第七章 赤と黒 第二話
深夜、レオンの元をアルフリートが訪れる。各国の来賓やプロタリア貴族との様々な面談で忙しい二人は、日付けが変わってからやっと密談の時間を作る事が出来た。正念場とも言える明日の昼食会、そして午後に行われる皇帝の墓碑への参拝が済めば、公式行事は全て終わりとなる。今夜中にどこまで手筈を整えられるかが勝負だとアルフリートは考えていた。
数人の共を従え現れたトランセリア国王を、レオンとカイン内務大臣、そして老齢の外務大臣がにこやかに出迎える。アルフリートはメレディス将軍、アイリーンとシンを含む護衛の騎士を幾人か伴った。ヴィンセントはリサと共にエリザベート皇女の私室付近に出向き、レイナードはミハイルの動向を探る。ロベルトはイグナートの警戒に当っており、メレディスの副官タウンゼントが護衛の指揮を執っていた。
レオンはアイリーンとも丁寧な挨拶を交わす。イグナートの王女が駆け落ちの末トランセリア王宮の一員となった一件は、各国宮廷の格好の噂話となっており、特に歳若い侍女などはそのドラマチックなロマンスに夢中になった。レオンは姉妹である三人の王女達から、是非彼女に話を聞いてきてくれと半ば強制的に言い渡されていたのだが、アルフリートとの密談が深刻な内容であると予想されるだけに、ここでその事に触れるのは躊躇われた。二人は行儀良く型通りの言葉を交わすのみに留まった。
ソファーに落ち着き、レオンとグラスを合わせ、酒で口を湿らせたアルフリートはさっそくジャブを繰り出す。
「レオン様、ハウザー皇帝陛下の死因は自殺と発表されましたが、…どう思われましたか?」
レオンはいきなり突き付けられた問いに数瞬ためらった後、こう答えた。
「……一報を聞いた時はおそらく嘘の情報だろうと考えましたが…、今はほぼ事実だと調査が済んでおりますので。…ただ理由まではなかなか、閣僚内からも様々な意見が出たのですが推測の域を出ません。後継者問題に絡む事だけは間違いなかろうと考えてはいます」
先生の質問に答える生徒のように、若い王子は真面目に答える。アルフリートはその素直さに思わず言う。
「満点。…おっと失礼、その真相についての証拠があるとしたら、グローリンドは我が国と共闘していただけるかと問うたら…、王子如何なさいますか?」
レオンは一瞬両大臣を振り返りそうになるが、かろうじてそれを押し止め、しばらく考えた後口を開く。
「……証拠に…よると思います。…いや、陛下が信じておられるのなら、…私自身はその立場にありませんが、イエスと答えるのが正しい判断かと…」
彼なりにかなり言葉を選んだのだろう、その返答にアルフリートは優しく微笑み、傍らに腰掛けるメレディスをちらりと見ると言った。
「ごめん、やめよう、回りくどくってダメだ。レオン、駆け引きはやめだ。証拠がある、協力してほしい。いや…俺達はそうせざるを得ないんだよ」
突然口調の変わったアルフリートに、メレディス以下トランセリア側の人間が一人残らず頭を抱えてため息をつく。シルヴァがいたらお説教が始まっていたかもしれなかった。その様子を楽しそうに眺めていたレオンがにこにこと言った。
「陛下、待ってましたと言わせてもらいます。トランセリア国王のべらんめぇは王宮では有名ですよ」
アルフリートも嬉しそうに言う。
「そりゃ助かる。事が複雑なんで言葉を飾りたくないんだよ、まずはこれからだ」
懐からレイナードの入手した証拠の品を取り出し、声を潜めて説明を始めるアルフリート。じっと耳を傾けていたグローリンドの三人は、話が進むに連れ次第に表情を固くする。やがて話し終えたアルフリートがグラスの酒を飲み干すと、レオンは絞り出すように言葉を発する。
「……陛下、その…割り符の所在が最も重要だと思われますが、予想はついていらっしゃいますか?」
「うん、さっきこれを使った。カイン、分かるかい?君の意見を聞きたい」
