第七章 赤と黒 第一話
各国の使節団が数多く到着し、帝都は喧騒に包まれていた。特に暗殺事件の噂が流れた直後であり、どの国もきな臭い雰囲気を感じ取っているのか、護衛の騎士が相当数随行し、一層の混雑を見せていた。都自体は喪に服しているのだが、格好の稼ぎ時でもある商店や食事処などは店を開け、葬式とは思えぬほど活況を呈していた。
トランセリア一行は昼過ぎに大使館に到着する。アルフリートら閣僚は昼食もそこそこに、出迎えた大使との情報交換に忙しかった。
大陸では遺族以外は喪服を身に着ける習慣は無く、アイリーンを初め女性陣はさっそく別室でドレスに着替える。
シルヴァはアイリーンを気遣ったのか、数人の女性騎士を随行メンバーに加えており、彼女達もいつもと違う華やかな礼装に身を包む。トランセリアでは女性騎士が全軍の一割近くを占め、こういった式典用にデザインされた服装も用意されていた。動きやすい細みのズボンの上から、タイトスカートの様に見える布を前後に垂らし、肩や首回りにも飾りが施されたそれを身に纏った騎士達は、少し自慢げに皆の前に姿を現わし、いつもと違う雰囲気の同僚に男性達からも歓声があがった。シルヴァは足さばきが悪くなると言ってあまりその格好をする事は無く、アルフリートも珍しそうに彼女達を見つめていた。
アイリーンはレースやフリルで飾られた清楚な白いドレスで現れ、頬を染めるその仕種が大変初々しく、周囲に冷やかされたシンは真っ赤になって照れていた。同行した侍女のセラとシンシアにも可愛らしいお仕着せが用意され、リサは例のごとくその見事なスタイルを強調したセクシーな『戦闘服』を身に付け、男性陣の目を一点に釘付けにしていた。
準備を整えた一行は気合い十分で宮廷に乗り込む。両側を儀仗兵が固める巨大な階段を昇り、王宮正面に向かうと多数の外務官や貴族達がアルフリートらを出迎える。にこやかに挨拶を交わす彼等の横では、護衛の数の多さでなにやら揉めている使節団もおり、王宮内もなかなかの混乱ぶりを見せていた。
あてがわれた豪華な部屋に落ち着いたアルフリートは即座に行動を開始する。プロタリア王宮を良く知るヴィンセントが中心となり、騎士達を情報収集へと走らせ、ミハイルと第四皇女エリザベートの居場所を確認させる。さらにアルフリートはリグノリアのクレアとウォルフ、そしてグローリンドの使節団へと使者を遣わし、グスタフ将軍と、ハウザーの腹心であった侍従長トマス・ラング男爵の所在もそれとなく探らせておいた。
広大な大広間に来賓と閣僚らが揃い、告別式が始まる。巨大な肖像画が掛けられた正面の壁の下、花に囲まれ、皇帝の棺が置かれていた。喪服に身を包む遺族達が並ぶ中、献花の列が粛々と進む。
アルフリートは棺の中に安置されたハウザーの顔をしばらくじっと見つめていた。ここに至るまで、彼は心の片隅で皇帝の死を疑っていた。影武者か、さもなくば人形を使って陰謀を防ぐ為の芝居を打ったのではないかと考えていた。だが彼が見る限り遺体に不自然な所は無く、防腐処理を施され、綺麗に死化粧をしたその顔は眠っているかのように感じられた。
アルフリートはさすがに沈痛な面持ちで遺族と礼を交わし、静かに自分の席に戻る。トランセリアからは国王の他ヴィンセントとメレディス、そしてアイリーンとレイナードが参列していた。アルフリートは小声でレイナードに尋ねる。
「…レイナード、遺体は本物かい?」
その問いを予想していたのだろう、レイナードは即答する。
「間違い無いと思う。…残念だがな」
その答えに一つため息をつくアルフリート。やがてヴィンセントが後ろからそっと告げる。
「陛下、ミハイルです」
献花の列も国内の貴族へと進んでおり、ミハイル伯爵もその列の中に居た。銀色の髪の痩せたその男はそれ程背は高くなく、あまり荒事には向いていなさそうに見えた。年相応な容貌は何処か影があるように感じられ、憂い顔のなかなかのハンサムな彼に、若い女性が夢中になるのも頷けた。
