淵上今日子の憂鬱
――私はここが嫌いだ。――
――所詮は自己満足や私利私欲で建てたくせに、まるで住民のために用意しただなんて嘯く、この偉い奴らが嫌いだ。――
S県S市。
福祉を尊重し、社会人を手厚く被るその姿勢や、職を持つ人間に対しての快い公共の在り方を街として徹底的に力を入れた事が功を奏し、最近では職を持つ人間が住みやすい街というアンケートでは堂々の1位になるなど、人の住みやすい街である象徴としてよく認識される街である。
人々で活気溢れる道。
空を穿つ勢いでそびえるビルの森。
公共がよく行き届いた街並み。
緑の色は看板やら電光掲示板、または道路に付された花壇に備えられた申し訳程度の草花であるあたり、森林や自然などといった環境保全より、人の生活を優先的に育った都会だと言ってもいい。
なんとも今のご時世には似つかわしくもない、人類の優先順位がいささか高すぎるこの街には、少なからずとも批判の声もあり、自然の保安活動などの疎さを突くものや時遅れの成長の仕方だなどと舌鋒鋭く痛々しい意見を放つ評論家を他所に、ただこの街が人類的であるにしても成長した、果ては大成功に至ったことは事実であり、変えようのない真実なのだ。
ここ数年での街としての伸び上がりも著しく、鯉の滝登りという熟語が良く似合う成長ぶりであった。
ここ最近のテレビでは、この街の成長に携わった市長が色々な場面でインタビューに映る。
特段偉そうでも何でもない、言ってしまえば本当に街中で見かけそうな程の一般人よりなおっさんが茶の間を占領し、尚も都市計画の事案を語るその様子は、数十年前であれば物珍しくも街の発展に期待を寄せたのに対し、成功を収めて都会へと発展していった今では、この事案はそう珍しくもなく、朝が来れば起きるように、夜中になれば寝るように、そういう段階並の『当たり前』になってしまっていた。
因みに福祉を尊重して稼働する市営の数々が推薦され、増えていく要因となった人物も現市長であった。
彼が街を良くしようと行動すれば、会社や企業もそれに添い遂げるその様には彼の役職の重さがうかがえる。
兎にも角にも、街としての発展は願ったり叶ったりである。
もともとこんな街を望んでいたかどうかなどは民衆に聞くしかないのではあるが、結果として、望まれる街には成長しているのだ。
――街としては確かに成長したんだろう。――
――けど、その代わりなにか大切なものとかが消えちゃったんじゃないかって思う――
――たとえば……そう、モラルとか――
望まれる街にはなってはいる。
だがしかしどうだろう。
もしこれが表面上のものであり、『街の中』はどうなのか。
表面だけを見る、という言葉はその字のごとく、表面だけでしか語れてないことを示す。
つまり、表面のみ才色兼備な人材を用意したところで、その表面だけを信用していたら足下を救われる事さえあるという事だ。
少なからず、小さな小話程度でついた豆知識モドキには妄想の産物が入り交じっていることもおおく、全てを鵜呑みにしてしまえば、餌に潜っていた毒さえも気づかずに飲み込んでしまう最期を辿る。
疑うことを知らなければ、その一生さえ棒に振るうことになると言っても過言ではなく、冗談を抜いても過去幾度となく類似したシチュエーションですべてを棒に降るった事故は数多とある。
ハレー彗星の接近時に空気が全てなくなる、などと言うのもいい例ではなかろうか。
当初はある異国の科学者の『説』でしかなかったものが、来日するなり日本国民を恐怖に陥れた、最高のデマだった。
周知の沙汰であるのだろうが、噂というものは流れやすいものなのだ。
異国で放たれた根拠を持たないただの『説』は、いつの間にか日本にわたり、虚偽上ではあるが『真実』と捉えられ、結果としてタイヤのチューブがしこたま売れていく始末、ある家庭では5分間息を止めるよう風呂桶で特訓するなどとなんともシュールではあるが当時で考えれば笑えない真剣な修羅場が全家庭平等に割り当てられたのだ。
