Yuddha 007 ルジュの無力
ルジュの背中に、またかすかに血がにじんだ。
「中央師団王都守護大隊所属ルジュ・ロプト小伯です。ご報告と出仕が遅れましたこと、大変申し訳ありません」
ルジュが傷を負ったその日、鬼面をつけた三名――もとは五名だったが――に対したルジュと伴のラージャニヤのニ名は、あっけなく敗北した。
ルジュたちが相対した鬼面たちは腕が立ち、なおかつ戦い慣れた連携を見せた。
伴のラージャニヤ二名が、剣の技量で劣るルジュを護るように闘うしかなかったため、技量で勝る鬼面たちに押されてしまい、やがて伴のうち一名が斬られた。
その時点で伴のうち残る一名が撤退を決意し、自分が抑えとなってルジュを逃がそうとしたのだ。
しかしその残った一人もすぐに斬られ、ルジュだけが命からがら逃げ切ったものの背中を始め全身に傷を負って倒れていたところを、辺りを警戒していた王軍の兵に発見された。まだかすかに意識があったルジュは、自分の追っていた少女が若い男に攫われたと伝えて、意識を失ったのだ。
伴の二名のラージャニヤは、その後に死体で見つかった。
「伴に連れた私兵二名を失い、ツムガリ五名を取り逃がしたと報告にあるがこれは本当か」
ルジュが提出した資料に目を通す大隊長のひどく冷静な声が、ルジュの自責を締め付ける。
ルジュは自身の失態を報告するために王城へ出仕し大隊長の執務室を訪れ、一段高い場所に鷹揚にあぐらをかいた大隊長の前で跪いていた。
ルジュの傷はある程度は癒えたものの、それでも動けば全身に鈍い痛みが走り脂汗をかく。いまだに日中の半分ほどを横になってすごしてるが、今日はこのために登城し、王軍の本部へ出向いていた。
王軍の上級将校はブラフマーナで固められている。
そもそもの王軍は建国の王が率いていた王の軍団だ。しかし、今は王がいない。
知識階級として荒事を好まずもちろん得手ともしないブラフマーナだが、王の軍団を維持するためには、王に代わってブラフマーナ自身の手で軍組織の掌握を行わなければならなかった。
王軍がなくては、王政府が直接的に保持する兵力が全くなくなってしまうのだから、さすがにそこに選択の余地はない。
王軍の中枢は武官となるブラフマーナと、王に仕える形となるラージャニヤで構成され、その数は三万人強。
平時からその下に、有力なラージャニヤから供出される兵約二万人が組み込まれ、五万人余りの王軍を構成している。
ルジュは若年にもかかわらず王軍ですでに『小伯』の職位にある。もちろん、ブラフマーナが得る職位の中では最も下だが、それでも百二十人あまりからなる中隊を任されている。
ロプト家はスメールこそ家系から出したことがないものの、代々王軍の上部の役職に登っている。
ルジュの父は、中央師団の副将まで登ったが、そこで亡くなってしまった。
「間違いありません」
ルジュにも武官の家に生まれ育った矜持がある。失敗は失敗として、処罰を受けるつもりでこの場に来ていた。
大隊長は、言葉を続ける。
「他からも報告が上がっている当時の状況から考えれば、この結果は致し方無いとも言える」
ズラマナミードから都へ戻ってきたブラフマーナの一団が襲撃を受け、十二名のブラフマーナが殺された。
一団には王軍から派遣された百人近くの兵が警備についていたが、夕暮れの街中でツムガリと思われる集団に奇襲攻撃を受けた。
警備の兵たちは都に入った時点で気が緩んでいたこともあり、ツムガリの奇襲にまるで対処できずに、ブラフマーナの他にも多くの死傷者を出した。さらにツムガリ一名の死体を確保しただけで、二十名程度がいたとされるツムガリのほとんどを取り逃がすという大失態を演じた。
「――しかし貴殿はマチェンドラ家の娘を、貴殿の許嫁を守るために、わざわざ志願して同道していたはずだな」
大隊長の発する言葉に、侮蔑にも似た声音が混ざる。
「それが女ひとりも守れぬとは……」