じっと彼を見つめるアルフリートと、ミハイルの視線が一瞬交差する。にっこりと笑い掛けたトランセリア国王に彼は小さく会釈を返し、何事も無かったように列の後に続く。アルフリートはぼそりと呟く。
「……意外とまともな人相だな。もっと悪人面になってるかと思ってた。…確信犯かな?」
その呟きにアイリーンが反応する。
「陛下……あまりはっきりとは感じられませんが、…良くない気が伝わって来ます。この方向です」
アルフリートだけに見えるようにドレスの袖で隠して指を指すアイリーン。彼女が指し示すその先には、まさに渦中のミハイルが立って居た。
告別式を終え、格式高い晩餐会も何事も無く進行し、各国の首脳が用意された豪華な広間に集う。高価な酒やデザートなどがふんだんに振る舞われ、口の滑らかになった人々はあれこれと話に花を咲かせる。話題となるのは当然プロタリアの皇帝位を誰が継ぐのかというその一点であり、あちらこちらに人々の輪が出来ていた。
アルフリートの周囲にも外交官や貴族達が幾人も詰め掛け、切れ者と噂の若き国王の意見を聞きたがった。アルフリートは例のごとくにこやかに人々と会話を交わし、当たり障りのない意見を言うに留め、肝心な事には一切触れなかった。
やがてプロタリアの皇族が姿を現わし、場は一気に盛り上がりを見せる。告別式の時とは違う幾分華やかなドレスに着替えた彼女等は、さすがに大国の姫君らしく場慣れした優雅な物腰で人々の話の輪に加わり、それぞれ伴った連れ合いを来賓に紹介していく。
アルフリートはタイミングを見計らって第四皇女エリザベートに近付き、さりげなく会話の輪の中心に加わる。同行した外交のプロであるヴィンセントとリサが舌を巻く程の巧みさに、二人は思わず呟く。「可愛げが無い……」
アルフリートは聞いているこちらが恥ずかしくなるようなお世辞をつるつると並べ立て、まんまと皇女の気を引くと、頃合を見たヴィンセントがミハイルに声を掛け、彼の注意を逸らせる。アルフリートは胸元からハンカチを取り出す振りをし、首に掛かったペンダントをぽろりとこぼして見せた。銅貨を半分に割っただけの飾り気のないそれを目ざとく見つけた皇女が問い掛ける。
「あら、陛下それは?…変わったペンダントですのね」
アルフリートはいかにも今気付いたというようにわずかに慌てる素振りをし、指先で持ち上げて見せ、言う。
「おっと…。いやお恥ずかしい、これはシルヴァが……。いやいやプライベートな物ですから、高価な品でもありませんので」
言葉を濁す彼にエリザベートはさらに興味をそそられたようだった。トランセリアの軍務長官シルヴァが、同時に国王の婚約者である事は大陸でも知らぬ者は居らず、皇女は何か二人の間の秘密めいた品である事を察し、豪華な飾りの付いた扇で口元を隠し小声で尋ねて来る。
「うふふ、シルヴァ元帥と何かお約束でもお交わしになった品物ではございませんこと?」
「おやおや、皇女殿下、素晴らしいご明察で。離ればなれになった恋人同士が、こうして二つに割ったコインを身に着けていれば必ず再会出来るという…まぁまじないのような物です。……内緒ですよ、恥ずかしいからとシルヴァに口止めされているのですからね」
そう言って片目をつぶって見せるアルフリートに、親近感を覚えたエリザベートはくすくすと笑い、ちらりとミハイルを見やる。彼女の婚約者の視線は、ヴィンセントの横に並ぶリサの胸の谷間に釘付けになっていた。彼女の『戦闘服』は文字通り絶大な戦果を上げていた。エリザベートはミハイルが気付いていないと知り、つい口を滑らせる。
「……こちらも内緒ですよ陛下。わたくしもミハイル様より半分に割った約束の品を頂いているのですわ。結婚式の夜にその二つを元に戻して枕元に置けば、二人は末永く幸せになれるという言い伝えがあるのですって。……人に話してはいけないらしいので、陛下も聞かなかった事にしてくださいませ」
少し自慢げに話す彼女をにこにこと見つめ、顔色一つ変えずにアルフリートは思う。(かかった!)
