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5.夏希

 何ヶ月ぶりだろうかと思い返してしまうくらいに久々な数日に渡る晴天により、辺り一面を覆っていた雪は溶けて水気も消え、綺麗な砂色のグランドが姿を表したその日、雪上ではない正真正銘のノックの感触を味わいながら、秋良は春の兆しを胸の中いっぱいに吸い込んだ。良い。凄く、良い。やはり、野球というのはこうでなくちゃならない。決して、凍った土の上をドロドロになりながら駆け回るウィンタースポーツなんかではないのだということを実感する。

「アキラ、久々に投げてくれよ!」

 キャッチャーミットとプロテクターを携えた、西大路紀洋が言う。篠山高校の五番バッターであり、秋良の相棒、つまりキャッチャーだ。

「おお、待ってました!」

 声高らかに答えると、紀洋は秋良のすぐ傍に駆け寄った。

「やっぱり、屋内練習じゃ緩いキャッチボールくらいしか出来ないし、早くアキラの球を受けたくて、ウズウズしてたんだ。ちょっとで良いから、頼むわ」

「俺も、早くマウンドに上がりたくて仕方なくてさ。でも急に投げすぎて肩壊しても意味ないから、本気は十球くらいな」

「オッケー、分かった!」

 紀洋がミットを右手でバシバシと鳴らす。良い音だ。すぐにでも全力投球したい気分だが、ここの所は校舎の窓ガラスを割らない程度の投球しか出来ていなかった分、無理をすれば肩を壊すことは必至だった。室内練習場があるような強豪校が羨ましかった。もちろん、雪上ノックをやった日はグランドの隅で何度か投げたことはあったが、マウンドに上るのは久々だ。少なくとも、年が明けてからは初めてだった。

「お、アキラ、投げんの?」

 内野ノックを終え、ダイヤモンドから引き上げて来た正幸が、すれ違いざまに尋ねた。

「そうなんだよ、久しぶりにマウンドで」

「良いね、後で打たせてくれよ」

「バカ、六番バッターには指一本触れさせねえよ」

「おいおい、ひでー言われようだな」

 苦笑いを浮かべながら、正幸は次の練習に向けて去って行く。さっきまで秋良も彼ら内野陣と一緒にノックを受けていたが、正幸たちは今から外野陣と一緒にダウンも兼ねたキャッチボールをしてあがりのはずだ。

「ニヤニヤしてると、怪我すんぞ」

 声のした方を振り向くと、真冬が正幸の後を追うように走り去って行くところだった。

「ニヤニヤと怪我は、関係ねーだろ!」

 離れていく真冬に聞こえるように大声を上げてみたが、素知らぬ顔で遠ざかって行く。

「はは、相変わらず仲良いな、お前ら」

「何処がだよ」

 いったいこいつは秋良たちの何を見て物を言っているのだろうと眉を潜めるが、紀洋は気にする様子もなくホームベースへと向かった。抱えていたプロテクターに包まれていた──と言っても包みきれずはみ出していたが──レガースとマスクを装着し、ベースの裏側に、秋良の方を向いて腰を下ろす。いつでも良いぞ、と言わんばかりにミットを鳴らす紀洋。ゆっくりとマウンドに上がり、足場を固めた。土の感触が、なんとも言えず懐かしい。グローブの中の硬球に付いた砂を右手の親指で落とし、縫い目を転がす。ストレートの握りを確認するように何度も、何度もボールを掴んだ。パン、とまたミットを叩く音。早くしろよ、と紀洋が急かす。まあ、そう慌てんな。心のなかで答え、目を瞑った。息を吸い、吐く。甲子園の空気を、においを、雰囲気を想像した。現実はまだ、恐ろしく遠い。それでも、悪くはなかった。スローモーションのようにゆっくりと振りかぶり、目を開ける。そのまま全ての思いを右手の指に集中させながら、腕を回した。一〇〇パーセントの夢を乗せて、ボールが秋良の指から離れる。スパンと、小気味の良い音が響いた。

 練習を終え、空腹に項垂れながら帰り道を歩いていると、駅の裏手の商店街から漂うコロッケの香りが秋良の胃を刺激する。フラフラと、誘われるように商店街へと足を向ける。気が付けばコロッケ屋のおばちゃんが、いらっしゃい、と秋良に声を掛けていた。

