6.春菜
七回から登板したマウンド上、九回表、三対ニ。一点差ながら勝ってはいるものの、緊迫した場面の連続にかなりの疲労感に見舞われている。背中越しに二塁を見た。ランナーがジリジリと、リードを広げている。三塁ランナーも同じだった。打たれる訳にはいかない。ここが正念場だ。吹き出す汗を拭う余裕もなく、セットポジションから投球動作に入る。バッター勝負。ほとばしる汗が、指先でボールの感覚を奪った。背筋がヒヤリとした。躊躇して、腕を振り切れなかった。ジリジリ、とけたたましい音が危険だと言わんばかりに頭の中で鳴り響く。なんとか暴投だけは避けようと指先に力を込めた。だがそれが逆効果だった。ど真ん中にスッポ抜けた棒球が、キンと甲高い音と共に秋良の後方へ消えていく。ハッと我に返り、秋良はベッドから飛び起きた。水浴びでもしていたかのような大量の汗が、たまらなく気持ち悪い。
「またかよ……」
ジリジリと鳴り響く目覚まし時計を、荒々しく止めると、重たい体をベッドから起こす。先程までの悪夢を、忘れるために首を揺する。顔を洗い、汗だくのシャツを着替え、用意されていたトーストを頬張る。コップ一杯の牛乳を飲み干して、部屋に戻って出発の準備を整える。奇跡的に補講を一つも受けることなく突入した春休みは、春季大会に向けて練習漬けの日程だった。グランドの雪が溶けてからは何度か雪自体は降ったものの積もるほどではなく、寒いながらも充実した練習メニューをこなしていけるのだから、休みがなくとも満足だった。一月末には発表された選抜出場校の組み合わせ抽選も間近に迫り、テレビも甲子園の話題が増えてくる。夏は、見る側ではなく、やる側になろう。そう願って今日も家を出る。秋季大会では地方大会どころか県大会の一回戦で敗れてしまった篠山高校に、選抜出場の声が掛かる訳ないなんてことは当然分かりきっていた。それでも、テレビを見ていると悔しさが込み上げてくる。雲ひとつ無い綺麗な空。朝日に向けて吐く息は白い。しばらく歩いて行くと、すぐに大野山駅という錆びついた看板を掲げた駅舎が見えてくる。入り口に立ちはだかる駅員に取り出した定期券を見せる。はいどうぞ、と駅員のおじさんが秋良をホームに入れてくれた。自動改札などない寂れた駅に、タイミングよくゴトゴトと電車が滑りこむ。タイミングよくと言っても、電車が来る時間を狙いすまして家を出発しているので、当然と言えば当然だった。開いた扉をくぐり、開いた席に座ろうと思ったが意外と乗客が多く、適当なつり革を見つけてそれを掴んだ。ほとんどが高校生で、秋良のように練習に向かうのであろうジャージ姿の集団も居れば、補講があるのか、眠たそうに参考書を広げている者もいた。三月も半ばのこの時期に補講があるなんてお気の毒様としか言い様がないのだけれど。ガタン、と電車が動き出した。窓の外を見ると、見慣れた町並みと駅名通りの山が視界を独占する。景色の細部にまで見覚えがある辺り、ここが自分の育った街なんだな、ということを実感した。
「よし、じゃあ、各自ストレッチはしてから上がれよ」
練習終わりに、真冬がキャプテンらしく仕切ってそう命令する。秋良も言われるがまま肩を回した。今日は二十球ばかし全力投球出来た。紀洋のキャッチャーミットの音が心地よかった。
「アキラ、お前、今日はまっすぐ帰るのか?」
「何、どっか寄って帰るのか?」
すぐ近くで足のストレッチをしていた正幸が尋ねたので、秋良は逆に質問を返した。正幸は普段バス通学をしているので一緒に帰ることはなかったが、時々こうやって寄り道に誘ってくることがあった。
「いや、よくよく考えたら学年末試験も無事に終わったんだし、ゲームでも買いに行こうと思って。んでそのついでに、飯食って帰らねえか?」
