4.真冬
秋良が練習に復帰してから三ヶ月近い月日が流れ、街中がクリスマスモードからお正月モードに切り替わった頃になって、その年最後となる練習納めも兼ねた練習試合が二見高校のグランドで行われようとしていた。篠山高校が二見高校との練習試合でその年の練習を終えるというのは、毎年恒例のことだった。噂によれば、監督同士が大学の同級生で仲が良いらしい。去年は篠山高校のグランドでの練習試合だったので、今年は二見高校のグランドが決戦場だった。去年はまだレギュラーだった訳でもなくあまり覚えていないが、確か去年も今年と同じように、雪がチラチラと舞い、じっとしていたら凍え死んでしまうんじゃないかというくらい強烈な寒さに見舞われていたように思う。
「さっむ!おいおい、こんな中、マジで試合すんの?」
秋良がガタガタと震えながら言うと、正幸は鼻水を啜りながらそれに答えた。
「これで今年最後だからな、もう頑張るしかないだろ」
カチャカチャとバッドを入れた細長い鞄が音を鳴らす。いや、その音はもしかしたら正幸が寒さのあまり歯を鳴らす音だったのかもしれない──まあ、さすがに、それはないか。自分勝手な想像だが、亮ならきっと“んな訳あるかい、あほ!”と威勢よく突っ込んでくれるかな、なんてことを考えながら二見高校の校門をくぐる。すると、もう既に終業式は過ぎて冬休みなはずなのに、制服を着た二見高校の生徒たち数名とすれ違った。
「俺たちみたいに、部活かなんかやってたのかな」
正幸がまた、鼻水を啜って言う。どうやら似たようなことは考えていたらしい。
「かもな。ってゆーか、あの制服……」
すれ違った中のひとりの少女が着ていたセーラー服。上からジャケットを着ていたのではっきりとはしなかったが、以前に誰かが着ていたのを見た覚えがある。
「ん、制服がどうした?」
正幸に尋ねられて、すぐに我に返った。
「あぁ、いや……なんでもねーよ」
そう言って、グランドに向かって歩き出そうとした時だった。たった今生じたばかりの疑問に対する答えが、そこに立っていた。
「……タカクラ、さん?」
名前を呼ばれ、傘越しに、少女が顔を上げた。校舎から出てきたばかりのその歩みを止め、グランドを目指していた秋良たちとばったりと鉢合わせる形となった。
「タカクラナツキさん、だよね?」
そうだ。この制服は、亮の妹である高倉夏希の着ていた制服だったのだ。最近も亮の家、もとい本屋に足を運ぶことは、片手で数えられるくらいの回数ながらもあったのだが、彼女と会ったのは初めの二回だけだったので、すぐには思い出せなかった。案の定、感情の読み取れないその表情に戸惑っていると、不意に夏希が口を開いた。
「そこ、どいてくれへん?」
「え、あ、ごめん」
予想していたよりもトーンの低い声に驚きながら、秋良は道を譲った。夏希はそのまま、何事もなかったかのように、一人校門に向かって歩いて行った。
「知り合い?」
いつの間にか数歩離れた場所に立って二人のやりとりを見ていたらしい正幸が聞いた。苦笑いを浮かべている。そりゃあ、女の子に無表情で“どけ”なんて言われているのをみたら、知り合いだったところでとても仲が良さそうには見えないだろう。
「あぁ、中学の同級生。喋ったこともなかったけど、あんなキツい性格だったとは……」
ため息混じりに、秋良は嘘を吐いた。本当のことを説明するのは、正直面倒臭い。いや、あれは亮の妹で、なんて説明をしても、正幸にとってすれば、“亮って誰やねん!”となること請け合いである。思わず関西弁が出てしまったあたり、亮の影響を受けているのかもしれない。そういえば、当たり前といえば当たり前なのだが、夏希も関西弁を喋っていたな。話すところを初めて聞いただけに新鮮だった。
