、それもあるんだけど……。学校の近くに中村動物病院ってあるの知ってる?」
「ああ、正門前の角を曲がったとこのやつだろ」
「そう、そこで昔、ペットの猫の命を助けてもらったことがあったんだ」
「……へえ」
「私一人っ子なんだけど、小学五年生の時にね、お母さんが病気で死んじゃって。そのすぐ後に『がんも』って名前のペットの猫も、重い病気になっちゃってさ……。お母さんに続いて、がんもまでいなくなっちゃたら私もう生きていけないって、大泣きしてたんだけど……。中村動物病院の院長さんが『大丈夫、絶対助ける』って笑顔で言ってくれて。本当にがんもは元気になったの!去年天寿を全うするまで、がんもは私の大切な家族だったんだ」
「……なるほどね」
「だから私も獣医になって、私みたいな人の手助けになりたいって思って。……おこがましいかもしれないけど」
「そんなことない!凄く立派なことだよ」
「……ありがと。こんなこと話したの、お父さん以外では戸川君が初めて」
「……それは光栄だな」
強がってはみたものの、俺の心の中では劣等感の嵐が吹き荒れていた。
同い年の江藤がこんなにもしっかり将来を見据えているのに、俺は何の目標もなく、毎日ダラダラジュラハンをやっているだけ。
恥ずかしくて、とても江藤の顔を見ていられなくなった。
「ごめん江藤、俺用事思い出したわ。もう帰るな」
「えっ、う、うん。じゃあまた明日ね」
「ああ、また明日」
笑顔で見送ってくれた江藤の顔が、いつまでも頭の中から離れなかった。