1月目
満月夜だった。
閑散としている喫茶店のカウンターには一人の客がいた。栗色のウェーブがかった長い髪の、妙齢の女性だった。目の色と同じ深い緋色のドレスが、街角の平凡な喫茶店にはおよそ似つかわしくない高貴さを感じさせる。
女性客は出されたコーヒーにミルクをたっぷり注いだ後、さほど美味しくもなさそうにちびちびと飲んでいた。他にはなにをすることもなくただぼんやりと宙を見ていた。
その憂いを帯びた表情が印象的で…私は自然と声をかけていた。
「お客様、以前もいらっしゃってましたよね」
女性客は思いがけない言葉に驚いた顔を上げた。
「いや、その、この店は身内以外あまりお客様がこないので…お恥ずかしいんですが…それで」
覚えていたんです、という前に女性客は合点行ったように微笑をもらして応えた。
「うん、前の満月の夜かな…」
「ここのコーヒーが美味でな。また来てしまった」
古風な話し方をする人だ、と思った。でも、そのアンティークドールのような容姿には似合う気がした。
「美味しいですか。よかったです。…私まだまだ修行中で、コーヒー入れるの下手で…」
彼女の笑顔が嬉しくて、つい言わなくてもいいことを口走ってしまう。
「安心しろ、充分美味しいぞ。このくらいミルクを入れるのが丁度良い」
淡いアイボリーカラーに成り下がった液体を見て、そこまでいれてしまえば味も何もないだろうと思ったが、気にしないことにした。
「お客様。…なにか、お悩みごとでも?」
女性の驚いた顔を見て、はっとする。突然なにを聞いてるんだろう。
「いやその、つらそうな顔をされてたので…」
しどろもどろな私の様子を見て彼女はバツの悪そうに苦笑する。
「そんなにひどい顔をしていたかのう」
女性はコーヒーカップを優雅に揺らしながら暫くの沈黙に興じる。そして遊びに飽きたようにカップを置くと、ぽつりと呟いた。
「マスター…妙なことを尋ねて良いか」
「は、はい、なんでしょう」
「うん、あのな…」
思案するように目を伏せる。手持ち無沙汰そうな指はまたカップの持ち手をつかんだ。
「…たとえば、なにか…取り返しのつかないことをした罪人がいるとして…
それは許されることではなくて…誰にも、許してほしいひとにも許してもらえず…自分も許すことができず…
その罪人は一生罪人のままなのだろうか」
カップをくるくる弄び、間を紡ぎながら言葉をぽつぽつと落とす。
「その罪人は一生消えない罪を背負い続け、無意味な罰を受け続ける…それはとても辛いことではないだろうか」
本当に妙な質問だった。無配慮に落とされた言葉の断片を必死に拾い集め、その意図を量る。
「その方は、もしかして、あなたの…大切な方なのですか?」
「ふむ… そうだな…」
淡く微笑み、力強く応えた。
「大切な友人だ」
ああ、これは、大きな目方だなぁ、と思った。
「罪人が、罪人でなくなる方法はないのだろうか…」
初めの、ぼんやりとしていたころの表情に戻る。その顔はとても悲しそうで、見ていたくなかったから。
「あなたが、許してあげればいいじゃないですか」
え、と声をあげる彼女に、もう一度言った。
「あなたが、その方を許してあげればいいんじゃないですか。誰にも許されないのは悲しすぎますから、せめて」
あなただけには。
言いかけて、馬鹿なことを言ったものだと思った。なんの解決にもならないのは判っていた。でも、彼女は笑った。綺麗な笑顔だった。
「…そうだな。ありがとうマスター、…コーヒー美味しかった」
女性はコーヒー代の宝石をカウンターに置くと、静かに立ち上がった。
「また、満月の夜に来る」
それだけ言い残し、ふわりと立ち去った。
「お待ちしてます…」
なんだか夢見心地だった。ぼんやりと発した言葉は届いただろうか。
残されたコーヒーカップを片付けながら、そういえば名前を聞き忘れたな、と思った。