「ハハッ……まぁ、元気だせよ」
「いや、別に落ち込んでねーし」
答えると、校舎と校舎の間をさっきまでよりも強い風が吹き、あまりの寒さに二人は揃って身震いをする。このままここに突っ立っていたら、風邪をひいてしまいそうだ。
「おい、お前ら、さっさとしろ!」
不意に、校舎を抜けた先、グランドの方から真冬の怒鳴り声がした。驚いて声のした方を見ると、鬼のような形相をした真冬が立っている。いや、あいつは元々の顔が鬼みたいだったかもしれない。
「悪い!すぐ行く!」
正幸が慌てたようにそう叫んで、秋良と二人、大急ぎでグランドへ駆け出した。ちらついていた雪は、少し収まってきたような気がした。
「気を付け、例!」
真冬の声に、全員がありがとうございました、と声を上げる。合同練習の後、二時間くらいで終わった練習試合は、三対一で秋良たち篠山高校の勝利に終わった。
「ひー、なんとか勝ったな。でも、俺らも強くなったんじゃね?」
「バカ、お前はすぐ調子乗るんだからよ」
得意気に言う秋良を正幸はそう言って咎めた。いつの間にか空は晴れ渡っていて、夕方だと言うのに、この日の正午ごろよりもずっと暖かいような気さえする。グランドの後片付けを二見高校と篠山高校の後輩たちに任せ、秋良たちは帰り支度を始めた。
「けどさ、二見高校ってこの間の秋季大会でベスト8だったろ?」
「まぁ、確かにそうだけどさ」
「じゃぁ、俺らの甲子園も近いって訳だ」
「……お前の中の甲子園は近すぎだけどな」
正幸の辛辣な突っ込みに苦笑いしながら、秋良は自分のバットとグローブを片付ける。雪が降っていたため少し泥の付いたバットを丁寧に拭う。だいぶ乾燥してきていのか、汚れはすぐに落ちた。
「あ、でも、うちの高校って甲子園行ったことあるらしいな」
正幸が思い出したように言うと、ベンチに腰掛けスパイクを脱ぎながら秋良は頷いた。
「知ってるよ。俺らが小学校くらいの時だろ、確か」
今から何年くらい前になるだろうか。スポーツニュースで県代表が篠山高校に決まった、というニュースが入ったことがあった。電車で少し離れた所に住んでは居たものの、ほとんど地元に近かった秋良たちにとって、それは大ニュースだった。凄い速球を投げる左投げのピッチャーがいると話題になっていたが、実際に蓋を開けて見ると、甲子園での初戦で十対ニと大量点を失って負けたのだった気がする。とはいえ、秋良自身も今年甲子園に行く篠山高校のエースは凄いらしい、なんて言われてみたいものだと思っていた。高校野球をやる者にとって、甲子園は永遠の憧れであり、目標なのだ。
「おい、アキラ、お前喋ってっけど、ストレッチしたのか?」
ベンチの外から、真冬の怒声が聞こえてくる。そんなちょっとしたことも、彼は怒鳴りながらじゃなければ言えないのだろうか。怖いじゃないか。
「悪い、忘れてた、すぐやるよ!」
エースの自覚がねーのかよ、ったく、なんてブツクサ言いながらファーストミットを抱えベンチに戻ってくる真冬とすれ違うようにして、グランドの隅っこで秋良はストレッチを始めた。今日は途中5回までではあるもののなんだかんだ投球したわけだから、肩のストレッチは入念にしておかなければならないのは確かだった。肩をゆっくり回しながら、空を見上げる。試合前の雪が嘘のように、綺麗な青色をした空だった。
大晦日、正月も一瞬で終わり、まだ練習も始まらない三が日の最終日、秋良は特に用がある訳でもなく篠山駅のホームに降り立った。いや、用がない訳ではないが、正月のうちに、去年お世話になった亮には挨拶をしておこうと思っていたのだ。家の最寄り駅にはない自動改札口に定期券を差し込み外へ出ると、迷うことなく寂れた商店街を目指す。この不景気な世の中、正月から営業を開始する商店も多いと聞くが、そんなことお構いなくシャッター街と化したアーケードを歩いていく。そのせいか、今日はコロッケの良い匂いも漂ってはこず、案の定『藤井書店』もシャッターが下りていた。