「どうせ、またポケモンだろ?」
秋良が笑いながら言うと、気に障ったのか、正幸はムッとしたように反論する。
「バカ言え、別のゲームだよ。第一、ポケモンをバカにすんな。俺のグレイシアは最強なんだぞ!」
「はいはい、グレーシアだかマレーシアだか知らねえけど、今日は遠慮しとくよ」
「マレイシアじゃねえ!グ・レ・イ・シ・ア!」
相変わらずのゲーム好きだな、こいつは。あまり怒らせる訳にもいかないので、適当に苦笑いで誤魔化すと、まあ行けないなら仕方ねーなと、ブツブツ文句を言いながらも納得してくれたようだった。部室に戻って着替えると、秋良はスポーツバックから紙袋を取り出した。フゥ、と息を吐いて校舎の中へ入っていく。何処からともなく聞こえてくるトランペットの音。正直、楽器のことはよく分からないので、その音が本当にトランペットなのかどうかは自信が無かった。だが、もし秋良たちが甲子園に行った時は、吹奏楽部の皆様方には是非とも甲子園に応援に来て頂きたいので、楽器の名前くらい覚えておこうかな、という気にもなった。もちろん、結局覚えやしないのだろうけれど。しばらく校舎内を歩きまわり、キョロキョロと教室を見て回る。人を探していたのだが、なかなか見つけるのは難しい。そろそろ彼女の部活も終わっているはずなんだかな、と歩き回っているうちに、ふと思い立って昇降口に戻った。よくよく考えたら、帰る時には上履きを履き替える必要があるのだから、ここで待っていれば見つかるに違いない。念のため靴箱を確認すると、まだ校舎の中にいるらしかったので、その近くで待つことにした。しばらくして、目当ての人物は姿を現した。
「アッキー」
パタパタと、駆け寄ってきたのは春菜だ。秋良は、彼女を待っていた。
「練習終わったの?どうしたの、こんなところで」
上履きを履き替えながら、彼女が尋ねた。予想はしていたが、少しだけ緊張した。別に告白しようという訳ではなかった。それでも、慣れないことは精神的な体力を消耗する。
「これ。バレンタインのお返し」
紙袋を渡すと、驚いたように、春菜はそれを見た。そして、小さく微笑む。
「今日がホワイトデー、だから?」
思い出したように春菜が言った。秋良はそれに頷きを返す。
「たかがチロルチョコでも、貰って何もしないってのがすっきりしないから。そんだけ」
ぶっきらぼうな言い方だと秋良自身も感じていた。だからなのか、パラッと流れた前髪を左手で掻き分けなながら、春菜は困ったような表情を浮かべる。
「そういうつもりであげた訳じゃないよ。だから、別に要らない」
「どういうつもりでも、良いよ」
グッと紙袋を差し出す。春菜はそれに見向きもせずに、校舎の外へ歩き始めた。急いで、その春菜の後を追いかける。
「別に、貰うくらい良いだろ。こっそり捨てても構わないんだし」
春菜が歩みを止めた。秋良はその後ろに立って、彼女の返答を待った。少し間があいて、春菜が振り向かないまま答えた。
「アッキーは、どうして練習に戻ったの?」
「どうしてって……」
「私に、フラれたから?」
返答を考える間もなく、春菜が言った。ストレート過ぎるその言葉が、秋良の胸を抉るように突き刺さる。いくらなんでも、ひどいように思う。だから何かを言い返そうと思ったが、何も言葉が出て来なかった。男は口喧嘩に弱いとよく言われるが、まさにその通りだと思わざるを得なかった。
「去年の夏、先輩の引退試合の時にさ。エースの先輩がケガで投げられなくなっちゃったから、アッキーが七回くらいからマウンドに上がって、頑張ってたけど、最後の最後で打たれちゃって。その試合、スタンドで一人で見てて、ショックだろうなと思って、励まそうと思って、そしたら、アッキー、泣いてた」
