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2.亮

「アキラ」

 放課後の雑踏の中、秋良を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、声の主は同じ野球部の東山正幸だと分かった。

「お前、帰んのか?」

「あぁ」

「良いのかよ、みやに謝らなくて」

「……何を謝んだよ」

 正幸は帰ろうとした秋良の肩を掴んでそれを阻止するが、秋良はその手を振り払うと、机の合間を縫って教室を出ようとした。

「本当にそんなんで良いのか」

 教室の扉の前で立ち止まる。すぐ横を数人の女子生徒がすり抜けて教室を出て行った。廊下の方からは、楽しそうな笑い声が聞こえた。

「そんなんだと、いつか五条に愛想尽かれるぞ」

 胸がチクリと痛んだ。

「うるせぇょ」

「うるさいって、オレはお前の心配をしてだな……」

「もう、昨日別れたよ」

 いつの間にか二人以外誰もいなくなっていた教室が、俄かにシンとなる。チラリと首だけを動かして正幸を一瞥すると、案の定バツの悪そうな表情をしていた。

「……悪い」

 秋良はそれに答えなかった。正幸を残して教室を後にする。人通りの少ない廊下を通って、階段を下りる。校舎を出ると、グランドの方から運動部員達の声がいろいろと入り交じって聞こえてきた。中でも、グランドの一番広い範囲を使っている野球部の連中が、アップ前のグランド整備を始めていた。終礼が終わったばかりで人は少ないが、おそらく奴等は終礼そのものを抜けて来たのだろう。当然ながらその中にはキャプテンである真冬の姿もあった。練習熱心なことだ、と嫌味でも言うようにそう考えていると、不意に真冬と目があった。がっしりとした立派な体を大きく翻して、真冬は秋良から遠ざかって行く。昨日のことでまだ怒り心頭らしい。知ったことか。秋良は真冬の態度を気にする様子もなく、校門を目指した。燦々と照り付ける日差しが暑い。九月末とはいえ、一向に気温の下がらない今年の気候。まだまだ夏の気配を感じた。校門を出て長い桜並木を抜けると、すぐに駅が見えてくる。もちろん今は桜なんて咲いていないので殺風景ではあるが、春になると綺麗なピンク色が辺り一面を染める。そんな光景を脳裏に呼び起こして──そしてすぐ目を伏せた。桜の記憶は、一人の少女との思い出と連動している。心をうつような絶景。後ろを追いかけて来た、一人の少女──


「あの……高辻君」

 振り返ると、そこには可愛らしい女の子が一人立っていた。中学の時からよく見知った顔だ。

「よっ。入学おめでとう」

「お、おめでと」

「……どうかした?」

 少女が何やら緊張しているのに気が付いて秋良は尋ねた。ヒラヒラと舞う桜の花びらが一枚、俯いた少女の髪に絡まる。

「いや、その、えっと、……これ」

 鞄から取り出した一枚の紙切れを少女は手渡した。秋良がそれを受け取るや否や、少女は軽く頭を下げる。そして綺麗な髪を靡かせながら一目散に駅の方へ走って行った。もう、一年半も前の話である。駅前のロータリーを回るタクシーが、市街地に向けてゆっくりと走り出そうとしていた。頭の中の五条春菜が、興味深そうにそれを見つめていた。

“あ、ほら、アッキー、さくらんぼ!”

“はぁ?何の話だよ”

 交差点の信号が青に変わる。サラリーマンらしき客を乗せたタクシーは、すぐに大量の車に紛れて見えなくなった。

“知らないの、さくらタクシーって会社のタクシー”

“いや──知らない”

“えー有り得なーい!!!”

 駅前を通り過ぎて、裏手の商店街を目指す。入口右手の店から、揚げたてコロッケの良い匂いが漂った。商店街の一番奥では、カンカンと踏切りの遮断機の降りるのが見える。しばらくして、オレンジ色の電車が通り過ぎて行った。

“何万台かに一台、さくらんぼ付きのさくらタクシーがあるんだって”

“──さくらんぼ?”

“うん、で、そのタクシーに乗るとね──”

「おい」

 背後からの声で、秋良は我に返る。慌てて振り向くと、そこに居たのは二人組の男だった。しかも、茶髪にピアスに乱れた服装。やばい。あまり関わりたくないタイプの人間だ。

「肩、ぶつかったろ、今」

 ヘラヘラ笑いながら言う茶髪野郎。横にいた茶髪野郎Bが、同じような気持ち悪い笑顔を浮かべながら続けた。

「いってー、マジ肩痛ぇ、骨折れた」

 どうやら、ボーッとしてる間に危ない方々に肩をぶつけてしまったらしい。いや、もしかしたら単なる言い掛かりかもしれないが。

「ちょっと顔貸してくんない?」

 生憎、辺りには人の気配がない。もうじき夕方だと言うのに、この商店街の静けさはどうしたものか。逃げるか。逃げられるのか。そうだ、仮にもオレは運動部だ。こんな不健康そうな奴等に足の速さで負ける訳は──。