アルフリートはいたずらっぽく笑いながら、首から下げたコインを引っぱり出して見せる。いきなり話を振られた内務大臣はびっくりしながらもすらすらと答えてみせた。
「はい、証拠の片割れは恐らくもう伯爵の手元には無いでしょう。誰か信頼出来る人物に預けたものと考えられますが、最も安全だと思われるのは…エリザベート皇女かと。恐れ多くも皇女の寝室にそうそう他国の人間が入り込めるとは思えませぬ故。もちろん事情は知らせずに、何か理由を付けて贈り物の様な形で手渡したのでしょう。…そのペンダントはわざわざお造りになられたので?」
「大正解。王立工匠特製、縁結びのペンダント。エリザベートを引っ掛ける為にじいちゃんに作ってもらった。…すごいなぁカイン、ウチの宰相に欲しいくらいだ。来ない?」
あまりにもふざけ過ぎだと思ったのだろう、普段はうるさく言わぬメレディスが小さく咳払いをした。カインは苦笑しながらも答える。
「お褒め頂いて恐縮ですが、トランセリアにはユースト様という名宰相がおられるでしょう。あのお方と張り合う力などとても持ち合わせておりません。それに私は国に妻が待っておりますので」
目の前で腹心をスカウトするアルフリートに目を白黒させながらも、レオンは真面目に問い掛ける。
「エリザベート様から聞き出せたのですか、陛下」
「ああ、結婚式まで持っていれば幸福な人生を送れると言って渡されたそうだよ、事実は全く逆な訳だけど。可愛らしい女心を弄びやがってあのクソ野郎が……おっとっと、失礼。さて、明日の計画を少し話しとかないとね…」
ますます声を潜め、両国の五人はひそひそと話を続けた。深夜、プロタリア王宮のあちらこちらで、各国のこのような密談が交わされているのは間違い無かった。
小さなランプがほの暗く周囲を照らす薄闇の中、重なり合っていた二つの人影がゆっくりと離れた。名残惜しげに口付けを繰り返し、男の胸に顔を埋めた女は囁く。
「……もう、お会いしない方が、…良いのではないですか」
「……何故そんな事を言う。これからが大詰めなのだ。最期の仕掛けを成功させれば、そなたともこんな風にこそこそと会わずともよくなる。共に暮らせるようになる」
「けれど、皇帝陛下は自害なさったと聞き及びます。……もう、何もかも露見しているのではないのですか?」
「そなたは何も心配せずとも良い。後は全て俺に任せてくれれば……。もう、あんな辛い目に遭わせたりなどしない。望まぬ事を無理強いなどさせない。ただ、時が過ぎるのさえ待っていてくれれば良いのだ。もう少しだ。もう少しなんだ……」
お終いの方は自分に言い聞かせているように呟く男を、女は悲しげに見つめ言った。
「あなたは、なんだか……、少し変わってしまわれた」
「……そんな事は無い。俺は何も変わってはいない、あの日のままだ。……今でも、変わらずにそなたを愛している。…あの時以上に、愛している」
激情に駆られた男が女の細い身体をきつく抱き締め、しなやかな長い髪を撫でる。長い口付けに身を委ねた女の目がかすかに潤んだ。やがて、そっと立ち上がって男は暇を告げる。
「時間があまり無い。もう行かねばならん。……少し間を置いてここから出てくれ。帰り道は分かるな?」
女が小さく頷いた事を確かめ、指先でその頬を愛しげになぞると、男は暗闇を扉へと向う。立ち止まり、振り向いて男は言った。
「また、すぐに会える。もうすぐだ」
静かに閉まった扉を、女は身じろぎもせずじっと見つめていた。ひと雫の涙が頬に流れる。訳も無く悲しかった。二人が初めて会ったあの夜の、男のはにかんだ笑みを、照れくさそうに自分を見つめる優しい瞳を、もう二度と見る事は出来ないのだと、それだけが女の心に確信となって刺さっていた。
アルフリート一行が密談を終え、レオンの部屋から廊下に出る。さっそくメレディスが国王に話し掛けて来た。
「陛下、レオン殿下もなかなかの人物ですが、…あの男、切れ者ですな」
「ああ、カインだね。ユーストあたりといい勝負になりそうだな。まぁあんなにこすっからく無いからある程度予想できて少しはマシかな?…そうだメレディス、あれ持って来てる?明日の昼食会に持ち込めるかな」