今朝見た悪夢が、脳裏にちらついた。先輩の引退試合で、先輩の期待を背負って上ったマウンドで、持ちこたえることが出来なかった。チームメイトは先輩も、同級生も、後輩も、顧問の先生でさえ、誰も秋良を責めなかった。球場の外れでミーティングを終えた後、誰にも話し掛けられないうちに、逃げるようにスタンドに上がった。誰も居なくなったそこにスポーツバッグを投げ捨てて、適当な席に腰を下ろし、泣いた。悔しかった。打たれたことも、先輩の代わりを成し遂げられなかったことも。何もかもが悔しかった。人一倍、練習は頑張っていたつもりだった。エースナンバーこそ得られなかったけれど、だからこそ、二番手の十番の背番号を与えられたのだと思っていた。だが、十番なんて所詮選ばれし九人に入らなかった人間に過ぎなかったのだ。先輩が抜けて、自動的にエースナンバーに昇格した秋良の背番号は、実力で得たものだなんて思えなかった。ただあの日あの時のマウンドで全てを失ったような、全てが終わってしまったような、そんな感覚に陥ってしまった。自らの引退試合だった訳でも無いのに、燃え尽き症候群に掛かってしまった秋良にはもはや練習に顔を出そうという気が起きなかった。何より練習に行かなくても与えられた背番号一に対して、自分には才能があるからエースナンバーを与えられたと思い込むことで、現実から逃避していたのだ。そんな情けない自分の姿を、目をそらし続けていた現実を春菜に突きつけられた今、秋良はどうしようもないくらいに動揺することしか出来なかった。
「あの時の涙は、なんだったの。悔しかったんじゃないの。なのに、練習サボって、みやも怒らせて、みんなに呆れられて、関係ない私までバカにされて……泣いてたアッキーを心配してた私が、バカみたい」
矢継ぎ早に言う彼女の口調が、少しずつ、震えていく。スタンドで泣いていた姿を見られていたことも知らなかったが、練習をサボる秋良のせいで春菜にまで危害が及んでいたなんて夢にも思わなかった。何を言われたかなんて、野暮なことは聞けなかったけれど、そんなことにさえ気付かなかった自分自身に一番腹が立った。これじゃあ彼氏失格だと、素直に認めるしかなかった。認めるも何も、既に彼氏ではないのだけれど。つまりは、どうにもこうにも、遅過ぎた。
「なんで、今になって、また練習行くようになったの……」
春菜が、再度秋良に尋ねた。答えようと思えば思うほど、頭が働かない。春菜が鼻を啜る。寒さのためか、それとも泣いているのか、表情を伺い知ることの出来ない秋良には分からない。ただ降り始めた雪に、きっと寒さのせいなのだろうと信じることしか出来なかった。こんな時に気の利いたことが言えたら、きっと春菜にフラれるようなことも無かったに違いない。だからこそ、自分の頭の悪さを呪った。
「ごめん」
無意味だと知りながら、口をついて出てきたのは、そんな陳腐な言葉だった。今の自分の心情を正確に伝えることの出来ないもどかしさに苛立つ。
「謝らないでよ、私が怒ってるみたいじゃん」
再び、春菜が歩みを進めた。少し迷ったが、結局秋良も同じ歩幅でその後を追いかけた。校門を出て、蕾が付き始めた桜並木を通りすぎていく。二年前の記憶が、秋良の脳裏に蘇った。
「ハルナ」