「一個……三十円……」

 安い。そう思った秋良の考えに同意するかのように、グゥと腹の虫が鳴った。

「あんた、部活の帰りかい。お腹すいたでしょ」

 おばちゃんはニコニコと愛想を振りまきながら言った。黄色いバンダナが良く似合っている。

「もう、ペコペコです」

 秋良が答えると、おばちゃんはニッコリ笑った。

「仕方ないね、一個二十円に負けといてあげる」

「え、良いんですか?」

 グゥググゥ、と秋良の胃袋。

「良いの、あなたいつもうちの店の前を、美味しそうに見つめながら歩いてるでしょ。今度から見つめるだけじゃなくて、買いに来てくれればね」

「来ます、来ます。ありがとうございます!」

 この商店街を通るのはだいたい亮の所へ行く時だったが、いつもそんなにこのコロッケを物欲しそうに見つめていたのだろうか。恥ずかしい気もしたが、確かにコロッケのにおいに翻弄されていたような気はする。むしろ、あのとてつもなく良いにおいで誘惑するコイツに、今まで負けなかったことの方が不思議なくらいだ。左肩に下げたスポーツバックの中から財布を取り出すと、小銭入れから百円玉を取り出して渡した。

「五個で良いの?」

「はい!ありがとうございます!」

 秋良の胃袋も、グググゥとお礼を言った。黄色いバンダナのおばちゃんが、手際よくコロッケを詰めてくれた紙袋を受け取り、再度お礼を言って店を後にする。バッタリと、制服姿の夏希と会った。どうやら、コロッケを買う秋良に気付いて立ち止まっていたらしい。野球が嫌いだと言っていたが、秋良のことが嫌いだという訳ではないのだろうか。彼女の考えは、その無表情さも相まってよく分からない。

「……そんなにコロッケ食べて、お昼ごはん入らんくならへん?」

 予想外の第一声に、秋良は思わず笑みを零す。

「俺の家遠いから。それにこんだけ運動してると、いくらでも食べられる気がするしね」

「家、何処なん?」

「大野山。急行止まんないから、篠山から二十分か二十五分くらいかな。って、そんなに特別遠いわけじゃないけど」

 ふうん、と興味無さそうに頷く。興味がないなら、初めから聞かなければ良いのに。少しだけだが、凹むじゃないか。少しだけだが。

「タカクラさんは、学校帰り?」

「当たり前やろ。今日、期末の二日目やから」

 確かに、制服を着ているのだから学校帰りなのは当たり前だったかもしれない。いや、学校へ行く以外の外出時にも制服を来ること、という校則の学校もあるらしいから、律儀にそれを守っているという可能性もあった。今の返答により、その可能性は一瞬にして消え去った訳だけれど。

「そっちの高校って、まだ期末中だったんだ。そいつはお疲れ様だね。うちは先週で終わったよ」

「そんなことどうでも良い。それより私、明日の試験勉強しないといけないの。もう、帰っても良い?」

 こいつは何ともひどい言われようだ。先に話しかけてきたのは、彼女の方だったと言うのに。少しだけだが、凹むじゃないか。少しだけだが。

「いや、別に良いけどさ……」

「あ……」

「あ?」

 彼女が突然、何かを思い出したような表情を浮かべたので、秋良は思わず聞き返した。

「数学の教科書、学校のロッカーの中……」

 ハァと深く溜め息をついた。彼女にしては珍しく表情があるので、ついついその顔に見とれてしまう。やっぱり、目鼻立ちは非常に綺麗に整っていて、とても可愛らしい。目が合って、ドキリとして視線を逸らした。そして彼女は無言のまま、踵を返す。どうやら、教科書を取りに戻るらしい。

「あ、待ってよ」

「待たへん」

 そんな冷たいことを言いながらも丁寧に返答してくれるのは彼女の優しさだろうか。二見高校は篠山から電車で二駅の所だ。間にある藤ヶ丘駅付近を頂点に線路がカーブしているので、実際の二見駅まではさほど遠くなく、自転車でも十分行ける距離なのだが、歩いているところを見ると電車通学なのだろう。篠山駅には東京方面へ向かう電車と二見方面へ向かう電車と二種類の路線があるが、大野山は二見駅よりもさらに先にあり、また東京方面へ向かう電車と違い本数自体さほど多くないローカル線のため、バラバラに駅に向かったとしてもどうせ同じ電車に乗ることになるのは間違いなかった。そうなると、電車の車両内でまた顔を合わせた時にかえって気まずくなるので、それならいっそのこと、彼女と一緒に帰ろうと思ったのだったが、そんな秋良の考えなどお構いなく夏希は一人で先へ先へと歩いて行く。ようやく追いついて横に並ぶと、夏希は不機嫌そうにムスッとしていた。いや、いつも愛想の悪い彼女だから、実際はそんなに不機嫌でもないのかもしれない。

