8.ヒーロー
ゴールデンウィークが終わり、五月病患者が急増した頃でも、秋良たちは練習漬けの日々を送った。新入部員も篠山高校の練習に慣れ、夏の県予選に向けてチームが一つに纏まり始めていた。祝日が一日も存在しない六月を迎え、クラスメイトが六月病に掛かったと甘えたことを抜かしていても、中間試験でギリギリ赤点を免れた秋良や真冬に、追試の嵐の直撃を喰らった正幸が愚痴を零しても、汗水垂らしてグランドを駆け回る。その成果が見えたのは、七月になり、クマゼミがワシャワシャと忙しく鳴く市営球場で県大会の予選が始まった頃に見られた。ベストエイトのシードのために初戦となった二回戦、篠山高校は十二対零で五回コールド勝ちを決めた。退院したばかりの亮に勝利の報告をすると、まだ始まったばかりやろと笑われたが、本当は喜んでくれていることはなんとなく感じていた。その日の帰り道。夏希が初めて、秋良に頑張ってねと応援の言葉を述べた。それから、一週間後。
「今日勝てば、まずはベストエイトだ」
球場の隅で、真冬が述べた。この日の対戦相手は、昨秋の一回戦で敗れた藤ヶ丘高校だった。春は篠山高校と同じく、鳥ヶ浜高校に負け二回戦敗退だったらしい。秋のことを思い出し、全ての元凶の始まりはあの試合だったなと感傷に浸る。だからかもしれないが、負けたくなかった。もちろん、甲子園を目指しているのだから、負ける気など無かった。
「勝つぞ」
秋良が、静かに言い放つ。真冬はそれに黙って頷いた。あの新人戦の時のように、もう纏まりのないチームではない。秋良は自分自身にそう促すように、何度も何度も頷いた。球場に入り、アップを終えて試合が始まる。マウンドに上がり、観客席を見渡す。相変わらず人の少ない応援団は、家族や篠山高校の生徒たちばかりが目立つ。その中に、高倉亮の姿を見つけた。来てくれたんだと、嬉しくなる。一緒に月音も来ていたが、夏希の姿は見当たらなかった。秋良の名を、本塁から紀洋が呼ぶのが聞こえる。いつも待たせて悪いな、と心で謝った。投球練習の後、一番打者がバッターボックスに立った。サイレンの音が響き渡り、秋良はゆっくりと振りかぶった。夏の甲子園へ、たった一つしかない座席を巡った争い。この三回戦も、それは熾烈なものとなった。先制したのは、篠山高校。ヒットで出塁した真冬を、二番バッターが送りバント、三番の秋良は進塁打に倒れツーアウト三塁となるが、四番の小川がタイムリーツーベースを放った。その直後、五番の紀洋がライト頭上を超えるヒットで二点を奪う。しかし、三年生にとって最後となるこの大会で、藤ヶ丘高校もすんなりとは引き下がらない。七回裏に一点を返され、八回にはツーアウト一、三塁からホームランを打たれ逆転を許してしまったのだ。痛恨の一打に心が折れそうになる秋良の元に、みんなが集まった。九回で追い付く。だから、気持ちで負けるな。真冬のその言葉に励まされ、次の打者を三振で抑え、味方の反撃を信じた。ノーアウト一塁、ノーアウト一塁二塁、ワンナウト一塁三塁、ワンナウト満塁、──ツーアウト満塁。
「頼むぜ、アキラ」
三振に終わった二番打者が、申し訳なさそうに言った。同じだと、秋良は思った。昨秋、秋良の人生が変わった、あの日。九回裏、ツーアウト満塁。強いて言えば、あの時は一点差だったが、今日は二点差。打てば、十分同点が考えられる状況。しかし、打てなければ、秋良たち三年生の夏が、その瞬間に終わるのだ。同じではないと、秋良は首を横に振った。同じではない。だから、打つんだ。
「バッター!」
苛立つようにアンパイアが叫んだ。
「すみません、すぐ行きます」
慌ててバッターボックスに立つと、ピッチャーが睨むように秋良を見た。緊張しているのだろう。逆の立場なら、と秋良は想像する。ブルブルと背筋を震わせ、恐怖した。じっとりと汗に濡れてヌルヌルしたバットに、打つ側だって緊張するんだと気付く。三人のランナーが、そっと離塁した。サイン交換を終えたピッチャーが、セットポジションから投球した。スパンッ。
「ストライク!」
ランナーの堀川健が、烏丸大地が、そしてキャプテンの真冬が、それぞれの塁に駆け戻る。ちっとも落ち着かないざわついた心を落ち着かせようと、深く息を吸った。ネクストバッターズサークルを出る前に、人の字を書いて飲めば良かったと、少し後悔した。ピッチャーが二球目を振りかぶった。ストレートだと判断し、フルスイング。スパンッ。
「ストライク!」
──当たらない。
「タイム!」
咄嗟に要求すると、主審がそれを認め、タイムと叫び両手を上げた。バッターボックスを出て、呼吸を整える。春季大会の後、家に持ち帰ったバットで何度も素振りをしたのだと、自分に言い聞かせる。このままで終われない。終わってたまるか。
「打って、アキラくん!」
素振りをしようとして、ドキリとした。聞き覚えのある、女の子の声。思わず振り返り、バックネット裏の観客席を見た。さっきまで居なかったはずの夏希が、息を切らせてそこに立っていた。心配そうな表情を浮かべる夏希に向かってニッと笑顔を見せて、秋良はバッターボックスに戻った。手の震えが、気が付けば消えていた。