思わず、呼び止める。春菜はまた足を止め、秋良の言葉を待った。いや、待ってくれているというのは、秋良の勝手な想像だったかもしれない。それでも、春菜は秋良に言葉を掛ける最後のチャンスをくれた。新人戦で敗れ、真冬に呆れられ、春菜にフラれ、不良に絡まれ、亮に助けられ、正幸に怒鳴られた。練習に戻った理由なんてものは、おそらくひとつではない。それでも、秋良がエースナンバーを背負う理由を知るために、エースとしてマウンドに上がることを許されるために、自分自身が納得するために。そのために、練習に出なければならないと考えた。甲子園は、秋良の夢であることに間違いはない。ただ、秋良がエースであるということを、一番認めて欲しかった人物が、誰だったのか。今になって、それに気付いた気がした。だが、得てして現実とは残酷なものだ。秋良のことを最も認めて欲しいと思うその人物は、こんなにもすぐ目の前にいるというのに、その距離は恐ろしいほどに遠く感じた。春菜が、秋良を振り返った。さっきまで泣いていたためか、くしゃくしゃになった笑顔が、秋良の心を苦しめた。まだ春菜の瞳は、溢れそうな涙で潤っている。
「言ったでしょ、もう終わりにしようって。私達はさ、もう、とっくに終わってるんだよ」
震える声で、春菜は続けた。ポロポロと、また涙を流す。ひどく心が痛んだ。
「だからね」
鼻を啜って、春菜が空を見上げた。まるで春の訪れを拒むかのように、二人の間を雪が舞う。もう数週間程経てば花を咲かせるのであろう、桜の木。二年前のようにチラチラと降り注ぐのは、ピンク色の花びらではなく、白くて、冷たい、雪だった。
「さよなら、“タカツジくん”」
秋良の返事を待つことなく、春菜は踵を返す。走り去っていく春菜の後を、追いかけることは出来なかった。綺麗な髪に絡まっていた雪が、ハラリと落ちるのが分かった。呆然と、降りそそぐ雪を見つめていた。神様がいるとしたら、何故こうも冷たいのだろう。何の皮肉なのか、全てが始まったこの場所で、全てが終わったのだ。どうせなら、もっと幸せなストーリーを用意して欲しかった。ふらりと、一歩を踏み出す。生まれて初めて、足に重さがあることを知ったような気がした。桜並木を抜けた頃になって、ようやくまともに歩けるようになると、まだ右手には春菜に渡すはずだったホワイトデーの紙袋を携えていたことに気付く。右手を高く翳し、それを投げ捨てようとして──やめた。思い付いたように、駅の裏手を目指す。左手で頭に積もった雪を払い、古びた商店街のアーケードに差し掛かる。自分の行動を説明するために、今駅に行けば春菜と鉢合わせてしまうからと、理由を付けた。そんなこと、厳密に考えていたわけではないし、むしろ考える余裕などなかった。ただ何かに取り憑かれたように、商店街を歩く。『藤井書店』の看板の前で立ち止まる。意を決して、中へ入った。
「いらっしゃいませ」
女の声だった。月音かと思ったが、見るとそこに立っていたのは夏希だった。姉妹だからなのか、声が似ているということに初めて気付く。
「なんや、アホヤくんやん。お兄ちゃんなら、バイト行ってておらへんよ?」
来客者が秋良だと気付いた夏希が、冗談交じりに言った。今の秋良には、それに適切な突っ込みを返したり、おどけたりすることも出来ない。様子がおかしいと気付いたのか、夏希も冗談を言うのはやめて、真顔で問いかけた。
「……どないしたん?」
答えることもせずに夏希の傍に詰め寄り、レジ台にもたれ掛かるようにして背を向けた。レジの裏で椅子に座ったまま、心配そうに秋良を見上げる。
「しばらく、ここにいて良い?」
夏希は良いよともダメだとも言わなかった。ただその沈黙に夏希の優しさを感じ取って、それに甘えることにした。店の奥、土間からトタトタと靴の音がする。夏希を呼ぶ声と共に、姿を現したのは月音だった。
「ナツキ、店番ありがとう、変わるよ。って、アキラくんもおったんか」
こうやって聞き比べてみると、二人の声は随分と違うような気がした。お邪魔してます、と会釈すると、月音が笑う。
