2月目
「コーヒーをくれ。ミルクたっぷりでな」
一月の後、女性は現れた。今夜もよく晴れた満月夜だった。
「いらっしゃいませ、すぐご用意しますね」
笑顔で応えると、彼女も笑顔で返してくれた。
先月と同じカウンター席にふわりと腰を下ろすと、コーヒーを淹れる私の手元をじっと見つめる。
「な、なんでしょう…わ、わたし何かミスでも…」
「うん、いや、そのカップ」
「先月と同じだな」
「あ、そういえば、そうだったかもしれません」
優美なデザインの緋色のカップ、前も彼女に似合うと思って選んだのだった。
「すごく素敵だと思っていたのだ」
子供っぽく笑う彼女に、先月の憂いは感じられなかった。
「マスター、聞いてくれるか?!」
コーヒーをちびちびと呑みながら、彼女は熱っぽく弁を振るう。
「わしは、彼女達のためを思ってやっておるのに…妹達と来たら、まったく言うことを聞かん。姉上はひどいと…。他の仲間たちもそうだ。わしは必死でまとめようとしているのにどいつもこいつも自分勝手にふらふらしおって…。あとで辛くなるのは自分だというのに、それがわかっておらん。きいておるかマスター?!」
「聞いてますよ。妹さんがおられるんですか?」
「うん。2人な。好奇心旺盛でのう、楽しいことを見つけたらすぐふらふらと行ってしまう。危険だと言っておるのに」
「ふふ、若いときはいろいろ経験したほうがいいんじゃないですか?」
「むう。そうは言うてものう…傷つくことがわかっているのに、止めなくてもいいというのか。危ないと言ってやるのが年長者の務めではないか」
「若いうちに、少しは傷ついたほうがいいってこともありますよ。傷ついたことのない子供は、自分の身を守る術を知らないで大人になってしまいます」
「…彼女らは、もう充分傷ついたのだ。これ以上傷つくのは、哀れなのだよ」
彼女がくるくるとカップを弄びはじめたので、私は慌てて言葉を紡ぐ。
「す、すみません、よく知らないのに、勝手なことを言ってしまって」
「あ、いや… こちらこそすまん」
今度は彼女が慌てて顔を上げると、照れ笑いを浮かべた。
「今日は楽しみに来たのだった。つまらん話をして悪かった」
ひとしきり愚痴を搾り出した彼女は晴れ晴れとした顔をしていた。静かに2杯目のコーヒーを愉しむ彼女に、私は声をかけた。
「お客様は、…どんなお仕事をされているんですか?」
もう少しお話をしたかったから、ふと口をついた言葉だった。
きょと、と丸い目を向けられて、またおかしなことを言ったかな、と慌てる。
「あ、その、お仕事大変そうだなと思って… その、いいたくなかったら別に」
その様子にくすりと微笑を向けて、彼女は平然と応えた。
「べつに、構わんよ。…そうだな」
そらをふわりと仰ぎ、呟く。
「法を、つくっている」
「え、まさか、管理島のお役人さん とか…??」
「いや、そうじゃない」
意に沿わない解釈をされたようだ。彼女はよい表現を捜して再びそらを仰ぐ。
「なんというか… 戦いをなくすために、戦っている」
「戦い、ですか?」
「うん」
コクリと一口コーヒーを飲む。
それ以上語ろうとしない彼女に、図らずも間が生まれる。
特に辛そうにしているでもない、ドライな表情だった。さっきまでころころと表情を変えていた彼女と比べると…少し違和感があった。
「私は、戦いは嫌いです…」
独り言のように、言葉が漏れる。
「特に、あなたのような、優しい女性には戦って欲しくない、です…」
カチャリとカップを置く音が聞こえた。
「…優しいだと?」
なにがツボにはまったというのか、彼女はひどく可笑しそうにケラケラと哂い始める。
意外すぎる反応に私は怯えた目でただオロオロとしていた。
その反応がさらに可笑しかったのか、彼女はさらに甲高い声で笑った。
「鬼と呼ばれるわしが優しいとはのう」
ひとしきり笑うと、彼女はそう呟いた。
そして悪戯っぽい笑みを向ける。
「二度とそんなことを言えないようにしてやろうか」
「えっ」
「冗談だ」
本気で恐怖の表情を浮かべた私に、そうさらりと言い放ち、残りのコーヒーを干した。
「ずいぶん長居した。帰るよ」
2杯分のコーヒー代をカウンターに放り、徐に立ち上がる。
「あ、ありがとうございます」
「今日もコーヒー美味だった。ありがとうマスター」
またふわりと帰ってしまいそうな客に、私は狼狽した。
今日も忘れてしまったら、ずっと聞けない気がした。
「あの、樋浦…です」
思い切って発した言葉は、少し上ずったものになった。
「私の、名前…」
彼女は一瞬呆けた顔をしたが、すぐに合点がいったように微笑んだ。
「アネモネ、という」
アネモネ、さん。彼女の名前を口の中で転がす。
彼女のイメージにしっくり馴染む、いい名だと思った。
「樋浦は」
急に名前を呼ばれてドキリとする。
「戦いが嫌いか」
戸口で、彼女がこちらを振り返って見ていた。
「なら、樋浦のためにも戦いのない世をつくろう」
疑問符を浮かべる樋浦に構わず、アネモネは満足そうに笑みを浮かべると、ふわりと去っていった。
去り際に、かすかに、呟くのが聞こえた。
「また満月の夜に」