「用意は致しておりますし、折り畳めますので可能ではあると思いますが…、使う事態になりましょうか」
「そうならないように祈るしかないけど。う〜ん、向こうも色々仕掛けて来ると思うからなぁ…」
「心得ました、いざと言う時はお任せを」
「うん、頼む」
一同が暗い中庭沿いの廊下に差し掛かる。月も出ておらず、黒々とした木々の影が闇夜にかすかに浮かんでいる。護衛の騎士達が一様に緊張を見せた時、アイリーンが声を抑えて警戒を促す。
「庭に人の気配がします。…五…十人近くいます、お急ぎを」
アルフリートとアイリーンを囲むように、メレディス以下の騎士達は歩を速めた。皆剣の束に手を掛け、シンは鉄棍を構える。歴史を重ねたプロタリアの王宮は、古い建物と新しく建てた部分とが複雑に入り組み、時には狭く暗い通路を抜けなければならない事もあった。
中庭を抜け、廊下の角を曲る。壁に掛けられたランプの炎が消えているその真っ暗な長い廊下に、メレディスは一瞬躊躇する。本来なら挟撃の危険があるそのような場所は避けるべきであったが、彼等は宮廷の地理に不案内な為、迷路の様な建物内を地図を片手に移動しており、別のルートを探すのはかえって危険が増すように思われた。
さしもの将軍もここにはいないディクスンの顔を思い浮かべる。驚異的な記憶力を誇る寡黙な第一軍司令官は、地形や建物の構造の把握に優れた才を有し、それ故に国土防衛の責任者の職に就いていた。彼なら初めて歩く場所でも、予めインプットした情報で住み慣れた我が家のように的確なルートを探し出すに違い無かった。
尚も足を速める一行が廊下の中程に差し掛かった時、何かを感じ取ったメレディスが静かに剣を抜く。それとほぼ同時にアイリーンが叫ぶ。
「陛下!殺気です!…前から五人!……後ろからも…五…もっといます!シン!」
騎士達が一斉に剣を抜き放ち、背中合わせに国王を守る。アイリーンとシンがアルフリートに張り付き、メレディスが命令を下す。
「全員二歩前へ、陛下まで剣を届かせるな。陛下、壁にお下がり下さい。シン、お二人を頼む」
大勢の足音が近付き、剣の反射するかすかな光が見える。賊は黒っぽい服装をしているらしく、姿はほとんど確認出来なかった。アイリーンは意識を集中し、可能な限りの情報を伝える。
「前五人、後ろ七人です!…甲冑は無し、武器は剣。…来ます!」
その声を聞いたタウンゼントが相対する人数を合わせる為に後方へ走る。メレディスの全身から凄まじい闘気が立ち昇り、滅多に聞けぬ彼の大声が響く。
「一歩も退くな!陛下の御身に傷一つ付けてはならん!」
剣を握りしめた宮廷騎士団最精鋭の騎士達に、黒ずくめの男達が殺到する。たちまち乱刃が交錯し、狭い廊下に刃鳴りの音が響く。暗闇の中ではお互いになかなか致命傷を与える事が出来ず、人数で倍する敵の攻撃を、廊下の狭さを利用し彼等は良く防いだ。その騒乱の真只中、シンの背中に守られたアルフリートは、何やらごつごつと壁を叩いていたかと思うとふいに叫ぶ。
「シン!ここだ!壁を抜け!…金の事は気にするな!」
この期に及んで弁償の事など考えているのは彼だけだったろうが、シンは迷わず鉄棍で壁を打つ。ずん、という鈍い音と共に時代物の豪華な壁面にみりみりとヒビが入る。アルフリートとシンがタイミングを合わせて蹴りを入れると、人ひとり通れるぐらいの穴がぼこりと開き、埃が舞う向こう側からぼんやりと光が漏れた。腕力に物を言わせてシンがさらに穴を広げ、立って通れる程になったそこにアイリーンと飛び込む。
「開いた、全員続け!」
アルフリートが叫びと共に二人に続くと、部屋の中からとんでもない音量の女性の悲鳴が沸き起こった。
「きゃあぁーっ!…ななななにあんた達!」
「なんなのすけべっ!…衛兵呼ぶわよっ!」
「きゃあっ!剣持ってるわっ!」