「アキラくんも上がってってえーよ、お昼ごはんはナツキの分しかあらへんけど」
「いえ、そんな、そこまでは大丈夫です、すみません」
俺は最低だ、と秋良は思った。女の子にフラれた傷を癒して貰うために、別の女の子の所に、今、いるのだ。その現実だけを見れば、とんだハッピー野郎だと嗜められても抗えない。もし真冬が目の前に居たら、秋良のことをおもいっきり殴ってくれたかもしれない。それでも、誰かに傍にいて欲しかった。校門の桜並木の中で全てを失ったことで、心のあり方まで見失う。ヒリヒリとも、ズキズキとも形容し難い、独特な傷が痛んだ。だから、思い立つがままここにいた。野球から逃げ出した秋良を正しい方向に導いてくれたのは、誰か一人のおかげではないにせよ、この場所も大きく貢献していた。心の拠り所になっていた。だからこそ、逃げるように、導かれるようにここへ辿り着いた。だが、それは自分勝手だ。亮や、月音や、夏希には関係のない秋良だけの人生であるはずなのに、それを心の拠り所とするなんて自分勝手で都合の良い妄想に過ぎない。少しずつ冷静さを取り戻した脳がそう結論付けて、秋良に家に帰るよう命令する。失礼しますと軽く頭を下げて、店を立ち去ろうとする。その左手を、誰かが掴んだ。小さくて、冷たい手のひら。
「いても、えーよ?」
夏希の温情に戸惑いながら、視線を逸らす。太宰治の人間失格が、本棚に並んでいた。自分のことを言われているような気がして、嫌気がさす。
「今、ここにいてえーか聞いてたやん。ほら、上がって」
夏希が無理やり秋良を引っ張った。ジワリと、涙が滲んだ。人生で一番と言っても過言でないほど、誰かに優しくして貰いたいのが今で、その優しさを享受してくれる夏希にたまらなく申し訳ない気持ちになった。男が泣くのは格好悪いと、涙を零すのを堪える。
「ありがとう」
ぐいぐいと引っ張られるまま、土間を抜け、こたつのある居間に上がる。用意されていた一人分の昼食が、誰かから食されるのを待ち望んでいた。靴を脱いで畳の上に上がると、ようやく夏希が手を離す。ちょっと待っててと言って、一人、隣の台所へ姿を消した。戻ってくると、湯のみを二つ乗せたお盆を手にしていた。
「どうぞ」
差し出された緑茶を、左手で受け取る。右手には、春菜に渡すつもりだった紙袋が未だ握られていることに気付く。クシャクシャになった紙袋をさらに力強く握りしめた。腰を下ろしこたつに入る夏希に促され、秋良も向かい側に座った。ズズズとお茶を啜る。少しだけ、心の中まで温かくなった。
「いただきます」
何も言わず、こたつの上に用意された純和風な昼食に箸を付ける。秋良も昼ごはんは食べていないはずなのに、空腹を感じないから不思議だ。
「俺さ、ずっと野球の練習、サボってたんだよ」
夏希は、答えなかった。味噌汁をすすり、ドレッシングのかかったサラダをムシャムシャと食べている。
「甲子園が俺の夢とか言っときながら、可笑しいよな。だから、さ。試合で負けて、チームメイトにも呆れられて、彼女には……フラれて」
右手の紙袋を、こたつの天板の上に置いた。夏希は無表情で、目玉焼きを食べている。朝食みたいな昼食だなと思った。
「そんなとき、商店街歩いてたら、よく分かんねえヤンキーみたいな奴に絡まれて、そしたら、リョウさんが、助けてくれた」
両手をこたつの中に入れ、立てていた膝を抱えるようにして座り直す。カタン、とこたつのサーモスタットが機能する音が聞こえ、冷たい手の甲をジリジリと焦がすように暖めた。
「だからかな。今日も、ここに来たら、助けて貰えるような、救われるような気がしたんだ。自分勝手だけどね」
