3.正幸
「アキラ、今日もサボんのかよ?」
正幸の呼び止める声に、秋良は聞こえないフリをして教室を飛び出した。廊下の雑踏をすり抜け校舎を出ると、小気味の良い金属音がグランドから聞こえて来る。音のした方角を見ないようにしながら、校門をくぐった。万引きをして逃げ出そうとする小学生のように足早に駅へ向かう。駅前までやって来て、ふと裏手の商店街の方を見やった。昨日の出来ごとを思い出しながら、気が付けば寂れたアーケードの下を秋良は歩いていた。今日も相変わらずコロッケの良い匂いが漂っていたためか、腹がへったような気がした。黒字で『藤井書店』と描かれた看板を見つけてその場で立ち尽くす。何故だか秋良はそこへ導かれたかのような錯覚に陥った。だがすぐに俺は一体何をしに来たんだろうと我に返った。秋もだんだんと深まり朝晩は寒ささえ感じ始めた今日この頃、日が暮れる前にさっさと家路に着こうと踵を返した時だった。
「おー、昨日の坊主やないか!」
背後からの声に振り向くと、そこにはあの関西弁の男の姿があった。秋良はそれに軽く頭を下げ、会釈する。
「あ、そや!アキラ、やったか?ちょっとえーもんがあんねん!上がってけ!」
そのように言われ、秋良は驚いて立ち止まった。すぐに帰ろうとしていた秋良は亮の家、もとい店に上がっていけと言われるなんて全く考えていなかったからだ。しかし、意外にも秋良の体は無意識のうちに本屋の奥へと向かっていた。土間を抜け、ガラス戸を開けた部屋に靴を脱いであがる。昨日怪我の手当てをして貰った部屋だ。
「ちょっとそこ座っとけ」
亮はそう言って、隣りの流しのある部屋に入って行った。畳と、そこにあったコタツから埃の焼ける匂いがした。扉の影に隠れ見えなかったが、冷蔵庫の閉まるような音が聞こえる。しばらくして戻って来た亮は、何やら白くて四角い箱を携えていた。
「なんや、座っとけ言うたのに、遠慮せんでえーぞ」
笑いながら亮がコタツを指差したので、所在無げに立ち尽くしていた秋良はそこでやっと腰を降ろした。寒くなって来たとは言え昼間は歩いているとまだ少し汗ばむぐらいの秋の日に、コタツの電源が入れられていた。秋良は、亮は寒がりなんだろうかと考えた。しかし彼の次の台詞でそうではないと悟った。
「暑っ、ツキネやな、あのアホ!」
手に持っていた箱を天板に置いた亮は、コタツ布団で隠れていたコードを引き出し途中現われた電源を「切」の方へカチリと押した。
「これ、貰いもんの土産やねんけど、たくさんあって食いきれへんから、すまんけど食ってくれへんか?」
そう言って開けた箱には甘そうなケーキがたくさん入れられていた。ワンホールを16分の1くらいのサイズに切ったショートケーキやチーズケーキが並べられている。和室の匂いに混じって、部屋に洋菓子の甘い匂いが漂った。その和と洋の微妙なコラボレーションに、秋良は少しだけ戸惑った。
「あ、そか、フォークないと食えへんわな、すまんすまん」
笑いながら立ち上がる亮に、慌てて秋良は答えた。
「いえ……貰って良いのかなって思って……」
「なんや、そんなこと気にしとったんか?お前は俺の後輩やねんから、気にすんな」
「……後輩、ですか?」
驚いて聞き返す。
「言うてへんかったか?俺、篠山高校行っとったんや」
関西弁なのに?と尋ねようとして、やめた。しかし亮はそんな秋良の考えを見透かしてか、笑いながら付け足した。
「中3まで大阪住んどってんけど、色々あってこっち越して来たんや」
亮はそう言って奥の部屋に姿を消す。フォークを持って戻って来た亮が、秋良の向かいに腰を降ろしながらゆっくりと続けた。
「それに俺も野球やっとったから、ちょっと色々聞きたくてな」
心なしか、亮の台詞が秋良にはやけに寂しげに聞こえた。最近練習をサボっていることに対する良心の呵責でもあるのだろうかと思った。が、2日前の大宮真冬とのやり取りを思い出し、すぐに苛立ちに変わる。ふざけやがって。
「あれ、そういやアキラ、お前、練習は?」
思い出したように亮が言った。ドキリとして答えに詰まっていると、亮はなんやサボリか、と呆れたように言った。秋良は少し気まずさを覚えながら、ゆっくりと頷いた。頭の中では大宮真冬が、まだ秋良を責め立てている。憤りと嫌悪が入り混じったような感情。全てはあの秋季大会の日から、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。悲劇のヒーローを気取るつもりなんてないが、あの試合さえなければ、と考えている自分がいた。無論、そんなことを言っても誰も同情なんてしてくれないことは知っている。だから、どんなに納得がいかなくたって、不満は漏らせない。秋良は制服のズボンを掴むようにギュッと拳を握りしめた。