彼等が飛び込んだその部屋は、宮廷の侍女達が臨時で使用していた控え室であった。十人近く居た彼女達は仕事も終って後は寝るばかりであったのだろう、皆薄物の夜着やら下着姿やらのしどけない格好をしており、突然の侵入者にきゃあきゃあと大騒ぎとなっていた。
普段は空き部屋であるその部屋は、こういった大規模な式典の時だけに使われているらしく、人気の無い通路を選んで襲撃を仕掛けた筈の賊の男達も面喰らい、たじろいで一瞬隙を見せる。それを見逃さず騎士達はするりと部屋の中に滑り込み、メレディスは扉に突進し退路を確保する。若い女性の叫び声に戸惑いながらも、唯一の通路となった穴を守り剣を振るう騎士達。彼等を呆然と見ていた侍女の一人がアルフリートに気付いた。
「ひょっとして……アルフリート陛下ではありませんか?」
「うんそう、ごめんね驚かせちゃって。もうすぐ衛兵が来ると思うからちょっと我慢してね」
相変わらずの口調でそう答えるトランセリアの若き国王に、別の意味合いを持つ悲鳴が上がる。
「きゃあ〜ん、本物ぉっ!」
「うっそ可愛い〜」
「陛下〜助けてぇっ!」
彼女達は口々にそう言ってアルフリートにしがみつく。そんな場合では無いのだがむげに振り払う訳にもいかず、まんざら悪い気もしない彼はされるがままになっている。侍女達はどさくさにまぎれてシンや若い騎士にも抱き着き、彼等を真っ赤にさせている。良く見れば彼女達はちゃっかりと若い人間を選んですがりついており、四十を越えたメレディスや三十半ばのタウンゼントには一人もまとわり付いてはいなかった。
片方では激しく剣が交差し、片方では女性の黄色い悲鳴が巻き起こる混乱のさなか、冷静に意識を集中していたアイリーンは、間違えようの無い人物の気配が恐ろしいスピードで近付くのを察した。
「陛下!レイナード様が来ます!」
「ナイス!」
アルフリートがそう言い終わらぬ内にレイナードが賊の集団に一撃を放った。狭い廊下や壁の穴越しでは互いに剣がうまく振るえず、賊の数もほとんど減っては居なかったが、レイナードにとってそんな事は問題にならぬようであった。
ごう、という音が聞こえる程の凄まじい一撃が、防いだ剣ごと賊の首を跳ね飛ばす。目に見えぬ速さで倭刀が空間を切り取る度に、そこに居た人間の身体が二つに分断される。眼前でそれを目撃したタウンゼントら宮廷騎士達は、次元の違うその剣技に背筋の凍る思いを隠せなかった。後にタウンゼントは述懐する。『レイナードだけは別格だ。シルヴァ様やウォルフが化け物だとしたらあいつは悪魔だ、人間じゃねぇ』
アルフリートは予想を遥かに超えたレイナードの強さに慌てて叫ぶ。
「レイナード!殺すな!口を割らせる!」
タウンゼントが力無く答えた。
「陛下…もう遅いようです」
騎士達が侍女の部屋から持ち出したランプを手に廊下に出ると、そこはかつて人間だった物が転がる血の海となっていた。暗闇の中、瞬く間に十二人の敵を屠ったレイナード一人が息も乱さずそこに立っている。アルフリートはしかめ面で廊下を覗き、彼に声を掛ける。
「……レイナード、来てくれて助かったけどさぁ、皆殺しはまずいよ」
修羅場の只中でも変わらぬ国王の口調に、人間の形をした悪魔はかすかに口の端を持ち上げ、言った。
「大丈夫だ、こいつは生きている」
彼が靴の先でごろりと転がしたその男だけは、確かにまだ首と胴体がくっついていた。
プロタリアの衛兵が多数駆け付け、狭い廊下は騒然としていた。警護の責任者である将軍や閣僚も姿を見せ、事情を知った彼等はアルフリートに平謝りする。その中にグスタフ将軍の姿を見つけたアルフリートは彼に近付き、そっと囁く。
「…グスタフ将軍」
「陛下、このような事態を招いてしまい誠に申し訳ございませぬ。軍を束ねる立場として心からお詫び申し上げまする。亡き皇帝陛下にも顔向け出来ませぬ」
沈痛な顔で謝罪する老齢の将軍に、アルフリートはにっこりと笑い掛け、言った。
「いえいえ、被害も大したものではありませんでしたので、あまりお気になさらず。……そうですね、一つ貸し、ということでよろしいですか?」