何があったのかは話さなかった。それでも、夏希ならなんとなく察してくれるのではないかと思った。それこそ、自分勝手なのだけれど。ただ味噌汁を啜りながら、黙って話を聞いてくれる夏希に感謝した。しばらく沈黙が続いて、ようやく昼ごはんを食べ終えた夏希がごちそうさまと言った。ガチャガチャと食器を重ね、立ち上がり、お茶を載せていたお盆と共に台所へ運ぶ。戻ってきた夏希が、再び秋良の向かい側に座った。
「私は、友達とか、おらへんから」
急に口を開いた夏希にビックリして顔を上げる。泣いているような、笑っているような複雑な表情をしていた。
「そら、学校で人と話すことが全くない訳ちゃうよ。ただ私、こんな性格やから、だいたい誰も話し掛けてくれへんのよ。関西弁なんも、なんかこっちの人には感じ悪く聞こえることが多いらしいってのもあって。アキラくんやって、最初は愛想の悪い、よう分からん女って思ったやろ?」
咄嗟に尋ねられ、思わず答えに詰まる。肯定こそしなかったものの、否定することも出来なかった。そんなの、肯定しているのと一緒だ。
「最初だけやなくて、今でもそうかもしれへんけどな」
「そんなこと……」
「えーの。自覚は、してるから」
苦笑いで、夏希が言う。何かを言わなければならないと思った。だが、思えば思うほど、何も浮かばない。変わらない。肝心な時に何も言えないのは、何も答えられないのは、愚かで情けないことだと思った。
「やから、アキラくんが話し掛けてくれた時は、本当は嬉しかったんよ。巧く表現するんが苦手やから、アキラくんには分からへんかったかもしれへんけど」
あと私、素直ちゃうから、と小さく付け足して夏希は笑った。やっとの思いで、秋良もそれに笑って答える。
「そやし、私も自分勝手。アキラくんのこと、勝手に友達やって思ってるから」
「それは……」
「でもね」
秋良が話すのを遮るように、力強く夏希が言った。仕方なく、黙って話を聞くことにした。
「でも、アキラくんがいろんな話してるのに、なんて言えば良いか分からんかった。ただ黙って聞くことしか出来ひんくてさ。様子がおかしいってのはなんとなく分かったし、友達なら話聞いて、何か言ってあげなって。やのに、肝心な時には、何も言えへんなあって」
ドキリとした。それは秋良が思っていることでもあったからだ。そんなことない。そんなことないのだ。話を聞いて貰えるだけで救われることだってあるのだ。自分の一番後悔していることが、必ずしも大きな問題ではないことを、今自分自身のことになって気付く。何か都合の良いことを答えて貰うことを期待しているばかりではない。もちろん、心に沁みるような素晴らしい言葉があるのなら、聞きたいのは確かだ。それでも。それでも──
「話を聞いて貰えるだけでも、すっきりすることってあるんだよ」
思わず口をついて出てきた言葉に、夏希がキョトンとした表情をした。構わず、秋良は続けた。
「何も言わなくたって、傍に居てくれるだけで、元気になることだってあるんだよ。それが友達だったり、恋人だったりするんだと思う」
自分で何が言いたいのか分からなくなり、失笑する。夏希も釣られたように笑ってくれた。
「心配しなくても、俺からみても、ナツキちゃんは友達だよ」
「ナツキちゃんって……なんか気持ち悪いんやけど」
本気で嫌がっているのか、冗談なのか分からなかったが、笑顔でそう言うので、秋良も笑顔で答える。
「じゃあ、ナツキさん?」
「……他人行儀」
「ほんなら、タカクラさんでどーや!」
「なんで関西弁なん?イントネーションおかしいし。それにナツキさんより余計距離遠いわ」