「もちろんもちろん。しかしそれはお熱い事で、羨ましい限りですよ。…やはりこのようなコインなのでしょうか?」
カマを掛ける彼の台詞に気付かず、皇女は決定的な一言を口にする。
「…いいえ、小さな古いお皿でしたわ。何か複雑な模様の描かれた…」
アルフリートは心の中でガッツポーズを取りながら、そんな事はおくびにも出さず優しげに囁き掛ける。
「さぞや結婚式が待ち遠しいことでございましょうね。…このような事態になってしまって、返す返すも残念でなりません」
エリザベートはさすがに幾分沈痛な面持ちで言う。
「お心づかい申し訳なく思います。亡き父に変わり、将来の夫と共にプロタリアを支えていく所存で居りますので、アルフリート陛下もどうかお力添えをよろしくお願い致します」
(おやおや)とアルフリートは思う。この末っ子は自分の婚約者がプロタリアの実権を握る事を知っているのかのような発言をした。その割にはぺらぺらと預かり物の秘密を話してしまう辺りが子供ゆえなのか、それとも何も知らされていないのか、アルフリートは考えを巡らしながらも抜け目なく言葉では答えず、皇女の白い手を取ってうんうんと大きく頷いて見せる。芝居じみたその仕種にエリザベートは感激した様子で手を握り返す。初めて間近で見たトランセリアの国王が、意外な程若くて美形だった事も影響しているかもしれなかった。
続いてミハイルともにこやかに談笑するアルフリート。トランセリアの国王がレイナード・バッカスを伴って現れた事は、既に宮廷中に噂となって駆け巡っていた。おそらくミハイルは、ハウザーからなにかしらのメッセージがアルフリートに伝わった事を薄々感付いているだろう。しかし二人はそんな内情をひと欠片も顔に表わさず、なごやかに挨拶を交わす。アルフリートは牽制球を投げる事もせず、中味の無い社交辞令を並べ立ててその場を離れた。
世間話でもしているように笑みを顔に貼り付かせたまま、彼はヴィンセントに言った。
「ビンゴ!」
「御明察恐れ入ります」
こちらも笑顔のままヴィンセントが答える。
アルフリートは割り符がもうミハイルの手元には無いだろうと考えていた。もし他人に預けるとすれば、今現在のプロタリアで最も安全なのは、皇女エリザベートの自室以外無かろうと彼は推理していた。
切り札の在り処を手に入れたアルフリートは安心してもう一つの懸案事項を片付けに掛かる。彼はこの場にリンデン侯爵が出席していると聞くと、アイリーンを手招きして尋ねた。
「アイリーン、リンデン侯爵が居るみたいだから一言筋を通しておこうか。俺が間に入るから」
かつて彼女が嫁ぐはずであり、国を捨てる原因の片棒を担いだそのプロタリアの侯爵に会うという事は、アイリーンにとっても夫のシンにとっても気の進む事では無かったが、トランセリアの外交の障害となる要因は、一つでも無くしておくべきだという事は二人にも分かっていた。
アルフリートの後ろを歩くアイリーンはさすがに固い表情をしており、彼女を気遣ったシンがそっと肩に手を置く。メレディスと共に広間の隅で目を光らせていたレイナードも少し離れて国王に付き従う。
目指す侯爵は部屋の隅で一人グラスを傾けていた。ヴィンセントの事前情報では夫人も同席している筈だったが、周囲にその姿は見当たらなかった。アルフリートはこれ幸いとすたすたと彼に歩み寄り、にこやかに話し掛ける。
「リンデン侯爵でいらっしゃいますね。初めまして、トランセリア国王のアルフリート・リーベンバーグと申します。お会いできて嬉しく思います」
突然の国王の挨拶に壮年の侯爵は慌てて立ち上がり、しどろもどろで返事をする。
「はっ、あっ、…は…初めまして。こここ国王陛下におかれましては、……ごごご御尊顔を拝し…」
何やら滅茶苦茶な言葉遣いになってしまっているリンデンに構わず、アルフリートは用件を切り出した。