「…はい、そのようにおっしゃって頂き誠に有難く、直ちに王宮の警備を固めさせます故、どうか御容赦を」
うんうんと鷹揚に頷いたアルフリートは、事後処理をタウンゼント達に任せてさっさと引き上げる事にした。トランセリアの騎士達も十数人が到着し、一同はやっと肩の荷を下ろす。部屋を壊された侍女達も既に別の場所に移動したようだった。
何重もの護衛に囲まれ、すたすたと歩き出すトランセリア国王をプロタリア閣僚が深々と頭を下げて見送る。王宮内で他国の国王に何かあれば国際問題であり、どれだけ賠償金をふんだくられるか知れたものでは無く、下手をすれば戦になる可能性すらあった。アルフリートが傷一つ負わなかった事に、彼等もほっと胸を撫で下ろしていた。
アイリーンが静かに口を開く。
「陛下の御身に何事も無く本当にようございました、大変緊張しました」
「うん、ちょっとびっくりしたなぁ。みんなにもひどい怪我が無くて良かったよ。……アイリーン、どうかした?」
何故か少し不機嫌な表情のアイリーンにアルフリートは訊ねる。
「……陛下、…シンも、…香水の匂いがきつくて」
たくさんの侍女達にべたべたとまとわりつかれた彼等の服には、安物の香水の匂いが染み付いてしまっていた。常人より嗅覚も鋭いアイリーンにはそれがはっきりと分かってしまうのだろう。アルフリートはともかく、夫であるシンから他の女の匂いがすることに、彼女はちょっとおかんむりのようだった。
慌てて自分の服をくんくんと嗅ぐ二人を、メレディスがにやにやと眺め、国王をからかう。彼自身は抱き着かれていないのでセーフだと思っているらしい。
「陛下、シルヴァ様には内密にしておきますので…」
「………う、うん。…頼む」
馴染みの宮廷騎士達に囲まれ、やっとアルフリート以外のメンバーも軽口を叩く余裕が出来たのだろう、そのやりとりに笑いを噛み殺す護衛の騎士達。彼等の内最も若い二十歳そこそこの騎士の頬には、赤い口紅の跡がこってりと残っており、本人以外は皆それに気付いていた。いたずら心を起こした彼等は誰もその事を教えてやらず、そのまま詰め所に戻った彼は女性騎士達から顰蹙を買うのである。
居室に戻ったアルフリートの元に、青い顔をしたヴィンセントとロベルトらが飛び込んで来る。
「陛下!ご無事で……良かったぁ〜」
「何処にもお怪我はございませんかっ?大丈夫ですかっ?」
「まぁまぁ、俺はなんとも無いから。怪我をした騎士が居るから休ませてやって」
国王のその言葉に安堵した二人はがっくりと椅子に座り込む。アルフリートに怪我でもさせたらシルヴァがどれ程怒り狂うか分かったものでは無かった。二人はシルヴァが見た目以上にアルフリートにベタ惚れである事を察しており、無事の姿を見るまで胃の辺りがきりきりと痛む程心配をしていた。
何事も起きておらぬかのように、部屋の隅の椅子に静かに腰掛けていたレイナードが口を開く。
「陛下、俺がミハイルを見張っていた事が気取られたと思う。別の監視を差し向ける必要がある」
「ああそれなら大丈夫、さっきグローリンドのレオンに依頼しといたから。ミハイルもウチの事は相当気にしてる筈だけど、グローリンドならそれほどでも無いだろうからね」
レイナードはかすかに驚きの表情を浮かべ、言った。
「さすがに抜け目が無いな。ハウザー陛下が可愛げが無いと言った理由がよく分かる」
「そう?……と、言う事はあの場にミハイルが居たんだね、レイナード」
「ああ、奴の後を追っていたらあの騒動に出くわした。恐らく例の物を確認する為に何処かで落ち合う手筈だったのだろう。賊を倒した後にはもう影も形も無かったが」
「やっぱり奴の仕掛けかぁ、こんな直球の実力行使に出るとは思わなかったな。…レイナード、あの男達の国が分かるかい?」
「叫び声からしておそらくプロタリアの人間だろう。だが正規の騎士では無いな、…軍務の経験がある傭兵かごろつきを雇ったのだと思う」