いろんなことに同時にたくさん突っ込みを入れてくれるあたり、さすがは関西人だと感心する。お陰で、さっきまでの憂鬱な気分が、だいぶ和らいだような気がした。もちろん、ここまでの一連の流れがあってこそ、笑えるくらいの元気を貰えたのだと思う。
「やっぱり、ナツキちゃんでえーよ」
「了解、ナツキちゃん」
「……何回も呼ぶんはやめてくれへん、アホヤくん」
「アホヤじゃねーし!」
笑って、ふと思い立ってこたつの上の紙袋を夏希に渡す。驚いたような表情を見せながらも、夏希はそれを恐るおそる受け取った。
「友達としてお願いなんだけど、これ、貰ってくれないかな」
「……フラれた、彼女さん代わり?」
驚いて目を丸くする。そこまで気づいていたのと聞くと、だって今日ホワイトデーやんと、納得が行くような、行かないような返答を頂いた。女の勘は鋭いという奴なのだろうか。浮気したら一発で見抜かれてしまうんだろうなと思い、今後浮気は一切しないようにしようと心に誓った。もちろん、出来る限り。
「ごめん、代わりって訳ではないけど、もったいないからさ。嫌なら、捨てて貰っても良いから」
「じゃあ、捨てる」
「……やっぱ、やめて」
夏希が失笑し、開けて良い?と尋ねたので、どうぞと促す。ガサガサ、ビリビリと、クシャクシャの紙袋を開けると、中からクッキーが数枚入った透明な袋と、桜の花びらの形をした携帯ストラップを取り出し、わざとらしく、おー、という歓声をあげる。
「ちなみに、私、八月一日生まれやから」
「……は?」
突然のことに呆気にとられていると、夏希が付け足した。
「言うといたら、誕生日もなんかくれるんかなと思って」
「……おいおい」
苦笑いの秋良に構わず、夏希はガサガサと、クッキーの包を開けて、そのうちの一枚を口にした。サクッという良い音とともに、クッキーが三日月型に形を変える。
「んー、美味しい。ありがとう」
もう一口で、クッキー一枚を食べ終える。秋良も食べるかと、二枚目を取り出して、無言で尋ねられ、俺は良いよ、と手を横に振ると、口をモグモグとさせながら、クッキーの袋をこたつの上に置いた。不意に、ポケットから携帯電話を取り出した夏希が、桜のストラップを取り付け始めた。チリンチリンと鈴が揺れ、音が鳴る。夏希なのに桜とはなんともアンマッチだが、ピンク色の携帯電話に案外良く合っていた。たかだかクッキーと携帯ストラップにここまで嬉しそうにしてくれるのは、正直予想外で、救われた気持ちになった。ひょっとすると、失恋した秋良のことを気遣ってのことなのかもしれない。たまらなく嬉しかった。
「あ、そや、アキラくん、アドレス教えてよ」
ストラップを取り付け終えた夏希が、思い付いたように言った。
「良いよ。はい」
無意識のうちに畳の上に置いていたスポーツバッグから携帯電話を取り出すと、赤外線機能を駆使してアドレスを交換する。
「ありがとう。早速、登録名をアホヤくんに変えとくわ」
「変えんなよ!」
すかさず突っ込みを入れると、夏希が楽しそうにクスクスと笑った。そう言えば、普通に笑うようになったなと気付き、またそれが嬉しくなる。アドレス帳を開き、夏希の連絡先が登録されたことを確認しようとして、カ行で指が止まった。カチカチと下を押して、ようやく辿り着いた、五条春菜。メニューを開き、削除と書かれた項目の所で、逡巡する。これで、良いんだと自分に言い聞かせ、震える指で決定ボタンを押した。背筋が、一瞬ヒヤリとした気がした。画面に表示される、削除しました、の文字。これで良いんだ。これで、良いんだ。どれくらいの時間が掛かるかは、分からない。それでも、少しずつ、前に進んでいこう。これからは、誰かに振り向いて貰うためではなくて、自分自身のために、夢を叶えよう。そう強く、心に誓った。