「予想はしてたけど……リョウさんたち、いるのかな……」
さすがに出入り口がここしか無いはずはなく、何処かに勝手口があるだろうと、秋良はアーケードの裏通りに回ることにした。予想は的中し、藤井書店の真裏と思われる家には高倉と書かれた表札が掛かっている。そういえば、高倉なのに高倉書店じゃないんだな、なんてことに気付いたが、何か深い理由があるのかもしれないし、あるいは亮のことだから“いや俺、高倉より藤井って苗字が良かってん”なんて訳のわからないことを言い出すかもしれない。よくよく考えたら二十代中ごろの亮が店主だとは考えづらいので藤井書店と命名したのはきっと別の人間なのだろう。
「おぉ、坊主!ビックリするやないか!」
我に返ると、勝手口から出てきたのは亮だった。高倉と書かれた表札を見ながらボーっと考えに耽っていたらしい。不審者極まりない。
「あけましておめでとうございます。去年お世話になったんで、篠山神宮に初詣がてら、ご挨拶にと思いまして」
「おー、ほんまか!そらわざわざありがたいこったな!あけおめ!」
にこやかに亮が言うので、つられて秋良も笑顔を返す。相変わらず亮は元気で、一緒にいると秋良も元気になるから不思議だ。真冬の奴もこれくらいにこやかだと秋良自身だってもっと早くに部活に戻ってきていたかもしれないのに。なんて考えてにこにこ笑顔を浮かべる真冬を想像してみる。恐ろしいくらいに似合わない。
「そや、俺らも今からちょうど初詣に行くとこやってん、お前も行くか?」
「え、いや、でも……」
戸惑っていると、奥からバタバタと人が出てくる気配がした。勝手口がガチャリと音を立てて開く。
「お兄ちゃんごめんごめん、ナツキがなかなか準備遅くて……あら、アキラくんやん。あけましておめでとう!」
出てきてのは、亮の妹である月音と、そのさらに妹の夏希だった。
「あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」
慌てて挨拶をすると、月音はケタケタと面白そうに笑った。
「そんな緊張せんでもえーのに、なぁ、ナツキ」
月音が問い掛けるも、相変わらず無表情な夏希はそうやね、と興味なさそうに答えた。
「ほな、初詣行こか、アキラも!」
「え、あ、はい!」
半ば無理やり付いていく形になった秋良は、家族水入らずのところ良いのだろうかと思いながらも亮の後を追いかけた。篠山神宮はアーケードを駅と反対側に抜けたすぐ正面にある。歩いていると五分とかからないうちに目的地に着いた。もう正月も三日目とはいえ、神社には初詣に来た参拝客で賑わっていた。
「昨日、おとといは、初詣には行かなかったんですか?」
秋良が尋ねると、亮が笑いながら答える。
「昨日まで、大阪の親戚の家行っとったんよ」
言われて、そう言えば亮たちが関西弁だったことを思い出す。大阪に親戚が居たってなんら不思議なことは無かった。
「うちは、母親が篠山の人でな、あの本屋がうちのじいちゃんがしとった店なんよ。それが十年前に亡くならはって、ばあちゃん一人になったから家族でこっち来てな」
「そう、だったんですね……」
自分から尋ねた話ではなかったが、突然に聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。日常生活の上で人が死んだという話題に触れることはほとんどなかったため、どう対応したら良いものか困ってしまったのだ。ご愁傷様でした、なんて言うのもなんだが偽善者染みているし、そもそももう十年も前の話にそう言うのもおかしいような気がした。
