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4月目

 次の満月夜は幸いにも晴天だった。

 雲間から時折覗く満月に安心感を覚える。今日はきっと来るはずだ、と思った。

 しかし、来訪者を告げるベルは鳴らなかった。23時を指す時計は無慈悲に時を刻み続ける。


 やっぱり忘れてしまったのだろうな、と思った。彼女は悩みから解放されたんだ、だから私のコーヒーの味も忘れてしまった。きっとあのくるくる変わる表情の彼女で、毎日を楽しく生きているんだ。コーヒーブレイクも必要ないくらいに。

 そう思うと幸せな気持ちになれた。寂しいとも感じたが、私の気持ちなんてこの店のようにちっぽけなものだろう、すぐに消える。


 もう、閉店にしましょう。


 そうひとりごちて重い腰を上げた。まだ少し早かったが、もう待つのにも疲れた。

 外の看板を店内に仕舞い、営業中の札を裏返し準備中にした。最後に外灯の火を吹き消そうとして、少し躊躇う。名残惜しく周囲に視線を走らせた。赤い柱に一瞬どきりとしてしまい、苦笑いをこぼす。こんな時間にくるはずないのに。

 諦めの悪い自分を振り払うように向き直り、外灯に手を伸ばしたその時だった。


「樋浦」


 か細い声が聞こえた。待ち望んだ声。


 喜びに満たされて振り返った私だったが、目に飛び込んできた光景に一気に蒼白へと変わった。


 肩口からいつもより鮮やかな緋色を滴らせたアネモネが、疲れきった顔で佇んでいた。見慣れたエプロンドレスも、普段より赤の面積が広い気がする。


「まだ開いておるか」

 彼女は、へにゃりと微笑む。

「あ、開いてます…じゃなくて、どうしたんですかその傷?!」

「やはり驚かせてしまったか。すまぬな」

 彼女は、自身の異変に大して気を留めていないようだった。その落ち着き払った様子は私をさらに狼狽させた。

「は、はやく手当てしないと」

 私は血が苦手だった。しかしそんなことを言っている場合じゃない。気が遠くなりそうなのをぎりぎりこらえて、思考をめぐらす。

「お、お医者さん!ああ、たしか知り合いの知り合いのお医者さんがとても腕が良いって…」

「心配ない。ほとんど返り血だ」

「かえりちっ…」

 ぐらりと世界が回る。が、なんとか踏ん張って彼女に目をやる。

「その肩は…違うでしょう?!」

「むぅ…」

 彼女は腕を滴り左手を濡らす赤いものを眺め、唸る。

「今日は忙しくてな。急いてどじを踏んでしまった。着替えもできなかった、時間がなくてな」

 アネモネは子供のように口を尖らせ、わけのわからない言い訳をした。

「電話! 私電話してきますね!」

 上手く働かない頭がようやくひとつの解を導き出して、私はそう宣言すると、急いで店内に戻ろうとした。直後、ぐい、と強く服を引っ張られる。

「だから! 心配ないというておるだろう」

「で、でも、そんな、たくさん血が」

「大したことはないし、どうせ治らん」

 きっぱりと言い放つ。何を根拠にそんな頑なに拒否をするのか、わからなかった。

「樋浦のコーヒーが一番の薬だ。淹れてくれないか」

 上目遣いで見つめてくるアネモネの懇願を、断れなかった。私はゆっくりと頷くと、彼女を店内に導いた。

「すまぬ」

 いつものようにふわりと歩み入る後姿を見つめる。ふと気が付いた、彼女の足元…赤いドレスのすそから、銀色の具足が覗いており、明らかな異彩を放っていた。


(戦いをなくすために戦っている)


 ふた月前に聞いた言葉がよみがえる。

 あれは比喩ではなく、直接的な意味だったのだろうか。

 数度の会話を経て、彼女のことをわかった気でいたが、実際名前しか知らないことに気が付いた。

「店を汚すと悪いから、なにか布をくれないか。止血をしたい」

「は、はい」

 わからないから、ただ、彼女の望むものをあげようと思った。


「営業時間をすぎてしまうだろうか」

 いつもの席に腰を落ち着けたアネモネは、受け取ったタオルで肩口を縛りながら、相変わらず的外れな心配をしていた。

「あなたの、気のすむまでいてもいいんですよ」

 私は当たり前のように緋色のカップに注がれたコーヒーを、ミルクで彼女の好きそうな色に染めてやる。彼女は、出されたコーヒーを優雅に口に含むと、幸せそうな顔をした。

「うむ、美味だ。1日の疲れがとれるようだ」

 しばらく無言で味わう彼女に、私も静かに付き合う。やがて飽いたようにカップをくるくるしはじめた彼女は、徐に口を開いた。

「こんな姿で現れたわしを、奇妙だと思ったか」

「それは…」

 ノーと言えばうそになる。返り血と聞いたときは正直怖ろしいとも思った。しかし、…私は苦笑とともに、あっさりと言った。

「ちょっとびっくりしました」

「…樋浦は優しいのう」

 彼の気遣いを見透かしたのだろう、アネモネも苦笑いで応えた。

「奇妙に思われるのはわかっていた」

 カップの液体に目を落とす。

「だが、またひと月待たねばならんと思うと…。忘れてしまう気がしたのだ。

 このコーヒーを美味いと思った、わしを」

 その言葉の意図はよくわからなかったが、わすれてほしくない、と強く思った。けれど、口には出せなかった。


 時折カップを揺らしながら、彼女は濁った白い水面を眺め続ける。

「…聞かないのか」

「え?」

「どうしてこのような姿で現れたのか、聞かないのか」

 目を上げずに静かに問う。

「…知りたくないわけじゃありません、けど」

 俯いたままの彼女は、それを望んでない気がした。

「あなたが自然に話してくれるまで、待ってます」

「樋浦…

 ありがとう」

 ようやく上げた彼女の顔は、安堵の喜びに満ちていた。

 この笑顔を守るためなら、なんだってしようと思った。

 自分が彼女にできるのが、平穏な時を与えることなら、そうしようと思った。

 彼女のことをもっと知りたい、けど、それは、ゆっくり知っていくべきものなのだろう。

 満月夜の不思議なお客様。いまはまだ、それだけで良いと思った。


「ずいぶん長居してしまった」

 彼女は思い出したかのように呟き、宝石をカウンターに置き、立ち上がる。

 もうそんなに時間が経っていたのか。私は あ、と声をあげる。

「なんだ?」

 また前の夜のような気持ちになりたくない。

「あの、…次は、いつお会いできますか。

 次の満月の夜ですか」

 きょとんとした彼女は、しばらく思案したあと、いたずらっぽく笑って言った。

「次は満月じゃない日に来よう」



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