「プレイ!」
主審の声に、真冬たちが塁を離れた。ノーボールツーストライク。次のボールがストライクゾーンに入るのなら、バットを振るしか無い状況だった。ピッチャーが、ランナーが居るにも関わらず振りかぶった。それを見て三塁ランナーが、ホームに突っ込む素振りを見せる。まだノーボールだぞ馬鹿野郎、と意外と冷静な思考回路に安心する。球種は、カーブ。既に五打席目だったその日、何度も見ていたそのカーブの軌跡を想像しながら、バットを振り抜く。
──キンッ。
響く金属音。少ない応援団から、大きな歓声が沸いた。ショートの頭上を越え、バックホームに備え浅く守っていたセンターが打球を追い掛けている。落ちろ、と心の中で叫んだ。三塁ランナーがホームインし、秋良が一塁を蹴った。センターがミットを掲げて滑りこんだ。ワッ、と歓声が上がり、二塁塁審が右手を高く振り上げる。秋良の──篠山高校の夏が、終わった。
ベンチを、無言で後にする。ミーティングで、引退が決まった三年生がそれぞれ今までありがとうだとか、無難な挨拶をした。涙は無かった。誰もが呆然として、負けたことが信じられないと言った表情だった。そのまま更衣室へ行き、ドロドロになったユニフォームを着替えた。
「俺をセンターライナーに抑えるなんて、まぐれもいいとこだな」
秋良が、ポツリと呟いた。隣でアンダーシャツを脱いでいた真冬が、秋良を見た。だが、彼は秋季大会の時のように怒りを見せることはなく、何も言わなかった。それは真冬も本当にそう思ったからなのか、秋良がボロボロと涙を流していたからなのか──そんな真冬の優しさに、秋良は感謝した。
「終わったんだな、俺ら」
「そうだな」
真冬の声が、震えていた。涙を見せないだけ、真冬は強いなと思った。着替え終わり、秋良は誰にも声を掛けずに更衣室を出た。声を掛けることが出来なかった。逃げるようにして外に出ると、そこには制服姿の女の子が一人立っていた。秋の新人戦の時の記憶が、フラッシュバックする。ただそこに居た少女はあの時とは違い、二見高校の制服を着ていた。
「お疲れ様」
夏希が、ニコリと笑った。上手く微笑み返すことが出来ず、秋良は黙って一歩を踏み出す。トコトコと、夏希は秋良の後を追い駆ける。
「やっぱり、アホだったな、俺。約束……守れなかった」
また一筋、涙を零す。それを見られたくなくて、秋良は振り返らなかった。夏希は、優しく笑った。
「でも、カッコ良かったよ」
「……アホ言うな」
「本当だよ」
小走りして、夏希が秋良に追い付いた。秋良の左に立った夏希が、秋良の左手を握る。
「私が嫌いな野球を、良い思い出に変えるって約束は、守ってくれたから」
夏希が、少し恥ずかしそうにそう語った。野球が嫌な思い出なら、俺が良い思い出に変える。春季大会で負けたその日、秋良が言った言葉だった。
「だから、責任取ってよね」
今更誤魔化せる訳も無いと思ったが、それでも右手で涙を拭ってから、夏希を振り返る。
「責任?」
夏希も、秋良を見上げた。歩みを止めて、夏希はそれに答えた。
「私にアキラくんのことを好きにさせた、責任」
秋良がフッと笑うと、夏希が不機嫌そうに不貞腐れ、それでいて嬉しそうに笑った。今までモヤモヤとしていた気持ちを吹き飛ばしてくれるような、そんな笑顔だった。手を繋いだまましばらく歩くと、バス停に着いた。だが、二人はそのまま通り過ぎて歩き続けた。何処に行くのかと思ったが、なんとなくこのまま歩いていたい気がして、それでも良いと思った。
「アキラくんは、受験するの?」
「そうだなあ……大学で野球でもしようかな」
夏希が失笑するので、俺は本気だよと苦笑いで答える。正直な所、野球部を引退したらどうするかなんて考えたことなどなかった。それでも、野球が好きだった。咄嗟に思い付いて言った言葉だったが、それも良いなと思った。だから、本気でそうしようと思う。これからは受験生かと思うと、ちょっぴり嫌気が差した。今まで勉強しなかった分は、死ぬ気で取り戻さないといけない。
「それより、順番がおかしくなったけどさ」
秋良が言うと、夏希は首を傾げた。言葉を選ぶようにしながら、秋良がそれに答える。
「俺も、好きだよ。付き合って下さい」
照れくさそうに、夏希が笑った。それから、よろしくお願いします、とお互いに頭を下げあった。妙な恋人関係の始まりだと思って、少し可笑しくなって笑った。これからこんな風に一緒に手を繋いだり、あるいは受験生として一緒に勉強したりするのだろうか。いつまで経っても、手を繋いだら幸せな気持ちで居られたら良いなと願った。大学に行ったら、きっとまた野球をするだろう。サークルみたいにのんびりやるのも良いかな、という気もしたが、やっぱりやるなら今までみたいに真剣にやろうと思った。それを夏希が応援してくれたら、きっとやる気も出るだろう。そしてまた、あの緊張感を味わいたい。
九回裏、四対三の一点差、ツーアウト満塁。打てば同点はたまたサヨナラ。打たなければ負け。そんな劇的な場面に巡り合わせるのは──きっと、ヒーローの役目に違いない。