「試験は、金曜まで?」

 空腹感は麻痺してきたが、思い出したように紙袋からコロッケを取り出し口にする。春の気配がするとは言え、まだ手が悴むくらいの寒さにすっかり冷えきってしまっていたが、口の中に広がるコーンとジャガイモの味は甘くて美味しい。

「うん、今週いっぱい」

 秋良の方を見ないまま、夏希が答える。商店街のアーケードを抜けると、駅はすぐそこだった。

「タカクラさんの得意科目って何なの?」

「……お正月は、ナツキさん、やったよね」

 意表を突かれ、呆気に取られる。言われてみればそうだったが、秋良の質問はスルーされてしまった。沈黙が怖くて聞いていただけだから別に構わないのだが、こうも鮮やかにスルーされると、少しだけだが、凹むじゃないか。いや、もはや少しだけではないかもしれない。

「それはだってリョウさんもいたし、タカクラさんって言ったら、どっちも反応するだろ」

 ああ、なるほど、と夏希は納得したように頷いた。鞄から財布を取り出し、定期券を取り出す。秋良も思い出したように、コロッケの入った紙袋を落とさないように抱えながら、スポーツバッグの中の財布を探った。ようやく見つけ出したそれから定期券を取り出し、自動改札機に通すと、ガタリと音を立てて敷居が開く。秋良が駅構内に入る許可を得られたことを確認してから、歩みを進めた。一足先に改札を抜けた夏希は、東京方面と書かれた看板の下を通り過ぎて、奥の階段を昇っていった。

「英語は得意やけど、数学は苦手」

 階段の何段目かで追いついた秋良に、夏希が答えた。一瞬、何の話かと思ったが、さっきの秋良の質問に対する返答だと気付く。無視されていた訳ではなかったらしく、それだけのことにたまらなく嬉しくなった。

「英語得意なんだ。俺はからっきしダメだなぁ」

「何が得意なん?」

 尋ねられて、首を捻る。野球ばかりで、勉強なんててんでダメだった。実際、そこまで野球漬けだった訳でもないのだが。特に練習をサボっていた頃は。

「全部苦手だな」

 素直にそう答えると、一瞬だったが、夏希が笑ったような気がした。

「……野球なんかしてるからやろ」

 呆れたような物言いに秋良は少しムッとしたが、彼女が野球嫌いだったことを思い出し、グッと堪える。

「タカクラさんは、なんで野球が嫌いなの?」

「……むしろ、タカツジくんは、なんで野球が好きなん?」

「それは……」

 言葉に詰まってしまった。何故、野球が好きなのか。やっていて楽しい。違う。相手を三振に取ったら嬉しい。違う。ここで答えるべき言葉は、そんな小学生みたいな返答ではないような気がした。だからと言って、国語の成績がニに限りなく近い三程度の秋良にはそれを饒舌に語ることなど出来ない。

「俺の、夢だから」

 それでも、自分なりのベストの答えを口にしてみた。ありきたりな、ありふれた表現ではあったが、それが全てだった。

「甲子園が、俺の夢だからだよ」

 それまでまっすぐホームの向こう側に顔を向けていた夏希が、秋良を見上げる。喜怒哀楽のどれにも当てはまらないその表情は、少なくとも秋良を冷たく見下すようなものではなかったように思う。

「甲子園に行ったって、大切なものを失うかもしれへんよ?」

 意味深な言葉にドキリとした。彼女の言葉の真意は、秋良の出来の悪い頭では分からなかったが、夢を叶えて傲慢になるなだとか、そういう類の物なのだろう。そう思うことにした。

「それでも、俺は行くよ」

「……アホやろ」

 言葉だけ素直に受け取れば、馬鹿にされていることは間違いない言葉だったが、静かな口調だったためか、嫌な気持ちにはならなかった。

「うるせぇ、ほっとけ」

 今度は見間違いではなかった。夏希が、笑っていた。普段の対応が冷たく感じるだけに、嬉しくなって微笑みを返す。別に笑えない訳では無いんだなと、当たり前のことに感心した。