「侯爵、堅苦しい挨拶は抜きにいたしましょう。こちらが私の護衛の任に付いてくれているアイリーン・クレメントとシン=ロウ夫妻です。ご存じでいらっしゃるとは思いますが紹介させて頂きます。侯爵とは浅からぬ縁のある事とは存じておりますが、今ではこうして私の欠かせぬ片腕として、トランセリアの閣僚の一員となっております。いっときの不幸な行き違いなどに囚われず、この後も侯爵とは良き関係をと我が国は考えております」
リンデンに口を挟むヒマを与えずにすらすらとまくしたてるアルフリートに、小柄な侯爵はぺこぺこと頭を下げつつ、幾分髪の薄くなった頭部をせわしなくハンカチで拭う。見るからにうだつの上がらない彼の様子を見ていたシンが、珍しく自分から口を開く。
「リンデン侯爵閣下。初めてお目に掛かります、アイリーンの夫のシン=ロウと申します。アルフリート陛下の恩情により、こうしてトランセリアの国民として陛下のお役に立つ事が出来ております。過日に妻をイグナートから亡命させた責任は全て私にあると存じ上げております。どうかお気を害せぬよう、トランセリアとプロタリアの友好関係を末長い物としていただけますよう、御厚情を賜りたくお願い申し上げます」
続いてアイリーンが優雅な仕種で深々と頭を下げて言う。
「アイリーン・クレメントと申します。リンデン様、どうか大恩あるアルフリート陛下のご迷惑にならぬような、寛大な御配慮をお願い致したく存じ上げます」
丁寧な二人の挨拶にも侯爵はへどもどと答える。
「い…いやいや。ご…御丁寧な挨拶かたじけなく、ももももちろんアルフリート陛下との信頼関係に少しも影響などございませぬゆえ…。あ…頭をお上げくだされ…」
にこにこと笑うアルフリートの落ち着き払った態度に気押され、逞しく背の高いシンに怯え気味に、目の前のアイリーンの美しさに驚き、さらに後ろに控えるレイナードが静かに自分に視線を向けている事に気付き、リンデンはどうしていいか分からなくなってしまったようだ。
落ち着き無くきょときょとと四人を見比べるばかりの侯爵を見、アルフリートはこれ以上は無駄だろうと思い、さらりと話を切り上げる。こんな事に時間を取られてもいられなかった。
「御理解頂けて誠に有難く思います。これからも両国の末長い友好を願って止みません。突然御無礼を致しました、これにて失礼致します」
さっさと立ち去る国王の後をアイリーンとシンが続く。残されたリンデンはしばらく呆然と立ちすくんでいたが、やがて崩れ落ちるように椅子に腰掛け、酒の入ったグラスをぐっとあおり、ごほごほとむせ込んでいた。
彼と言えど、仮にも大国プロタリアの侯爵であるのだから、このような場面には幾度も遭遇したであろうし、それなりの言い分もあったのだろうが、突然のアルフリートの登場と、有無を言わせぬ半ば脅迫めいた台詞に、すっかりペースを乱されてしまったようだった。アイリーンに対する後ろめたさもあったのかもしれず、広間の何処かに居る筈の妻の存在を怖れての結果かもしれなかった。
いずれにせよトランセリア側に言質を取られてしまった形となった侯爵は、この一幕から退場せざるを得なくなったのであり、いかにアイリーンの美貌に見愡れたとしても、最早何一つ手出しなど出来なくなったのである。
その様子を苦笑と共に見つめていたレイナードはきびすを返し三人の後を追う。アイリーンがしっかりとシンの手を握りしめているのが微笑ましかった。
アイリーンがふと歩みを止め、首を巡らし周囲を伺う。レイナードとシンが一瞬身構えるが、彼女がアルフリートに発した言葉は危険を察した物では無かった。
「陛下……おそらくですが、オリヴィア様が……」
