屋上
深夜1時を回ったのに、夫のコータローが帰ってこない。また、どこかで飲んでいるのだろうか。この頃連絡をくれないこともしばしばだ。アケミはテレビを消してもう寝てしまうことにした。
音の無くなったリビングから寝室に向かう時、天井からドスドスドスと人の歩くような音がして、アケミは少し固まった。
この音はなんなのだろう? この頃、時々気になる。
アケミの住むパートは4階建ての4階で、上に人は住んでいないはず。屋上のようなものはあるらしく、上に続く階段はあるのだけれど、階段の先に見える扉は閉まっている。そこにいったい何があるのだろう。たぶん、空調設備とか給水タンクとかそういうものがあるのではないかと思うのだけど…、なぜ外に出られないようになっているのだろうか。管理会社の人に聞いてみようかと思ったりするけど、意味もなく質問するのも変かなと思ったり。もやもやと変な不安が溜まっている感じだった。
と、コータローが帰って来た。
いつもだったらちょっと腹立たしく思うところだったけれど、不安がわきおこってきていたところだったからか、なんだかすごくホッとしてアケミはコータローを迎えようと玄関へのガラス戸をあけた。
コータローはヘロヘロだった。
「お。お迎えですか~。ど~も。ど~も」
とか言っちゃってご機嫌な様子、で、ちょとムッとする。
「もう、また、そんなに飲んじゃって!」
「いやいや~。そんなじゃない。そんなじゃない」
じゃ、どんななんだよ! という思いはとりあえず置いておいて、
「ねえねえ、また上から音がしたのよ! 人が歩く音が!」
と訴える。
「そ~ね。音もするよね。人がいればね」
「人がいるわけないでしょ! ここ、4階建の4階なんだよ!」
「そうとも言える! だけど人が住んでないとも言いきれない!」
あほか。
「だったらだれが住んでいるのよ!」
「さあ、それが謎だね~」
ニタニタ笑うコータローを見ていると腸が煮えくりかえってくる。無駄に腹を立ててもばからしいので、コータローの事は放っておくことにして、とりあえずその日は寝てしまうことにした。
さて、次の日の朝、コータローを送り出し、玄関先を掃除していると、かの屋上への扉が開き、薄茶色のムクムクしたクマかなんかの着ぐるみを来た、うさんくさいじいさんが階段を下りて来た。
アケミは固まって、じっとそのじいさんを見つめた。
「はい、おはようさん」
じいさんがこっちを向いたので、あわてて掃除の続きをした。顔の筋肉が動かせず、挨拶を返す心の余裕はなかった。掃除をするふりをしながら目だけじいさんの背中を追う。じいさんは、煮しめたような色のズタ袋をサンタクロースみたいに肩に背負っていて、軽やかに階段を下りて行った。
なんなんだよ! あの人は! アケミの頭の中にクエスチョンマークが詰まってしまい、目まいがしそうになった。今の着ぐるみじいさんは、屋上の扉から出てきて、確か鍵なんかかけていなかった。ってことは、扉は開いているのか? そう思うと動悸が激しくなってきた。どうしよう。こわい。だけど確かめられずにはいられない。
アケミはドキドキしながら扉に向かって階段を一段ずつ上がって行った。足が震えた。
ドアノブに手をかけると、身体全体が震えた。屋上にあの男の家族でもいたら? おまけに皆がムクムクの着ぐるみを着ていたら? まさか!? こんな所で生活しているわけないよ。えい! とドアノブを回し、引いてみる。
開いた。
想像していた通り、そこには給水タンクがあった。あとは建築材料の残り? みたいなアスファルトの積石やら、鉄の棒みたいのとか、板の残りみたいなのが雑然と集められている一角があった。足を踏み入れてぐるりと一周しようかとも思ったけれど、その間に扉が閉まって開かなくなったら~~。ぞ~~~。っとなり、足を踏み出せなかった。とにかく頭だけ出してぐるりと見える範囲を目いっぱい見回してみた。どうやったって人が生活できるような所はない。
ドキドキしながら扉を閉めた。
すぐにでもコータローにメールでもしようかと思ったけれど、それもどうなの? とも思い、とにかく自分の気持ちを落ち着けて、ジリジリとコータローの帰りを待った。
夜8時過ぎにやっとコータローが帰って来た。
「ねえねえねえねえ、いたの。人がいたの。」
アケミは靴を脱いで家に上がろうとしているコータローに訴えた。
「どこに?」
「屋上に」
「あ、そう」
とコータローはのんきに言う。やれやれって顔に書いてある。
「それが変なじいさんで、クマみたいな着ぐるみ着ているんだよ!」
「へえ」
「どうしよう。管理会社に聞いてみようか」
「だって、自由に出入りできる人だったら、何か工事かなんかの関係の人なんじゃないの?」
「着ぐるみで?」
「本当に着ぐるみだったの?」
「う~ん、だって、あんなムクムクで手足まですっぽり隠れる洋服なんかないよ」
「だけど顔はむき出しだったんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、大丈夫だよ」
「え? どうして?」
「顔出しているんだから」
「そう?」
「そうだよ。悪いことするんだったら顔隠すだろ。大丈夫に決まってる」
安心できたわけじゃあなかったけど、安心しておきたい。アケミはコータローの「決まってる」という言葉を信じることにした。
さて、その後、1階の上がり口で近所の人数人と話している時に、そのじいさんがまた上から下りて来たことがあった。
「はい、おはようさん」
じいさんが言うと、皆、何もなかったように「おはようございます」なんて言っている。皆知っている人なのか? だけど、「あの方どなたですか?」と聞いてみると、「さあ」と言って誰もはっきりしたことはわからない。
またある時には、ゴミ捨場の掃除当番の時に後ろを通り過ぎたこともあった。
「はい、こんにちは」
悪びれもせずあいさつしていく着ぐるみじいさん。ま、いいか。そのうち、たまにじいさんの姿を見てもだんだん気にならなくなってきた。
それから半年ほどが過ぎた。
またコータローが連絡もなく帰って来ない深夜。テレビを消し、無音の状態でふと耳をすますと、特に音がしないことで、なにかすごくホッとできた。次の日、階段を上って扉を開こうとすると、扉は開かなかった。
そういえば、最近あのじいさんの姿を見かけない。
いったいなんだったんだろう? あのじいさんは?
その日帰って来たコータローに話を振ってみる。
「ねえねえねえ、前に上から下りて来た、着ぐるみのじいさんだけどさ。最近見かけなくなったのよ」
「そう。良かったね」
「それだけ?」
「…、…、…」
「もお。何か怪しい人とか危ない人だったら、どうするのよ!」
「だって、そうじゃなかったじゃない」
「ま、そうだけど」と思いつつ、アケミは不服だった。何なんだよ。この煮え切らない感は。くそっ! またあの着ぐるみじいさんが現れたら今度は絶対に話かけてみようと、アケミは無駄な決心を固めるのだった。