さて、上記から察するに、表面のみを、またはローカル新聞だの観光地だのの受け売り紛いな雑誌から得た知識だけで、この街の本質を全て語れるのだろうか。
一言一句間違えずに評価できるのか。
この評価、または批評を唱えることが出来るのは、実際にここに住んでみた、来てみたという住民やその他でしか語れないことではないだろうか。
来ただけでは、滞在時間は経験の都合によって個々で異なってくるので、やはり望ましいのは住民である。
住民でしか知らない事実は、掘り下げられてない事実はまだまだあるものなのだ。
だからこそ、だからこそ『彼女』は言い切って見せた。
『私はここが嫌いだ。』と。
この街に住む住民として、彼女は言って見せたのだ。
実際には心うちに叫んだ程度なのだろうが、しかしそれでも充分な自らの意見であり、尊重すべき表に出てない街の批評なのだ。
ではなぜ批評を呈示したのか。
この批評は、街に向けて言い放つと同時に、彼女の周囲を埋める人物達の本質的な部分を、諸共糾弾する内容である。
――田舎から徐々に、最近では著しく発展していったがために起きた悲しい事実なんだろうけれど……――
――私が親から聞く限り、とうの昔、コンビニの影も少なくてビルの一つもない時代、田んぼや川に覆い尽くされるという、今では到底想像出来ない景色が奇しくもこの地域に如実されていた時代には、住民達による『民度』は互いに助け合い笑い会える、初対面の相手にさえ親しくやり合える時代だって言ってたのに――
――今のこの街にはそれがない。排気ガスやら喧喧囂囂とした大通りに田んぼの一つもなければ品の欠片もない車の騒音――
街が発展すれば、人口が増えるのも自然の理である。
より住みやすい環境へと流れ始める人の波は、より最先端を求めて注目を集める街に移ったりすることなど、今で言うなら別に珍しくもない。
そして活気づけが目的の市運営は、住民の期待と、未だ訪れない他方の人間を呼び寄せるため、双方の意見を併用して人権的な環境や職業的な支援を大胆にも改革し始めていくのだ。
互いが互いを呼び、呼ばれて近づく関係に存在するのなら、やはり吸い込まれるように街に移住することは言うまでもないのだが。
そうだとしても、避けられないもう一つの『理』が存在する。
それが――
――自然と崩れていく『民度』――
――人が集まるところは何故こうも民度が落ちていくものなのだろうか。関連性が見当たらなくとも、自然の摂理のように、当たり前のように少しずつだが確実に崩れていっているものなのか――
だからこそ。
――街を変えたやつが嫌い。街で知能の低さを露呈する奴が嫌い。人の事を考えないやつが嫌い。自分一番なわがままが嫌い。人の波に飲まれて自分まで染めあげられる軟弱が嫌い。何の目的もなく見下す輩が嫌い。感情だけで暴力を振るうやつも嫌い。嫌い、嫌い――
嫌い。
学校内でも嫌な思いでの一つや二つはある。
さっくりいってしまえば、いじめというヤツである。
だからこそ、親に前の時代でもそうだったかとか、祖父母に聞いたのに、まるで想像していた返答とは違うものだった。
互いに強調し合う、そんなやりとりさえ街中で見かけなくなり、独りよがりにチャラチャラした青年や、ところ構わず化粧やらゴミを落としまくるギャルを見ると、話自体が御伽のように思えてくるほどだ。
なぜ私たちの世代で、そんなおとぎ話の世代を味わえないのか。
何が、御伽の世界観からこうまで変化させてしまったのか。
――だからこそ嫌いなんだ。――
私は。
――この街が――
嫌いである。
私、『淵上今日子』は、真っ向からこの世界を、表向きの世界を否定したい。
『表向きの世界』だけを………。