小声でささやく彼女にアルフリートは「分かった」とだけ言い、目の合ったリサに合図をする。彼女はすぐに事情を察し、ヴィンセントを捕まえると国王に駆け寄る。
「間違いありません、イグナート王弟の第三公女オリヴィア様です」
そう答えるリサに頷き、アルフリートはアイリーンに尋ねる。
「アイリーンは会った事があるんだよね。どう?なんか変わった?」
幾分困惑した表情のアイリーンは、しばらくの沈黙の後、言葉を選んで言った
「………はっきりとは分かりませんが、……暗い…澱んだような、……何歳も歳を取られたような感じが致します」
彼女がそう評したオリヴィアは、彼等から二十歩程の距離を隔てて立って居た。こちらを向いておらず、アイリーンにも気付いていないと思われる彼女は、暗い色合いのドレスに身を包み、俯き気味に賓客と言葉を交わしていた。まだ十代の彼女であったが、アイリーンで無くともそう感じる程倦怠感を漂わせ、陰鬱な雰囲気を身に纏って居た。それが夫の喪に服しているからなのか、それとも自らが犯した罪を悔いているからなのかは、誰にも分からなかった。
広間の隅にあるテーブルに落ち着いたアルフリートに、アイリーンがぽつぽつと話し掛ける。もうオリヴィアの気配は感じられず、彼女は広間を出て行ったものと思われた。
「……オリヴィア様とは二度程言葉を交わした事がございますが、…あのような雰囲気の方ではありませんでした。…もっと華やかで明るい、ごく普通の少女だったと記憶しております。宮廷では疎まれていたわたくしとも、親しげに会話をして頂いたのですが……。まだ一年と少ししか経っておりませぬのに、人はあのように変わってしまわれるものなのでしょうか…」
呟くようにそう話すアイリーンに、アルフリートが静かに答える。
「…若いからね、何かあればがらりと変わってしまう事もあるだろう。問題はその『何か』だと思うんだけど…、明日になればそれも判るだろうさ。アイリーンが気に病む事じゃ無いからね」
アイリーンを気遣う国王の言葉に、彼女は小さく笑みを浮かべて頷いた。
明日には昼食会を兼ねた、各国の代表とプロタリア閣僚との懇談会とが予定されていた。それはアルフリートがそれぞれの訪問団に働きかけて実現させた物であり、イグナート以外の全ての来賓がそれを望んだ為、プロタリア側も断りきれなかったようだ。どの国も次期皇帝の情報を知りたがっており、会合は絶好の機会になるだろうと予想されていた。アルフリートはもちろんその場でミハイルの陰謀を公の物とする考えであり、その為には今夜中に全ての手を打っておく必要があった。
ふいに広間が一段と騒がしさを増す。リグノリアとグローリンド両国の王族が、まるで示し合わせでもしたように左右両側の入口から入って来た為だ。
リグノリアのクレア女王が夫のウォルフ将軍と共ににこやかに姿を見せ、輝かんばかりのその美貌に男性客からため息が漏れる。グローリンドは十六歳の王子レオンが、こちらも爽やかな笑顔と共に現れ、広間のあちこちから若い女性の悲鳴にも似た叫びが上がる。さらさらと流れる金髪に涼しい目許、すらりと背の高い彼はいかにもイメージ通りの王子様といった風情であり、未だ婚約者どころか浮いた噂一つも無いとあってか、たちまち華やかなドレスの大群に囲まれる騒ぎとなった。
アルフリートはその騒動を眺めながら(やっぱり独り身だともてるなぁ…)などとシルヴァに聞かれたらお尻の一つもつねられそうな事を考えていた。そんな国王の心中を見通すかのように、ヴィンセントが小声で言う。
「陛下、そんな羨ましそうな顔をなさらずに。…クレア様がお見えですから」
思わず吹き出すアルフリート。彼は苦笑と共に立ち上がり、各国で浮き名を流した外務長官に言い返してやる。
「それはヴィンセントだろ。ほらリサが睨んでるよ」