「何があったかは知らんけどやな……練習くらいは行っとった方がえーぞ」
黙っている秋良の様子にため息をひとつ付きながら、亮が続けた。一瞬だけ間があって、亮が気を取り直したように笑顔を見せた。
「とりあえず今日はこれでも食って元気出して、明日から練習行けや」
返事を待たずして、亮はフォークを差し出した。しばらく逡巡してから、秋良はようやく諦めたようにそのフォークを受け取る。促されるがままに、一番手前にあったチーズケーキをすくって口にした。仄かに甘いそれは、一瞬にして口の中全体を支配した。
「どうや、うまいやろ?」
「……はい、美味しいです」
たっぷりを間を取ってから答えた秋良の言葉に、満足したように亮は笑顔を浮かべた。さっきまでもやもやとしていたものが、少し和らいだような気がした。
亮に見送られながら店を後にしようとした時、ちょうど一人の少女と鉢合わせた。昨日、月音がおかえりと声をかけていた少女だった。制服を着ていて、やはり学校帰りなのだろう。
「おぉ、ナツキやないか、おかえり」
夏希と呼ばれた少女は、チラッと秋良たちの方を向いた。昨日は綺麗な瞳に見入ってしまっていて気付かなかったが、肩まで伸ばした綺麗な黒髪が良く似合う子だなとその時初めて感じた。秋良のクラスメイトの女の子たちなんか比じゃないくらい可愛かった。不意に目が合って、ドキリとする。彼女に見とれていたことを悟られてしまったのではないかとたじろいだが、まるで感情の見えない能面のようなその表情に得体のしれない恐ろしさを感じた。そしてそのまま、夏希は亮の言葉に答えることなく、店の、いや、家の中へと入っていく。
「すまんな、あいつちょっと気難しい年頃でな」
取り繕うように亮が言った。
「いえ……今日は、美味しいケーキをありがとうございました」
返答に困って、思いついたがままにお礼を言い頭を下げると、亮は照れくさそうに笑った。また気が向いたら遊びに来いよ、とバンバンと秋良の肩を叩く。少し力が強くて痛かったが、悪い気はしなかった。関西人って誰もかれもこんな馴れ馴れしいのだろうか。と考えたところで、先程の夏希の様子を思い出し、そうではないのだろうと悟った。いや、決して夏希が嫌な奴に感じた、なんて訳ではないのだが、亮の妹であるということは少なくとも関西人なのだろうし、昨日と今日会っただけだが、夏希に亮や月音のような人懐っこさは感じられなかった。考えたところで、まだ夏希とは一言も交わしていないのだから、彼女の人柄なんて分かるはずもない。
「帰ります、お邪魔しました」
秋良がもう一度頭を下げると、亮は嬉しそうに笑顔を浮かべながら手を振った。商店街には学校帰りの高校生や買い物へ来た主婦がチラホラと見え始めていたため、少し周りの目が気になって恥ずかしかったが、秋良もそれに軽く会釈しながら商店街を駅の方へと歩き始める。アーケードの隙間から差し込んだ西日が、嫌に眩しかった。
「おい、アキラ!!」
放課後、いつものように、正幸。いや、今日はいつものように声を掛けるだけではなく、肩まで掴まれた。こいつも飽きないな、と思いながら、それでいてここまで世話を焼いてくれるのは、正直ありがたさと申し訳無さでいっぱいになる。よくよく考えたら、秋季大会の日、球場で真冬と大声をあげていた時に止めに入ってくれたのも彼だった。
「お前、本当にそれで良いのかよ」
諭すように言われたが、その言葉尻に彼の若干の苛立ちが感じられた。
「落ち着けよ」
「落ち着いていられるかよ!」
正幸の珍しい大声に、教室中の誰もがビックリして振り返った。もちろん、当事者である秋良も少し驚いてしまった。真冬にはよく怒鳴られていたが、正幸はいつも温和なイメージだったからだ。
「……悪い」
自分で作ってしまった周囲の雰囲気に気まずそうな表情を浮かべる辺り、秋良は正幸の人の良さを感じた。昨日、亮に言われたからなのか、前々から呼び止めてくれていた正幸に後ろ髪を引かれていたからなのか、それとも今、正幸に怒鳴られたからなのかは分からないが、このまま無視して帰るのはどうにも申し訳なかった。だからといって、このまま練習に行くよ、なんて答える勇気もなかった。自業自得だと言われるのかもしれないが、あの秋季大会の前にせよ後にせよ幾度となく練習をサボり、あれだけ真冬を怒らせておいて、ノコノコとグランドに顔を出すなんて、何様だと思われても仕方がない。ただ、他の誰もが秋良に対し何の声も掛けて来やしないのに、それでも練習に来いと言ってくれる正幸には、少なくとも謝らなければならない気がした。