「聞いてんのか、てめぇ」

 ヘラヘラが真顔になって秋良の首元を掴んだ。しまった。逃げられない。もう腹をくくるしかない。

「手、離せ」

「あぁ?」

 怖がらせようとしているのか、茶髪野郎Aが凄い形相で秋良を睨む。いや──こいつは茶髪野郎Bだったか。二人ともあまりにもひどい顔をしていてどっちがどっちやら。

「何笑ってんだよ」

「……うるせぇよ」

 不意に、昨晩の苛立ちを思い出して、秋良は不機嫌そうに答えた。そういや、昨日からロクなことねぇな、オレ。ふざけやがって。

「んの野郎」

 首根っこを掴んでいた茶髪野郎がいきなり渾身の右ストレートを秋良の顔にクリーンヒットさせる。その衝撃で秋良は思わず地面に倒れ込んだ。思いっきり殴りやがって、痛ぇ。

「なんだ、てめぇ!」

 突然、もう一人の男が怒鳴り声をあげる。と同時に茶髪B──あるいはA──の体が宙を舞った。何が起こったのかと思い秋良はなんとか体を起こすと、さっきまでは姿のなかったガタイの良い男がそこに立っていた。

「なんでも良えけど、二対一は微妙に卑怯なんとちゃうか?」

「うるせぇ」

 秋良をぶん殴った方の茶髪が、関西弁の男に殴りかかる。が、男はそれを見事に交わし、左手で茶髪の頭を押さえ込むと、そのまま地面に突っ倒した。凄い。というか、強い。

「さっさと散れや」

 男が言うと、恐れをなした二人は適当に捨て台詞を吐いて猛ダッシュで逃げ去って行った。なんだか、漫画の中みたいな展開だ。不意に男が、まだ倒れていた秋良に左手を差し延べた。秋良はその手を掴むとそっと立ち上がった。なんとも暖かみのある手のひらだ。男の歳は二十五、六だろうか。随分大人びた印象がある。そして、今になって初めて、男の後ろに一人の女が立っていたのに気が付いた。女も男と同い年か、少し年下のようにも見えた。

「大丈夫?」

 女が心配そうに口を開く。

「すいません、大丈夫です」

「そうか、なら良かった」

「あの……ありがとうございました」

 深々と頭を下げると、男は苦笑いを浮かべた。

「阿呆か、照れるやないか」

「それより、頬、冷やした方が良さそうやね」

「ん、そやなぁ……とりあえずうちに来いよ、頬冷やしたるから」

「いや、そんな……」

「遠慮せんで良えて」

 男はニッコリと笑って言った。少し悪い感じはしたが、結局秋良はその好意に甘んじることにした。

「すみません」

「気にすんな、まぁ、入れや」

 そういって、男は目の前にあった本屋に入って行く。えっ、うちに来いよって、あれ、本屋にってことなのか──もしかして、関西人らしいボケなのだろうか。なんて思っていたら、それに気付いたのか、男は笑いながら言った。

「うち、本屋やねん」

 女も、クスクスと笑っていた。しかし──これで納得がいく。さっきまで商店街に誰もいないと思っていたが、まさか店の中から人が助けに出て来てくれるなんて盲点だった。ちっぽけな本屋のレジを抜けて奥に入ると、そこはごく普通の日本家屋だった。暖簾をくぐってすぐ左手に居間があり、秋良はそこの畳に座らされた。

「お前、名前は?」

 隣りの台所でタオルを水に濡しながら男が尋ねた。

「タカツジ アキラです」

「ツジか……おしいな」

「はい?」

 キュッと水道を捻る音が聞こえた。次いで、水の滴る音。濡したタオルを軽く絞っているのだろう。秋良の位置からは、男の後ろ姿しか見えない。

「いやな、オレは、タカ“ツジ”やなくて、タカ“クラ”言うねん」

「タカクラさん、ですか?」

「そ、タカクラ リョウ」

 亮は居間に戻ってくると、秋良にタオルを手渡した。すぐ左頬にそれを押し当てる。ヒンヤリと気持ち良い。

「ごめんな、氷きらしとって、濡れタオルじゃあんま冷えへんかもしれんけど」

 土間の方から不意に声がした。さっきの女だった。

「ちなみにこいつは、オレの妹、ツキネ」

「お月様のツキに、音色のネって書くねんよ」

 指で手のひらに文字を書きながら、女──月音が続けた。

「妹さん、なんですか?」

「そや、ここの本屋、店て言うか、家でやっとるから、店員は全員家族」

 頬が熱を帯びてきたところで、タオルを折り直してまた頬に当てる。秋良は亮の言うことに頷きながら、壁に掛けられた時計を見上げた。もう五時半を回っている。学校を出たのは、確か四時前くらいだ。意外と時間は流れていた。