つい慌てて振り返ってしまうヴィンセントだったが、彼の恋人は別段いつもと変わらぬ表情でそこに立っている。アルフリートはにやにや笑いながら言った。
「冗談。…さぁ仕事仕事」
にこやかにクレアとウォルフを迎え入れるトランセリア一同。顔見知りとあって無理に笑顔を作る必要の無い外交は、彼等にとってもいくらか気が楽だった。それでもアルフリートは美しさに磨きの掛かった女王を褒め讃える事を忘れない。
「ご無沙汰致しております女王陛下。一段とお美しくなられて目が眩みそうですよ」
クレアもにこにこと笑みを振りまき、優雅に一礼して挨拶を返す。
「お久し振りでございます陛下。わたくし達の間柄でそのようなお気遣いはもったいのうございますわ」
世辞を言うまでも無く、彼女は十二分に美しい女性だった。戦火に荒れた国も落ち着き、ウォルフとの仲睦まじい新婚夫婦としての日々は、クレアを尚一層艶やかな女性へと成長させており、煌めくような美貌はある種近寄り難い印象すら与えていた。傍らに寄り添うウォルフも見事に礼装を着こなし、今日はきちんとヒゲも剃っているせいか、一国を代表するに相応しい堂々たる見栄えであった。
アルフリートはさっそくアイリーンとシンを呼び寄せ、クレアに紹介する。宮廷の行儀作法の指南役を勤めるアイリーンは、完璧な身のこなしで典雅に礼をし、口を開いた。
「お初にお目もじ致しまする、アイリーン・クレメントと申します。女王陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じ上げます。こちらは夫のシン=ロウと申します。かつてイグナートの王族にあった身として、陛下には一言お詫び申し上げたく…」
その言葉を遮るようにクレアは言う。
「いいえ、アイリーン様。どうか頭をお上げ下さい。お二人の事情は全て存じ上げておりますゆえ、何もお気になさる事はございません。過去の出来事などに囚われぬ関係を築き上げるべきだという事を、わたくしはアルフリート様に教わったのですから」
顔を上げ、真直ぐにクレアに向き合ったアイリーンは、もう一度深々と頭を下げ、震える声で言った。
「……もったいないお言葉。…わたくしは…何も知らぬのも同然の生き方をしてきました。…皆に支えられるばかりで、…今もまたこうして…陛下のご厚情に助けられて…」
クレアがアイリーンの手を取る。彼女の瞳にも涙が滲んでいた。
「わたくしも同じです。何の力も取り柄も無いわたくしがこうして国を代表する立場に居るのは、手を差し伸べて支えてくれるたくさんの人々のお陰なのですから。……アイリーン様、わたくし達は同じ痛みを知っている者同士です。必ず解りあえると信じております」
目を潤ませる二人にそれぞれの夫君からハンカチがそっと差し出される。最初はシンが、やや遅れてウォルフが手渡したハンカチで涙を拭った二人は、互いににっこりと微笑み、もう一度しっかりと握手を交わし合った。頃合を見たアルフリートがウォルフに囁く。
「ウォルフ、……今日はやけに決まってるじゃないか。いやいやそんな事じゃない、親書は間に合ったみたいだね」
大きな身体を屈めたウォルフは声を潜めて言う。
「はい。俄には信じられぬ話ですが、証拠は揃っておられるのですね?…陛下を疑う訳ではございませんが」
「その気持ちは分かるよ。でもさっき確証を得た、間違い無いよ」
「左様ですか。……自分はプロタリア宮廷には詳しいですから、何かお役に立てる事があれば何なりとおっしゃって下さい」
「ありがとう。……今日の所は大丈夫だけど、明日の懇談会で一発ぶち上げるつもりだからその時は頼むかもしれない。それとクレアから絶対に離れちゃダメだよ。まぁ二人が別々に行動する事は無いと思うけど…」
ウォルフはかすかに笑って答える。
「それは問題ありません。……そんなに危険があるとお考えですか?」
