プロローグ
プロローグ
「ハッ……ァア!!ハッ………ハァッ…」
荒々しい吐息が、静まった街の大通りから聞こえ始める。
続いて荒々しく品のないバタバタとした足音。
アナログチックな光で包まれた道を、何かが走り抜けていく。
必死の形相で、今にも泣き出しそうな顔で。
『何かに追われているような形』で、青年は走り抜けていく。
寝静まった夜中。
月明かりの代わりに、人工的に作られた灯りがその身に電気を帯びてその周囲を照らす。
月明かりという純自然な物体が作り出す柔らかな明かりと比べて、幾許かぎこちない明色ではあるが、その実、その街灯があるからこそ、深夜であれ夜道が格段と鮮明に見えることは嘘ではない。
準都会と称されたこの街でも、時計の針が午前1時を指し示したあたりから、人だかりは瞬く間に散り、飛び交う喧騒もやがては沈黙と化す。
ビルとビルの間に立ち並んでいた屋台も既に店を畳んでいるらしく、帰宅途中のサラリーマンやただ単に酒を浴びりに来ていたご老父という客層で賑わい、その雰囲気を盛り上げるように赤々と輝いていたはずの屋台提灯でさえ、萎れたように暗色の中に飲まれていた。
とても2時間前まであれほど人が溢れかえり、その活気溢れる言の数々が反響していたとは思えない、あまりにも出来すぎた静けさ。
ある所では喧嘩なのか、若者同士が怒鳴り合う声であったり、ある所では、三十を超えたサラリーマンの下世話な話であったり、ある所では、路地裏で集い密かな集会を始めるアウトローの衆であったり。
形はどうであれ、そのさながら祭じみた大騒ぎがあった場所が、行われていたはずのこの中心区が、たった今『午前2時』を持ってして言えば、街自体が深い眠りについたように、静寂だけを貫き通している。
これほど不気味なことはないだろう。
まるで知らない街のようだ。
いや、どの道を見ようと、どの道に行こうと、きちんとそこには自分の思い描いていた道がある。
既知の道であるからそれは当然なのだが、これは同時にこの街はちゃんと『いつもの街』であるという確かな証明なのだ。
当たり前の事実を、深刻な面持ちで、いや、鬼の形相をしながら頭中で思考する。
酸欠になり始めた脳で、酸素を求める肺で、休憩を望む心臓で、立ち止まりたい両足で、振り切れる道を探す眼で、危険を常に察知している感覚で。
背筋が凍てつくその気配を背後に、青年は考える。
体全体を酷使しながら、考える。
自らが何故こんな目に遭っているのかを、これまでになく真剣に。
周囲には、あいも変わらず人影の一つもなかった。
ポツリとただ1人世界に残された生存者の気分にもなる。
街灯の灯り日でさえ、見るに耐えない寂寥感を与える程だった。
自らの両足が地面を力強く踏みしめる音と、日頃の運動不足に深い後悔を表した、大きく脈打つ心臓と、掻き分けるように何度も何度も繰り返す呼吸、それだけが今の青年の拾う『音』だった。
そのほかの音など聞こえはしない。
特に……『背後から続く足音』など………どれだけ走ってもつけ続ける、謎の正体の存在を青年は、どうしても肯定したくなかった。
大通りを走り抜けると、今度は路地裏へと入り込む。
敵方を巻けるまで身をひそめるという常套手段な訳だが、路地裏自体が光を有する物体に疎いおかげで、あまり奥に進んでしまえば道に迷ってしまうという可能性が、だからと言って奥に行かなければ、すぐに見つかってしまうだろうし、狭い路地裏内では抵抗できる術がほとんどなくなってしまう、そんな頭中に湧いた双方の意見がぶつかり合い、青年の行動を一瞬だけ遅らせる。
だがしかし、彼の葛藤など意に介さない謎の気配は、まるで彼を急かすように近づいてくる。
「クッソが!」
舌打ちとともに、小さく毒づいてなりふり構わず奥の方へと走り出す。
キリキリと締め付けるような心臓と、もう吊り始めた太ももに、思考的に麻痺し始めた脳。
字のごとく必死で足を動かし続ける青年ではあったが、恐怖や酸素不足、また理解し得ない非日常が下に、彼は普段なら起こさないはずの『失態』を犯してしまった。
「……ッ!!」
『行き止まり』である。
ある程度路地裏の構図を知っていたからこそ、ここで巻く手筈だったのだが、体を使って辿った『勘』は、ついには『勘違い』として現実に突きつけられたのだ。
しかし、路地裏を走り回れていただけでもよく出来たほうだろう。