ルジュに大隊長の呟きが突き刺さった。怒りと哀しみがない交ぜになった無力感がルジュの体を支配して、まるで身動きが取れない。
ただ、床を見る。
「第十四中隊、中隊長ルジュ・ロプト小伯。ツムガリを相手にしての奮闘は見事である。今日よりさらに半月の休養を許可し、復帰後は中伯へ昇進となる」
大隊長は、まったく感情のこもらない声でそれを告げた。
「な……」
ルジュは言葉を失う。何もできなかったこの自分を、出世させるというのだ。
「なお、マチェンドラ家の娘の捜索は昨日で打ち切られた。数日内に死亡したものとして処理されるだろう」
「し、しかし、彼女は死んだわけでは!」
マチェンドラ夫妻は、ツムガリに殺された十二人のブラフマーナの中に含まれている。夫妻はフマーフマナの両親だ。
そしてフマーフマナの妹が、ルジュの許嫁だ。ツムガリに襲われ、その逃亡中に街外れで若い男に攫われた後は、その行方は知れない。
フマーフマナは両親を失い、妹の行方がわからない中で、それでもルジュの前で笑顔を見せていた。半月近く一緒にいて、一度たりともルジュに妹のことを訊ねてはいない。
ルジュがフマーフマナに話すのを、ただただ、ずっと待っていたのだ。そしてルジュはいまだに何があったかを、フマーフマナに話せていなかった。
「娘が生きている証もない。そして貧民窟で拐かされた女が、今更にただで戻るわけもない。諦めるがいい。当代のスメールであるヴィクラマ・マチェンドラを失った以上はマチェンドラ家も終わりだ。両家の縁談もなかったものとするのが貴殿のためではないのか」
大隊長が畳みかける。
「でも兄さん!」
「無礼だぞ、ルジュ・ロプト」
大隊長にしてルジュの兄――サットヴァ・ロプト中公は冷たく言い放った。
「! ……申し訳ありません」
ルジュは慌てて平伏する。
前任の王都守護大隊長はツムガリの跳梁を許したことで解任され、半月前からサットヴァが新しい大隊長として任についている。王都の治安を維持する守護隊約二千人を指揮する指揮官で、階級ではルジュより四つ上だ。
「マチェンドラ家の娘は死亡したものとする。それが娘の名誉を守ることにもなるはずだ。……おまえは別の娘を探せ」
同じ言葉を繰り返したサットヴァに、とりつく島はなかった。ルジュは目を剥き歯を食いしばるが、そのまま顔を上げることはない。体に力を入れたせいで傷が引きつれて痛み、血のかすかに混じった脂汗が流れた。
ルジュにとって痛恨なのは、もしあそこで自分を殴り飛ばしたあの男が許嫁を攫って行かなければ、自分が許嫁を護れず、彼女はあの街外れで命を落としたのではないかという想像ができることだ。
伴の者を犠牲にして逃げるしかなかった自分が、あまりにも無力で情けなく思える。
加えて、その時の許嫁がツムガリに襲われたことで気が動転していただろうとは言え、自分のことを認識してくれなかったことが、いまだにひどく手痛い記憶となっている。
「報告ご苦労。下がって良い。なお貴殿の報告書にある緑の覆面の男について、諜報部より情報提供の要請が来ている。この後に立ち寄れ。以上だ」
大隊長が退室を促すと、ルジュが伴として連れてきていたラージャニヤがルジュの背後に近づいた。ルジュはいまだに誰かに肩を借りでもしなければ、長い距離は歩けない。
「ルジュ様、失礼を」
「このようなことまで世話になってすまない」
ラージャニヤの矜持の高さを、ルジュはよく知っている。使用人のような介添えをやらせるなど、面白く思うはずはない。
「いえ、我らラシュヌはロプト家に守護職を賜っている身。どのような形でもお力添えいたします」
軍の正装に身を包んだニーラム・ラシュヌ小伯の迷いのない言葉は清々しかった。しかし、自分の体を支えたニーラムの大柄ながら女性らしい体が、フマーフマナの涙をこらえた笑顔を思い出させて、ルジュの気持ちを暗鬱とさせた。