「にしても、災難やったな」

「いえ……おかげで、助かりました」

「今時あんなベタな絡み方する奴おるんやな、ビックリするで、ほんま」

「ほんと、しかも人の店の前で。営業妨害も良えとこやわ」

憤慨したように言い合う兄妹を眺めていると、何故だか和やかな気分になれた。聞き慣れないはずの関西弁が、やけに耳に優しい。さっきまで感じていた苛立ちや哀愁はまるで嘘のように消えてしまっていた。

「篠山高校か、その制服」

 思い付いたように亮が尋ねた。

「あ、はい、そうです」

 自分の制服をチラッと確認してから、秋良は答えた。

「部活はやってへんのか?」

「いえ……やってます」

「何部なの?」

 今度は月音が尋ねる。秋良はそれに答えるのを若干躊躇して一瞬口を噤んだ。

「……野球部です」

 心なしか、月音の表情が俄かに強張ったような気がした。

「なんや、今日は練習ないんか?」

「……はい」

 嘘を付いた。何故かは分からないが、サボった、と正直に答えることが出来なかった。

「あっ……お帰り」

 まだ土間に立っていた月音が俄かに声を発した。誰か家の者が帰って来たのだろうか。しかし、月音の“お帰り”に対する返答は聞こえなかった。不思議に思っていると、今帰宅してきたらしい人物がガラス戸の奥の土間──月音のすぐ隣に姿を現した。秋良と同い年くらいの少女だ。見慣れない制服を着ている。ふと、少女と目が合った。透き通ったその綺麗な瞳に、秋良は思わず見とれてしまうほどだった。少女は無言で秋良から目を逸らすと、そのままガラス戸の向こう側へと姿を消した。

「月音の、三つ下の妹や。今、高二」

 彼女の消えた方向を茫然と眺めている秋良に亮が言った。秋良は我に返って、亮に視線を戻した。

「あ……オレと同い年、なんですね」

「なんや、お前も高二か」

 小さく笑いながら、亮は秋良の肩をポンと叩いた。そして、にやにやと怪しげな微笑みを見せた後、耳元でボソボソと囁いた。

「惚れんなよ」

「な、何言ってんすか」

 顔を赤くして秋良が言うと、亮は愉快そうに声をあげて笑った。月音はぎこちない笑顔を浮かべている。頬が熱い。いやに恥ずかしいからかい方をされた。そして、同時に浮かんだ春菜の笑顔が、秋良の胸のうちに何かをチクリと突き刺した。小さな、とても小さなとげのような物だった。

「どないした、殴られたとこでも痛むか?」

 浮かない顔をしている秋良に気付いたらしい亮が尋ねた。亮の言葉に反応した月音が、心配そうに秋良の顔を覗き込む。痛むのは、亮の心配するそれとは全く別のものだった。

「いえ……大丈夫です。そろそろオレ、帰りますね」

 作り笑いで秋良が取り繕うと、亮は、そうか、と頷いた。立ち上がり、土間に降りる。月音が見送るね、と言って秋良の後をつけた。とは言ってもそれは店前までの短い間だけで、本屋の出入り口の所から笑顔で手を振っていた。ちょっと小恥ずかしく思いながら手を振り返し、少し賑わい始めた商店街を歩いて駅を目指す。アーケードを抜け駅前に近付いて行くと、二人の女子高生が改札へ向かっていくのが見えた。秋良は思わずその歩みを止める。そして近くの物陰に隠れた。サバンナでライオンと出くわし怯えながら身を潜める草食動物のようにそっと息を殺す。街中の雑踏が耳から遠ざかっていく。サイレント映画のように何度も何度も脳裏に上映される、制服を着た少女の姿──五条春菜。

「なんで隠れてんだろな……オレ」

 呟いて、深いため息をついた。しばらくそのまま立ち尽くすような格好で空を見上げる。暗くなり濃い青色に変わり始めた空に一筋の雲が浮かんでいた。覚悟を決め、改札へ向けてゆっくりと歩き出す。財布から定期券を取り出そうとして、手が震えているのに気付いた。茶髪野郎に絡まれた後遺症かと思ったが、どうやらそういう訳ではないらしい。左手で右手の震えを抑えながら、定期券を自動改札口の機械に突っ込む。電車にタダ乗りしようとする不届者を払いのけるための敷居が、ガタンと音を立てて開いた。いつもと同じ階段を上ろうとして、すんでのところで踏みとどまった。その階段を上る春菜の残像を思い描きながら、秋良はそれに背を向け反対側の階段からホームへ上がる。制服姿の男女が賑わうホームに、タイミング良く4両編成の電車が滑り込む。秋良は人の流れに従うようにして先頭車両に乗り込むと、電車はゆっくりと動き出した。キーンと、線路の軋む音。耳鳴りにも似たその音に、秋良は思わず耳を塞ぎたくなった。多くの乗客でごった返す車内にはあいにく空席がなく、秋良は仕方なく吊革に捕まってわずかな隙間から見える窓の外を眺めた。ビルの合間を縫うようにして沈む夕陽が、何とも言えずキラキラと綺麗だった。

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