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「君が【地球】で今までに得てきた知識は、転生後に戻してあげよう。【イナーシュ】は魔法があると先程伝えたけれど、魔法を行使するには魔力というものが必要になる。持っている魔力に多少はあっても、【イナーシュ】に生きるもの全てが魔力を持っているんだ。空気同様に無くてはならないものだからね。多ければ有利に働くこともあるから、魔力を多く持てるように私の持つ権限で弄っておく」
「どうして、そんなことをしてくれるんですか?」
「それは……」
伊織の問いに男神は言い辛そう口籠り、それから意を決して口を開いた。
「伊織。君は今まで苦労を重ねてきた。両親に置き去りにされ、長年過ごしてきた施設は追い出されるように卒業させられ一人暮らしを余儀なくされた。学生時代はずっとアルバイトと学業を両立させながらの苦学生。誰かと遊びに行くことも数える程しかなかったはずだ。今の会社へ就職してからも先輩社員に振り回されながら多忙の毎日だっただろう?
……23歳からは、伊織の運命は好転する事が決まっていたんだ。君の事を誰よりも理解し愛してくれる、そんな所謂「運命の人」となる男性と恋愛した上で結婚し、子供や孫に恵まれ86歳の人生を幸せに全うするそんな未来が。【地球】での人生を、1つも幸せを体験させないまま召喚したくはなかった。だからこれは私のせめてもの償いなんだ」
「そんな……」
落胆と悲観の入り混じる呟きを漏らし、伊織は崩れ落ち平伏しそうになるのを必死に留める。これからは幸せになれるはずだった、その事実を知って顔を伏せてしまえば、ぼろ泣きしてしまうに違いなかった。それだけは社会人となった大人の女としての矜持で回避したのだ。
「本当に済まない……どう詫びたら良いか。
せめて、私の持つ生命の権限を最大限に使用しようと思う」
「……」
「伊織、君が望むなら特殊能力を持つことも出来る」
え、と絶望の中に驚きが混じる瞳で男神を見上げ、けれど伊織はゆっくりと首を振った。
「……特殊能力は良いです。自力で暮らしていけるだけの力があれば、それで」
「しかし」
「良いんです。私はあまり器用な人間ではないから。過ぎた能力は、きっと扱いきれない。……けれど、願いを叶えてくれるのなら。私は、「家族」が欲しいです」
日本では「仲間」や「友人」はいても、「家族」と言える存在はいなかった。だから、せめて転生先では1人でも良い、共に過ごせる家族をーーー。伊織の願いに、男神は頷いた。
「分かった。君をきちんと見つめて愛してくれる者を見つけ、【イナーシュ】で会わせよう。他に希望はあるかい?」
「……いいえ」
「分かった。今回、君を【イナーシュ】へ召喚したことで幾つかの制限が生まれた。本来は【地球】での生を終えてから行われるべきことだったからね。君の記憶を返せるのはある程度成長してからになる。「伊織」としての記憶は消され、前世の知識を得ても前世での自分が何者だったかということを知ることは出来ない。そして転生して数年は、君は発声出来ない。これが1番の制限だろうね……【地球】での生を切り上げさせてしまった反動で、私でもこの制限を取り払うことは叶わなかった。だが必ず声は出るようになるから、言葉を学ぶことを諦めないで欲しい。ただ、制限が掛かったのは君だけではないんだ。伊織を希った者達も、君の【地球】での生を奪った業を背負い「退化」した。然るべきその時まで、彼らの力は半減したままだ。それでもそれなりに強いのだけれどね。
ーーー【イナーシュ】で、彼らが待っている。あの者達は君の力になる為、君を護る為なら何でもやるだろう。頼ってあげて欲しい」
「……はい。分かりました」
1つ頷いた男神は伊織を優しく見つめ、次いで【イナーシュ】に強制送還された彼らを思い浮かべる。向こうに転生させた瞬間に、伊織に群がり狂喜乱舞する姿が目の前に見えるようだ。まあ、彼女には当分彼らの姿は見えることはないだろうが、それでも嬉々として伊織を護り役に立とうと動き回る姿が想像に難くない。
はぁーっと内心で呆れの溜息を盛大に落としつつ、それをおくびにも出さずに伊織へと微笑みかける。
「では【イナーシュ】へ君を送ろう。……幸ある人生を」
ぱん、と小気味よい音を立てて胸前で1つ手を叩く。しゅるりと透明な膜が彼女を包み球体となった瞬間、伊織は白い空間から消えた。
また1人残された男神は、伊織の【イナーシュ】での運命をざっと見て優しく笑う。ある男を見つけたからだ。
「次こそは幸せにおなり……伊織。いや、「***」」
そっと次の彼女の名を口の中で転がし、男神は柔らかな微笑を浮かべたまま目を閉じたのだった。