「お腹、すいてない?」

 思い付いたように、秋良が尋ねた。ガタガタ、と背中側の二番線ホームに急行電車がやってくる。秋良たちの乗る各駅停車が来るまではもう少し時間があった。こんなローカル線に急行電車など作って、採算は取れているのだろうか。とはいえ、沿線には割りとたくさんの高校があるので、地元の高校生たちにとって重要な足となっていることは間違いない。

「すいてへん」

 不意に、グゥとお腹が鳴る。やや遠慮気味のそれは、夏希の体の中から聞こえてきたようだった。胃袋という奴は、正直である。夏希が恥ずかしそうに俯いた。試験が終わってまだ昼ごはんを食べていないのだから、もう一時も回り二時になろうかというこの時間帯ならば空腹感もそれなりだろう。

「本当に、すいてないの?」

「すいてへん」

 意固地になって、夏希は答えた。

「……コロッケ、いらない?」

「……いる」

 今度は、正直だった。手が汚れるだろうと思い、紙袋から取り出さずそのまま夏希に渡してやる。受け取った彼女は袋の中を覗いてゴクリと唾を飲む。良いの、とつまらないことを尋ねるので、もちろん、と力強く頷いた。

「なんだかんだ寒いから、すっかり冷めてるけど、それでも良ければ」

「……ありがとう」

 お礼を言って夏希は、ゴソゴソとコロッケを紙袋の入り口から顔を覗かせるような位置に移動させる。そして、カプリと噛み付いた。モシャモシャと、相変わらずホームの向こう側を見つめながら一口、二口と頬張っていく。

「美味しい」

「それは、良かった」

 コロッケを一つ食べ終えた彼女は、二個目のコロッケをゴソゴソと取り出して口にした。

「ちょ、ちょっと、俺の分も残しといてよ」

 慌てて秋良が止めに入ると、夏希が真顔で答える。

「心配せんでも、四つも食べられへんから」

 ムシャムシャと二個目のコロッケを平らげると、彼女ははい、と紙袋を秋良に突き返した。受け取り、秋良も残りのコロッケを頬張ることにした。ひと齧りした所で、プツン、と構内放送のマイクの電源が入る音がした。

“まもなく、一番線に、各駅停車が参ります”

 見ると、ゴトン、ゴトンと電車が走ってくるのが見える。車内には何十人もの高校生の姿があった。期末、もとい学年末試験の真っ只中である学校は、夏希の高校以外にもいくらかあるらしい。扉が開いて、ゾロゾロと高校生たちが降りていく。中には、夏希と同じ制服を着ている子の姿もあった。ひょっとすると、この中に夏希の友達も紛れているかもしれない。その友達に今の二人を見られると何と思われるだろうか。少し申し訳ない気がして、秋良は遠くを見つめ他人のフリをする。

「乗らへんの?」

 そんな秋良の努力を知ってか知らずか、夏希が尋ねた。友達に見られることをどうとも思っていないのだろうか。

「乗るよ、乗る!」

 先に車内に入っていく彼女の後を追いかけるように、駆け込み乗車する。タイミングよく、駆け込み乗車は危険です!とデカデカ書かれた車内広告に目がいった。すみません、と誰にでもなく謝る。夏希が先に腰を下ろし、少し迷って、秋良もその隣に座った。何も言われなかったので、拒まれなかったと思うことにした。

「二見駅から二見高校って微妙に距離あるよね。駅から、どうやって行くの、歩き?」

「うん、歩き」

「ってか、二見高校なら、篠山駅からバス一本で行けるけど、バスじゃ行かないの?」

 練習試合で二見高校へ行くときは、いつもそのバスを使っていたことを思い出し、尋ねてみた。よくよく考えれば、電車で行くよりバスで行く方が確実に楽なはずだ。二見駅までの定期券を持っている秋良でさえ、そうするのだ。もちろん、金欠の時は電車で行くこともある。