「俺の方こそ、ごめん」
秋良が素直に謝ると、正幸は驚いて、逆に困ったような表情を浮かべた。秋良の反応を予想していなかったのだろう。しばらく視線を泳がせて、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「練習には、行かないのか?」
「……今更行って、なんて言って参加すれば良いんだよ」
素直にそう伝えると、正幸は今度は呆れたように溜め息を吐いた。何かおかしなことを言ったかな、と考えていると、それに気付いたのか正幸は苦笑いしながら答えた。
「謝れば、良いだろ」
一瞬その意味が理解出来ず、呆気にとられてしまう。いや、正確には意味が分からないというよりかは、ごめんと謝ったところで、みんなが、特に真冬が、笑顔で秋良を迎え入れてくれるような、そんなイメージはむしろ全くと言って良いほど浮かばなかった。
「何ポカンとしてんだよ。謝らないより、謝った方が良いに決まってんだろ」
確かにそうかもしれない。秋良はそう思った。だが、それでも真冬は──みやは、怒るんじゃないだろうか。許してくれないんじゃないだろうか。なんとなく、そんな気がしてしまった。だからと言って、このまま黙って逃げていたって時間が解決してくれるだろうか。逆に、ますます戻って来辛くなるんじゃないだろうか。俺は、野球が嫌いか。答えは、分かりきっている。
「そう、だな」
正幸がニッと笑う。こいつが友達で良かったと、秋良は心から思った。
グランドへ行くと、案の定真冬たち野球部員数名がグランドの整備をしていた。トンボを引っ張っていた真冬と目が合ったが、すぐにそっぽを向かれてしまう。怯んでしまいそうになったが、勇気を出して声を上げた。
「みや」
数人の部員が、驚いたように秋良を見た。が、肝心の真冬は微動だにしない。
「みやっ!」
もう一度、大声で呼んだ。今度は真冬の動きが止まった。俺は慌てて真冬の後ろまで駆け寄った。
「みや、ごめん」
秋良が頭を下げると、しばらくの沈黙の後に真冬は振り返らないまま答えた。
「今さら、何のつもりだよ」
「練習に、戻って来ようと思うんだ」
間髪入れずに答えると、また真冬は黙りこんでしまった。ここからでは、表情が見えない。怒っているのか、呆れているのか、それとも喜んでいるのかは分からなかったが、少なくとも、とても喜んでいるようには感じられなかった。呆れているのだろうか。そう思うと、見捨てられてしまうようで怖かった。しかし、ここまで来て逃げ出す訳にもいかない。ただ、真冬の口が開くのを待ったが、彼はそのまま答えることなく無言でまたトンボを引っ張り始めた。
「みや!」
いつの間にか背後に立っていた、ユニフォーム姿の正幸が、咎めるように真冬に言った。気が付けば、周囲の誰もが秋良たちのことを見ていた。
「勝手にしろ!」
そのままベースの所まで歩いて行った真冬が、トンボを反転させるのと同時にようやく秋良の方を見た。表情は無愛想で言葉尻も刺々しかったが、それでも秋良には真冬がそれほど怒っている訳ではないのだと感じられた。
「どうせまた来なくなるんだろ、お前は。俺は信用してないからな」
そう言った真冬の気持ちをなんとなく察して、秋良はほっと胸を撫で下ろす。決して、言葉そのものは秋良を許してくれたものではなかったが、練習に来ること自体を拒絶されるかもしれないと思っていた秋良にとっては、十分安心出来る台詞だった。なにより、真冬の性格上、許すにしても素直に俺も悪かったなんて言う柄ではないことも分かっていた。
「すぐ着替えてくるわ」
言って、秋良は部室の方に向かって振り返った。後ろに立っていた正幸が、ヘヘッと秋良に向かって笑いかける。秋良はお礼代わりに、それに笑顔で答えた。な、簡単なことだったろ。正幸の笑顔は秋良にそう語りかけていた。確かに、そうだったな。たったこれだけのことだったんだ。もちろん、一〇〇パーセント許して貰えたという訳でも無いだろう。だから、いつの日か一〇〇パーセント許してもらえる時が来るように。部室に向かって走りながら、秋良はそう願った。