見返してもそこには灯りという灯りはほんのりと光るランプ程度しかなく、足元下は文字通り暗中模索である。
何かに躓いてコケなかっただけでも上出来だった。
荒れて収まらない呼吸を抑えるために、果ては暴走しそうな理性を保つために、ゆっくりと壁にもたれかかる。
考えてみれば、やつはこの路地裏に慣れていないのかもしれない。
素人がここに潜り込むと、最悪半日は同じような建物の周りをさ迷うことになると言われているほどに複雑な路地裏だ。
それに足下だって、整備されていないおかげでゴミが散乱し、確実に足止めになる程度にはあったはず。
行き止まりということはある程度の知識深いところまで到達はしているようなのだ。
『ヤツ』がここまで入り込める可能性が高いわけでもない。
そう、思いこみたかった。
『次の瞬間』が来るまでは。
なにか、踏みしめる音があたりに響く。
我関さずと立ち尽くす建物と建物とで、音が様々な角度から反射され、変に共鳴し始める。
無論、この踏みしめる音を発したのは彼ではない。
彼は壁にもたれかかっていて、今でも息を潜めようとしていたところなのだ。
踏みしめる意味がない。
答えは、青年の恐慌した表情の先にあった。
恐怖で爛々と輝く彼の目に映った『ヤツ』とは。
灯りに触れず、暗闇自体が本体であると言わんばかりの、しかしそれでいてそこにしっかりとした存在を漂わせる、『何か』。
人なのか人ではないものか、それさえはっきりと掴めないその正体は、ただただ暗闇に擬態するように、確かにそこにいる。
さっきまで全速力で走っていた彼を、同じような速さで追いかけ回していたはずのこの『何か』は、まるで先程までの徒競走を意にしてもいないのか、荒れてもいない単調な呼吸の下、こう言い放つ。
『……ざいじょう を のべよ』
「ヒッ……!」
『何か』が発した声は、あまりにも存在とは真逆の、つややかな声だった。
しかし、生気にあまった声だからこそ、この闇のような存在への恐怖を際立たせる。
人……であることは決定した。
純粋に人の声であり、その声色から、この正体が年いかない人間であることがわかる。
冷静に考えさえすれば、取り押さえて無力にすることだって出来たかもしれない。
普段の彼ならそう思ったはずなのだが。
今に至っては、彼にとってそのような考えは毛頭なく、たとえ考えついたとしても馬鹿げたことだと実行できなかっただろう。
今の彼には逃げることしか浮かんでこない。
彼は対抗することなど、どうでも良かったのだ。
―罪状ってなんだ?俺が何したってんだよ。確か今日は12時に後輩から可愛い娘がいるって呼ばれて、しかもその娘を好きなようにしていいなんてメール来たからきたんだ。確かにその娘は可愛かったし俺の好みだった。後輩も笑いながら何してもいいとか抜かしやがるから持って帰ろうとしていた。いや、それだけだ。未遂も未遂。俺は犯罪を犯していない、言及するなら後輩達だろ!あいつらは数人で囲んであの娘をあそこに呼び寄せたんじゃねえのかよ。じゃああいつらが悪いんじゃねえか。俺は悪くない。何もやってない、無罪だ。罪状ってなんだ?あいつらが俺を陥れるために仕組んだ罠?確かにありかもしれねーけどあいつらが俺を売る理由って一体……今までの俺がやってきた万引きとか、ひったくりとかそういうのに天誅だとでもいいたかったのか?いや、つかあいつ昨日、厳密に言えば一昨日にコンビニで万引きしてバイトのやつに捕まってたらしいじゃねえか。アイツ自体も犯罪やってんじゃねえか。だいたいあいつらはいい子ぶる奴が嫌いだって質だったろ。そんな奴らがこんな真似を、犯罪者に裁きをとかやるか?じゃあ何なんだ。何もやってないだろ。罪状ってなんだ、罪状ってなんだ、罪状ってなんだ―
「なにも…………してねえだろうがよォオオオ!!」
『はんせい かいしんのよち ともになしか。 では しょばつする』
男の理性がはちきれて、たまらない叫びをあげたとともに、闇は手らしきものを振りかぶる。
暗闇に近い路地裏であっても、しっかりと認識できた、闇の手らしきものの先に煌めく光。
それが包丁であることに気付いた彼の脳内には、また別のイメージが流れ出す。
『学校 高校生 帰宅時 通り魔 刃物 体の数カ所に刺し傷 意識不明の重体 現在も……』
――捜査中。――
彼が事の真相に、最近街に出没した通り魔に身体の複数カ所を刺されたという事実を知ることになったのは、数日後の病院のベッドの上であった。