「分からないけれど、用心するに越した事は無いよ。……グローリンドのレオン王子にも話は通すから、こっちは任せて」
「了解しました、陛下もお気をつけて。…シルヴァ元帥は御一緒ではないのですか?」
「彼女は留守番。その代わりレイナード雇っちゃった」
「げっ!……失礼しました。なるほど、それなら何の不安もございませんな」
素で驚くウォルフに得意そうな顔のアルフリート。金を支払ったのはハウザーなのだが、見栄を張ったのか彼はそれには触れなかった。
アイリーンを交え、顔見知りのトランセリア一行と話し込んでいるクレアの傍らに立ちながらも、ウォルフはレイナードが気になって仕方ないらしく、ちらちらとそちらを盗み見ている。大陸中に有名を轟かすレイナードは、腕に覚えのある騎士なら確かに一度は手合わせをしてみたくなる剣士であった。
アルフリートはグローリンドのレオン王子と話をする機会を伺っていた。訪問団のリストが直前迄入手出来なかった為に、グローリンドは国王ルーク自らが列席するだろうと、トランセリア外務庁スタッフは想定していた。アルフリートもそのつもりでアンドリューから前もって話を聞いていたのだが、十六歳のレオンが国を代表する立場で現れるとは予想外だった。
レオン・グレーガン・グローリスは、グローリンド国王の唯一の男子であり、この所精力的に外交の職務をこなしていた。国王自身がまだ四十代前半の若さであり、ただ一人の王子を早くから国際社会に慣らし、認めさせようという王の意図が見て取れた。
父王の急逝により若くして国王の座に就いたルーク王は、取り立てて才のある人物では無かったが、努力を積み重ねて戦乱に荒れた国土を立て直した苦労人であり、その血をひくレオンも華やかな外見に似合わぬ努力家であった。
アルフリートもヴィンセントも王子はノーマークだった。今後の大陸の勢力関係に重大な影響を及ぼすと思われるこの国葬に、まだ若いレオンを向わせた理由を、ヴィンセントは腹心の内務大臣にあると見ていた。リグノリアは内務外務両大臣を王子の補佐に同行させており、老練な外務大臣を良く知るヴィンセントは『油断ならない古ぎつね』と彼を揶揄し、もう一人の内務大臣を『仕事中毒の学者先生』と評した。いずれにせよ一筋縄ではいかない閣僚である事は間違い無かった。
グローリンド内務大臣カイン・ラザフォード子爵は、ルーク王の三番目の王女エリスの夫であり、トランセリア並みの人事で出世街道をばく進した二十六歳の若い男であった。田舎の靴屋の出自である彼が、平民でありながら王立学問所を優秀な成績で卒業し、宮廷書記官として出仕した王宮で、王女エリスと恋に落ちたそのロマンスは、グローリンドの人々の語り草となっていた。エリスは十四歳でカインの元に嫁ぎ、王国の歴史上始めて、平民出身のロイヤルファミリーが生まれたのだった。
幼い王女をまんまとたぶらかして現在の地位を手に入れたと、カインを悪く言う者も居たが、ヴィンセントの意見は異なっていた。カインと面識のある彼は、その頭脳の明晰さと苦労人らしい人当たりの良さを知っており、ルークがレオンの治世を支える宰相を欲しての人事だろうと予想していた。エリス王女のじゃじゃ馬ぶりも国内では知らぬ者は居らず、たらし込んだのはエリスの方だろうと思っていた。そしてそれは正にその通りだったのである。
純情で朴念仁な内務大臣と、第一王女の夫である軍務長官が、将来の王レオンを補佐する文武の双璧となるであろうと、ヴィンセントは注視していた。彼等がこの先アルフリートの直接の政敵になる事は疑いようが無く、良好な関係を築く事がトランセリアにとっても重要な課題であった。