「んな深く考えるなや、人間いつか死ぬねんで。じいちゃんも、ばあちゃんも十分長生きしはったわ。病気で死んだ訳でもないんやし、笑って見送ってもええことやで」
秋良が複雑な表情をしていることに気付いたのか、亮が笑って肩を叩いてくれた。今の話しぶりからするに、その後おばあさんも亡くなられたようだが、天寿を全うしたためか嘆き悲しんでいるような雰囲気は感じられなかった。案外、そういうものなのだろうか。身近な人を亡くしたことのない秋良にはよく分からないことだった。
「お兄ちゃんも、お兄ちゃんやで。そんな話されたら、誰かってどういう反応したらええか分からんくなるやろ」
「まぁ、それもそうか。すまんな、坊主!」
月音に嗜められて、亮は──やはり豪快に笑いながら──謝った。
「いえ、そんな……でも、なんでタカクラさんなのに『藤井書店』なんだろうとは思ってたんで、ちょっとはっきりしました」
「ん?あぁ、そうそう、うちの母親、旧姓が藤井やからな」
参拝客の行列は、ゆっくりと前に進んでいく。秋良たちもその流れに従って一歩ずつ歩いて行く。少し会話が途切れた所で、月音が思い出したように切り出した。
「あ、そうそう。私、待ち合わせしてるんやったわ」
「なんやツキネ、もしかしてあいつか?」
亮が言った“あいつ”に、月音は照れくさそうに笑った。
「そうそう。ごめん、私、そっち行ってくるね」
「アホ、忘れてやんなや」
苦笑いを浮かべながら右手で謝るような仕草をした月音は、そのまま鳥居の方へ戻っていく。歩いていたペースはゆっくりだと思っていたが、いつの間にか神社の入り口は随分と後方にまで遠ざかっていた。
「彼氏さん、ですか?」
なんとなく察して、秋良が言う。亮は困ったような笑みを浮かべながら頷いた。去年、春菜とこの神社に初詣に来たことを思い出して、ちょっとだけ憂鬱になった。
「あいつ、リア充やからな」
「そうなんですね」
秋良が笑うと、亮は確認するように夏希の方を振り返った。ずっと黙ってはいるものの、しっかりと亮たちの後を付いてきている。通常営業の無表情さだったが、亮たちと一緒にいることが特段、嫌だという訳ではないのだろうか。家族だから当然なのかもしれないが、単純に感情表現が苦手なだけで、周囲に無関心だという訳ではないのかもしれない。
「……何?」
不意に、夏希が尋ねてくる。ハッとして、ずっと夏希の顔を見つめていたことに気付いた。恥ずかしくなって、慌てて目を逸らす。
「いやぁ、ナツキさんは、喋らないのかな、と思って」
「ナツキさん、て。なんや、同い年やのにえらい他人行儀やなぁ」
夏希が答えるよりも先に、亮が面白そうにケタケタと笑った。何故かそれがさっき見た月音の笑い方に似ていて、兄妹であることを感じた。
「いや、喋るのほとんど初めてですし……」
「まぁそんなもんか」
亮が納得したように頷く。前を見ると、賽銭箱までもうすぐの所まで迫っていて、秋良は肩に掛けていた鞄から財布を取り出した。五円玉が無いので、仕方がなく十円玉を取り出す。別に縁結びが目的でないのなら、五円玉でなくても良いような気もするが、なんとなくお賽銭と言えば五円玉のイメージだった。亮と夏希も、財布から五円玉を取り出している。やはり、二人も秋良と同じように五円玉の印象が強いのだろう。
「お賽銭は、投げ入れたあかんねんで。神様に失礼やから、そっと入れな」