「メレディスやタウンゼントも同意見だった。締め上げてもどうせミハイルの事は知らないだろうから、ほっといて帰ってきちゃったけど」
「陛下の判断は正しい。実行犯と奴の間には何人も橋渡し役が居るだろう。それを追って行く間に状況はどんどん進んでしまう、調べるだけ時間の無駄だ。調査はプロタリアに任せておけばいいと思う」
アルフリートは頷きながら立ち上がり、大きくあくびをして言った。
「おまけが付いちゃったけど一通り手は打った。後は明日だ、さっさと寝ちまうに限るな。メレディス、さっきのゴタゴタに関わった騎士はきっちり休息を取らせて、メレディスもね」
「心得ております。交替シフトを少し変えます」
落ち着き払って答えるメレディス。騎士達は戦並みの完全武装で護衛にあたっていた為、皆かすり傷程度の怪我で済んだのだが、こういった油断の出来ない局面こそ、きちんと兵を休ませるべき事を彼等は良く分かっていた。
「シンとアイリーンもだよ、今夜はもういいからちゃんと眠るんだ」
アルフリートのその言葉に、何か言いたそうな二人だったが、アイリーンは緊張からか相当に疲労をしており、シンは彼女だけでも睡眠を取らせようと思っていた。ロベルトは国王の寝室のベッドを部屋の中央に移動させ、周囲を騎士達で固める。天井や壁までも入念にチェックを入れ、自らも甲冑姿のまま剣を抱えて横になった。入口を不寝番の騎士が守り、控えの間でも多くの護衛が仮眠を取る。寝酒にブランデーを一杯引っ掛け、寝室に一歩足を踏み入れたアルフリートは一言呟く。
「……すげぇな」
床に毛布を敷いてごろごろと横になっている、十人ばかりの騎士の間をひょいひょいと歩き、ベッドに潜り込んだ彼はすぐに寝息を立て始めた。ロベルトはアルフリートがこういった礼儀にうるさくない事を、今夜ばかりは有難く思いつつ目を閉じた。
トランセリアの王宮の廊下をシルヴァとセリカが足早に歩いて行く。国王の執務室に入るとアンドリューとユースト、フランク内務長官が顔を揃えていた。シルヴァは挨拶もそこそこに問い掛ける。
「アンドリュー様、陛下が襲撃されたというのは本当ですか」
「ああ本当だ、相変わらずユーストは情報が早くて助かるよ」
のんきな口調でそう答える国王代行にシルヴァは畳み掛ける。
「陛下はご無事なのですかっ!」
「ああごめん、先にそれを言わなきゃいけなかったか。アルフに怪我は無いよ。こちら側の被害は皆無と言っていいそうだ。レイナードが一瞬で十人以上の敵を倒したとあるな。剣呑な男だなぁ」
ほっと息をつくシルヴァ。アンドリューにしてみれば娘同然であるシルヴァの、アルフリートの事が心配で堪らぬ様子を見て微笑ましく思ったのだろう、彼は優しく言った。
「シルヴァ、大丈夫だよ。あいつは機転も利くし、ずる賢いからちょっとやそっとじゃ暗殺なんか出来ないだろう」
「それはよく分かっておりますが……、いやずる賢くは無いと存じますが。……待つのは…性に合いません」
呟くように本音を口にする若き軍務長官に年長の三人は苦笑しつつ、彼等自身も確かに若干の不安は感じていた。アンドリューが国王の執務室に詰めていてくれる事は幾らかの安心材料になっていたが、同時に閣僚達は微妙な違和感も覚えていた。二年前に退位したばかりの前国王といえど、アルフリートの代わりにはならぬ事を、彼等は今さらのように気付いていた。アンドリューは静かに口を開く。
「…もう夕刻だ、スケジュール通りなら事はもう片付いているだろう。我々は吉報を待つより他は無いよ、私も早く肩の荷を下ろしたくてね」
「おっしゃる通りです。取り乱して申し訳ありませんでした」
シルヴァは小さく頭を下げ、執務室を出て行った。後に続く副官のセリカとアンドリューの視線が一瞬絡み合うが、どちらからも言葉が発せられる事は無かった。フランクはそれには気付かず、てきぱきと通常業務を進める。ただユーストだけがちらりとアンドリューに視線を向けるが、彼も口を開く事はしなかった。