レオンはまだ若い女性達に囲まれてちやほやとされており、傍らに初老の外務大臣と、にこにこと笑顔を絶やさぬ小柄な若い男が立って居る。ヴィンセントはまず両大臣に近付き、親しげに握手を交わすとアルフリートに渡りを付けた。外交に慣れた彼等はすらすらと型通りの挨拶を交わす。
アルフリートにとってカインの印象は少し意外な物だった。全体的な雰囲気は確かに『学者先生』といった風情であり、少し伸び過ぎた黒髪から覗く優しげな瞳は、噂に聞く聡明さを伺わせたが、実年齢より若く見える彼は学生と言っても通用するような風貌で、地位や出世とは無縁な人物に見受けられた。アルフリートは彼が給仕からグラスを受け取った時に「どうもありがとうございます」と敬語で礼を言ったのを聞き逃さず、さらにリサが挨拶をした時に、その挑発的なドレスに顔を真っ赤にしている所を見て、ヴィンセントの評価通りの人物であると確信し、好感を抱いた。
外務大臣の計らいで華やかな女性達の輪からやっとレオンが抜け出す。彼女達も相手がトランセリアの国王であってはさすがに我が儘も言い出せず、興味深げにその対面を眺めていた。レオンはアルフリートの手をしっかりと握り、幾分はずんだ声でこう切り出した。
「お目に掛かれて光栄ですアルフリート陛下。私は未だ国政に携わる地位にはありませぬが、陛下の政策手腕をいつも参考にさせて頂いております。大変尊敬しています」
率直な王子の褒め言葉にアルフリートは驚くが、例のごとく謙遜とお世辞で切り返す。
「私なぞまだまだひよっこの様な物です。閣僚におんぶにだっこでどうにか日々の仕事をこなしているに過ぎません。それよりも十六歳の若さで国王の名代を勤められるレオン様の方こそ、傑出した才をお持ちと見受けられます。ルーク陛下も良い後継者を得られてさぞ安心していらっしゃる事でしょう」
互いに褒めちぎりあいながらにこやかに会話が交わされる。レオンはアルフリートよりも頭半分ほど背が高く、貴族的な整った顔立ちに涼やかな瞳がきらきらと輝き、かなり美しい青年だった。以前肖像画で見た少女の様な面影は消え失せ、おそらく武門にも研鑽を積んでいるであろう逞しさをも身に付けていた。これなら宮廷の女性達が夢中になるのも無理はないとアルフリートは納得し、彼に言った。
「あまり王子を独占しては美しい御婦人方に恨まれてしまいそうですね」
その言葉にレオンはちらりと辺りを見回し、小声で囁く。
「とんでもありません。女性達の相手は実は少し苦手だったので、正直助かりました」
アルフリートは小さく微笑み、答える。
「おやおや、大陸中の妙齢の女性の人気を独り占めしているレオン王子の言葉とも思えませんね。今の発言が彼女達の耳に入ったらさぞがっかりすることでしょう」
「今の私には恋愛よりも国政の方が重大事ですので…、それにまだまだ先の話ですから」
はにかんで答えるレオンを見て、アルフリートは彼の真面目な一面を感じ取った。どうやらグローリンドは女性陣の方が積極的で、男性はやや奥手の人物が揃っているのかもしれないなどとも考えていた。アルフリートは尚も声を潜め、本来の目的を切り出した。
「……王子、後ほど少しお時間を頂けますか。いくつか話し合っておきたい事がありますので」
「私からもお願いするつもりでおりました。……お互い考えている事は同じだと思っております」
笑顔を顔に貼り付かせたまま、ひそひそと密談する二人はやがて握手を交わしてその場を離れた。待ちくたびれていたドレスの集団が再びレオンを取り囲み、アルフリートにはいつものメンバーが駆け寄る。こうも差があるとさしもの彼も(俺ってひょっとしてもてないのかも…)などと考えてしまっていた。背の高さも若干は影響を与えているかもしれないが、結局独身かそうでないかの差であったろうし、淑女達の目にはアルフリートの向こう側に、双刀を抜き放って立っている魔女シルヴァの姿が見えているのかもしれなかった。