順番が回ってきた所で、亮がそう教えてくれたので、言われるがままに秋良は十円玉を静かに賽銭箱に落とした。この後、どうするんだっけ。拍手は何回するんだっけ。と、考えているうちに、亮と夏希がお辞儀を二回するので、秋良もそれをマネすることにした。パンパンと手を叩き、お願いごと。何を願おうなんて悩む間もなく、甲子園に行けますように、と心のなかで強く願った。三回くらい繰り返した後、もう一度だけ頭を下げて、賽銭箱に背を向ける。
「野球部、なんやね」
夏希が言うので、秋良は驚いて振り返った。今の甲子園に行きたいというお願いごとが聞こえていたのか。心を読んだのか、え、こいつはエスパーか何かか、なんて考えていると、夏希はその考えも読み取ったのか、クスリと笑った。それは、秋良が見る初めての夏希の表情だった。
「この間、野球のユニフォーム来てたやん」
「あ……」
言われて、数日前に二見高校に練習試合に行った時、夏希と会っていた事を思い出した。なるほど、別に心が読まれていた訳ではないらしい。まぁ、願いごとは野球部員であることから予想されている可能性もある。
「ちなみに言うとくけど、私は、野球嫌いやから」
プイ、とそっぽを向きながら夏希が言う。バットで後頭部を殴られたような衝撃に、いつも通りの無表情が秋良の心をさらに百五十キロ級の豪速球がごとく突き刺した。え、何故急にそんなことをと、空振りさせたはずがファーボールと判定されたピッチャーみたいに呆気に取られてしまう。さっき一瞬だけ見せてくれた笑顔はいったい何だったのだろうかと思うくらい、その目は冷たい。
「ははは……そっかぁ」
苦笑いで誤魔化すと、亮も同じように苦笑いを浮かべている。
「こいつの野球嫌いは……俺のせいでもあるからな。すまん、坊主。気にすんな」
夏希に聞こえないくらいの声量で、亮が寂しそうに言った。何か複雑な事情でもあるのだろうか。聞くに聞けず、秋良はそんなことないですよ、大丈夫ですよ、と弁解した。正直な所、少しショックを受けたというのは確かだったけれど。
「よし、こうなったら、出店でぜんざいでも食ってくか。坊主、俺のおごりや!」
「良いんですか、ありがとうございます!」
こうなったらというのが、どうなったらの事なのかはいまいち良く分からなかったが、これも彼なりの優しさだと思い、いつもなら遠慮するところを今日は素直にいただくことにした。鳥居の外に並ぶ出店へ向かう前に、おみくじがあったので三人で引いてみたところ、亮は大吉で、夏希は中吉だった。秋良は凶で、それを見た亮は一人で大笑いしている。あまりにもひどい話だった。だが、“凶なんてめったに引けへんのに、それを引いてまうほどくじ運があるってことは、今年はええことがあるってことや!”と明るく言われたので、秋良自身も確かにそうなんじゃないかと思った。近くに生えていた名前も知らない木の枝におみくじを結んだ後、鳥居をくぐり、出店で買ったぜんざいを啜る。あんこの仄かに甘い香りが漂い、それでいて温かなそれは、なんとなく今年一年も頑張ろうという気にさせてくれた。
「アキラ!」
教室を出る所で、正幸に呼び止められた。念の為に弁解しておくが、別に練習をサボろうとした訳ではない。単に、練習行くなら俺も一緒に行くぜ秋良、的なノリである。なので、秋良も、無視して教室を出ていくなんてことはせずに、振り返って扉の前で正幸を待った。
「しっかし、今日も寒いよなぁ」
秋良に追いついた正幸が、身を震わせながら言った。ここの所、会話の第一声がそればかりで飽き飽きしてしまう。とはいえ、篠山の冬は寒いのだから仕方がない。
「本当に地球温暖化なんかしてるのかよっていう寒さだな」
「だよな、もっと二酸化炭素排出しなきゃだな」
正幸が真顔で言うので、秋良は思わず吹き出して笑った。
「バカ言うなよ、夏困るだろうが」