「バスだと、交通事故とか、怖いし」

 真顔で言うので、可笑しくて笑ってしまったが、夏希にキッと睨まれたのですぐに笑うのをやめた。あまりに鋭い眼差しだったため、怯んでしまう。

「そんなに心配するほど、事故なんて起こらないよ」

「それでも年に五千人とか、一万人とかって人が、事故で亡くなってる」

 極度の心配性のようにも思えたが、五千人だとか一万人だとか具体的な数字を出されると、身近な問題であるようにも思えた。日本の人口が一億人くらいであることを考えると、一万人か二万人に一人が交通事故でなくなっている計算になる。多いのか少ないのか、よく分からない数字だった。ただ、車の事故は必ず亡くなるという訳でもないので、事故件数だけで言えばもっと多いことになる。彼女が心配するのは、そういうことも含めた確率の話なのかもしれない。

「じゃあ、車とかタクシーにも全く乗らないの?」

「全くって訳ちゃうけど。バスは、まだマシな方。遠足の時は我慢して乗れるしね。ただ、毎日の通学の手段には出来ひんってだけ」

 バスがまだマシというのはよく分からなかったが、車体が大きい分、事故の時の致死率が低いということなのだろうか。ふと、反対側のホームに止まっていた急行電車が出発していくのが見えた。この電車の出発ももうすぐだ。駅前のロータリーでタクシーが乗客を待っている。

「じゃあ、さくらタクシー、乗れないじゃん」

 不可解な顔をして、夏希が秋良を見た。それもそうだろう。秋良だって今、窓の外に止まるタクシーを見て思い出したくらいだ。

「何万台かに一台、さくらんぼ付きのさくらタクシーがあるって、聞いたことあるでしょ?」

 窓越しにロータリーを指さしながら、秋良が言った。

「……知らない」

“えー有り得ない!!!”

 と、頭の中で五条春菜が驚愕の表情を浮かべる。そう言えば、さくらタクシーの話は、春菜に教えて貰ったものだった。二人して家路に就く最中、あのロータリーの前を歩いていた時だ。

“何万台かに一台、さくらんぼ付きのさくらタクシーがあるんだって”

“──さくらんぼ?”

“うん、で、そのタクシーに乗るとね──”

「そのさくらんぼタクシーが、何?」

 興味があるのか、夏希が尋ねる。思い出の中で語る春菜の唇の形をなぞるように、秋良は答えた。

「そのタクシーに乗ると、二人は結ばれるんだって」

「……アホやろ」

 今度はさっきのそれとは違い本当に呆れたように言った。夏希らしいなと秋良は思った。良い意味で、春菜とは真反対な性格だとも思った。女の子なら、誰でもこういう話題には興味があるのかと思っていたが、そうでない子だって居るということを教えて貰ったような気がする。プシューッと扉が閉まり、電車はようやく動き出した。やる気があるのか無いのか、乗務員が気だるそうな声でアナウンスする。

“ご乗車ありがとうございます。この電車は、猿渡行き各駅停車です。次は、藤ヶ丘に止まります”

「アホだよ、俺は」

 ガタガタと走りだす電車に身を揺らされながら、窓の外を見る。恰幅の良い会社員のオジさんが、手を挙げてロータリーのタクシーに乗り込んだ。タクシー乗り場なのだから、手を挙げる必要は無いだろうに、なんて思っていると、タクシーはにわかに走りだす。

「アホだけど、アホなりに精一杯生きてるつもりだよ」

 思い付きで秋良が言うと、夏希は小さく笑みを零した。

「……アホやろ」

「何度も言うなよ、凹むだろ?」

 言いながら、秋良も笑った。

「アキラくんやなくて、アホヤくんやね」

 秋良と同じイントネーションで夏希がそう言うので、馬鹿にされている内容ではあったが、可笑しくて吹き出してしまう。

「ひどすぎだろ、それ」

「今度から、アホヤくんて呼んであげる」

「やめてくれ」

 くだらないやり取りをしているうちに、電車は藤ヶ丘駅のホームに差し掛かる。徐々にスピードを落としていく電車が、キキキと摩擦で線路を軋ませた。完全に停車すると、慣性の法則で体が前方に揺らされた。ガタンと、扉が開き外の冷たい空気が車内に立ち込める。暖房のおかげで車内は暖かかったのだと、その時初めて気が付いた。グゥと、秋良の胃袋が声を上げた。隣に座る夏希がそれに気付き、フフッと声を出して笑った。時刻は二時を回り、コロッケだけで誤魔化せなくなった空腹が秋良を責め立てる。早く帰って、昼ごはんを食べたいと思った。

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