「でも俺は冬の方が苦手だよ、ほら見ろよ、今日も吹雪いてるぜ?」
廊下を歩きながら外を見ると、なるほど、確かに猛が付くほどの吹雪である。篠山は割と雪深い地域であるため、この時期の練習はたいてい体育館で素振りしたり校舎の階段を昇り降りしたりと、基礎練習が主になる。どっかの高校は雪上ノックと言ってボールがイレギュラーバウンドしやすい環境を利用して練習をしているらしいが、毎度毎度そればかりというのも何だし、それに大会までまだ日は長いのだから体力づくりを優先しようというのがうちの考え方だった。もちろん、雪上ノックをしたことがない訳ではなく、やってみたものの寒くてやってられなかったというのが正直な所なのだけれど。この日は体育館を屋内球技部が使っているので、階段ダッシュと筋トレがメインだろう。ひょっとすると、その後に雪上ノックもやるのかもしれない。全てはキャプテン真冬の采配しだいだ。
「んじゃあ、階段ダッシュ十往復。それから、ピロティで筋トレ五セット。その後、今日はサッカー部が遠征でいないから、グランドに出て軽くノックやるぞ!」
意気揚々と真冬が言った。嗚呼、結局のところ雪上ノックはするのねと、秋良はがっくり項垂れる。冬場だからどうにもならないのだとはいえ、さすがに毎日、毎日基礎練習ばかりのこの時期は正直、辛い。おそらく日本中の高校球児が──いや、春の選抜出場に期待がかかるような強豪校ならばそうでもないのかもしれないが──練習にうんざりしている季節だろう。だからと言って、数ヶ月前までの秋良のように、練習をサボろうとは思わなかった。あの時と今とで、いったいどういう心境の変化があったのか、実のところ秋良自身よく分かってはいなかった。ただなんとなく、亮や正幸、あるいは春菜や真冬との紆余曲折を経て、練習には出ようと思い至ったのであることは感じていた。それとも、嫌なことがたくさんあった故に、逃げていた野球に逃げ場を見出すはめになったのだろうか。逃げてばかりはいられないと思い向き合った野球というスポーツが、実は逃げている行為なのかもしれない。そこまで、考えて、秋良は首をブンブンと横に振る。 そんなんじゃない。野球を悪く言うのは、やめよう。そう思った。
「どうした、急に首振って。まさかお前、サボるなんて言い出す気じゃ……いてっ」
所謂、デコピンという奴をお見舞いしてやると、正幸は苦笑いでおでこをさすった。
「んな訳ねぇだろ。俺は、甲子園に行くんだよ」
「はは、燃えてるねぇ。良いことだ」
「おいこら、アキラ、黙って走れ!」
すぐ前方を走っていた真冬が、怒鳴りながら言う。相変わらずこいつは、手厳しい。
「へいへい」
三往復目に突入した階段ダッシュも、すっかり慣れて息は上がらない。早くマウンドに上がって、ボールを投げたいと思った。
来る日も来る日も、階段を駆け上がり、腕立て伏せに腹筋に背筋に足腰に何から何まで鍛え、そしてたまに凍りついてしまいそうな中、ノックを受ける。練習がキツければキツいほど、その後に食べるご飯の味は絶妙だった。ムチばかりでなく、そういうアメもあるからこそ、日々を過ごしていけたんじゃないかと本気で考える。気が付けば、クラスメイトの口からは学年末試験の話題がついて出てくるようになり、耳を塞ぐようにして教室を抜け出す。鳴り響くチャイムと雑踏の中、人の目を掻い潜るように廊下を歩いて部室へと向かう。校舎を出て砂埃の舞う体育館の裏手に、部室棟はあった。左から三番目の硬式野球部の札が下げられた扉を開ける。真冬と、一年生でセンターを守る堀川健の他に、もう一人の人影が視界の端に見えた。セーラー服を着ている。女だ。
「アッキー」
声の主を確かめるまでもなく、それが誰なのか分かりげんなりする。秋良のことを、アッキーなんて呼ぶのは、この世に一人しか居なかった。仮にそうでなかったとしても、声だけで分かる。
「何してんだよ、ハルナ」
五条春菜は、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「今日、みやの誕生日だからね」
「ああ、そういやそうだったな」
理由になるような、ならないようなそれに納得したフリをして秋良は自分のロッカーに手を掛ける。
「はい、これ。アッキーにもあげる」
手渡されたのは、チロルチョコが五個くらい入った透明なビニール袋だった。この日はみや──大宮真冬の誕生日であり、世間一般的にはバレンタインと呼ばれる日だった。ニ月十四日は真冬と言えば真冬だが、聖夜だとか甘夜だとかそんな名前を息子に付けなかっただけ、彼の両親は素晴らしかったと思う。尤も、甘夜なんて書いてなんて読めば良いのかさっぱりだけれど。
「言っとくけど、義理チョコだからね」
「……これが本命だったら、世の男は嘆き悲しむけどな」
「あはは、さすがアッキー」
褒められたのか、それとも馬鹿にされたのか、首を傾げながら今度こそロッカーを開ける。肩に掛けていたスポーツバッグを押し込み、持っていたチロルチョコの袋をさらにバッグの中に押し込む。春菜から懸命に視線を逸らそうとしている自分に気付き、まだ好きなんだなということに気付かされてしまった。だからこそ、なおさらげんなりする。
「最近、練習来てるんだね」
思わず、春菜の方を振り返った。春菜がどういう意味合いでその言葉を発したのか、知りたかったのかもしれない。しかし、表情を伺ってもその真意は分からない。
「野球部員なんだから、当然だろ」
言って、また視線を逸らす。我ながら下手な言い訳だと思った。
「……そっか」
微妙な間合いに、また振り返るそうになって、やめた。今度は、春菜の表情を見るのが怖かった。
「じゃあ、練習前にお邪魔してごめん。みやも、練習頑張ってね!」
「ああ、サンキューな」
咄嗟に声のトーンを変えて去っていった春菜に、真冬が答えた。そう言えば、いつの間にか一年生の健は居なくなっている。先輩たちの会話に、しかも部外者の春菜が居るのだから、居心地が悪かったのかもしれない。申し訳ないな、これは。
「別れたんだってな、お前」
秋良の方を見ないまま、突如真冬が言った。春菜が出ていくのを待ち構えていたようだった。いつもの怒鳴るような口調でもなかった。
「フラれたんだよ、一方的に」
制服のシャツのボタンを外しながら、秋良が答える。
「そっか……」
チラリと時計を盗み見ると、練習開始の時間まであと十分となかった。いつもならとっくにグランドに出て整備を手伝っているはずの真冬がまだここにいるということは、やはり秋良に話し掛けたかったからなのかもしれない。
「ハルナから、プレゼント貰ったの?」
「ああ……貰ったよ、チロルチョコ」
真冬が平然と答えるので、秋良は思わず笑みを零す。
「なんだよ、誕生日なのにお前も俺と一緒なのかよ」
「でも、俺は十個だからな」
今度は、声を出して笑った。バレンタインに誕生日を加算してもチロルチョコという結論からは脱しなかったらしい。春菜らしいと言えば、春菜らしいかもしれない。アンダーシャツに袖を通し、ストッキングとソックスを履き替える。上からズボンを履いて、寒さ対策のジャケットを羽織った。
「あ、みや。遅くなったけどさ」
「ん?どうした?」
帽子を被り、いざグランドへ出ようとしていた真冬が秋良を振り返る。
「誕生日、おめでとう」
秋良の言葉に対し何も答えず、ただ表情を緩めただけの真冬に、この日は一番救われたような気がした。