Yuddha 006 ルジュの傷
多くのブラフマーナが、都の中央に位置する王城の南側にゆったりと広がる丘陵地帯、デーヴァローカの丘に居を構えている。
丘からは一本の大通りが城の南に開いた大門へとまっすぐ伸びていて、朝夕にはブラフマーナたちが馬車などを使って城へ通う様子を見ることができる。
窓外に都の整った街並みと巨大な王城を望める居室で、ルジュ・ロプトは床に臥せっていた。
「お母様にご心配をかけてはいけませんよ」
ルジュの枕もとで叱るように、しかし柔らかな優しい声をかけるのは、ルジュの遠戚にあたるフマーフマナ・マチェンドラだ。ルジュより十歳近く年が上なのだが、まだ十代にも見えるほどにその容姿は若々しい。長く緩やかに波打った亜麻色の髪を、背にゆったりと垂らしている。白い肌とともに父譲りのものだ。
フマーフマナは年の近いルジュの兄と昔から親しくしていたため、ルジュにとってはずっと姉のような存在だった。今はルジュの母親のことを気遣って、ロプト家に留まっていてくれているらしい。
ルジュは寝床でうつ伏せになっている。背中の傷が深く大きく、仰向けになるのが難しいのだ。意識を失っていた間は食事も取っておらず、体が酷く弱ってしまっている。昨日になってやっと粥を少しだけ口にした。
「……申し訳、ありません」
ルジュには他に言葉がない。傍らに座る母とフマーフマナにからは顔を背けたままだ。フマーフマナに合わせる顔がない。
話したいこと、話さなければならないことはある。しかし傷からくる微かな発熱と、絶え間なくうずき続ける傷の痛みで、心も体も思い通りになってくれない。
「あらいけない。また同じことを言ってしまいました」
フマーフマナは優しい形を作る瞳からこぼれ落ちる涙をふく。もともと陽気な性格で、その顔にはいつもどおりの笑みがこぼれているが、頬を伝う涙が止まらない。
「フマーフマナさん……」
ルジュの母が、フマーフマナを抱き寄せる。
「申し訳ありません。少し用を思い出しました」
フマーフマナが足早に部屋を出て行った気配を、ルジュは包帯だらけの背中で感じる。
今のルジュに日にちの感覚はまるでないが、今から七日前の夜、ルジュは背中の刀傷の他にいくつもの怪我を負い、半死半生の状態で自宅に運び込まれた。医者のところではなく、直接に自宅に運ばれたのは名のあるブラフマーナだったことと、あまりに重傷でおそらく死ぬだろうから、せめて家族の元に運んでやろうという気遣いが含まれていた。
「スピターマ様にお越しいただいた甲斐がありました。サーンキヤというのはやはりすごいものなのですね」
ルジュの母が、やっとまともに口がきけるところまで回復してきた息子の背中に嬉しげな声をかける。
サーンキヤは霊的な力を使って治療する医術者だ。ただし、いわゆる呪い師と混同されてもいて、少々うさんくさいものだと考えられている。
その『霊力』による治癒は、呪い師の儀式が生む暗示効果と似ているところもあり、つまりは気のせいなのではないかと、そのように考えている者も多いのだ。
「そうですか。スピターマ様が……」
ルジュは、スピターマがやって来て自分に治療を施したことをまるで覚えていなかった。
ルジュの母は瀕死の息子を救うために、持てる権力と使える縁故のすべてを使って、スメールの一員に列せられているスピターマを招請した。
ロプト家は五大ラージャニヤのラシュヌ家を守護職として従える、ブラフマーナの名家中の名家だ。そこに加えて、元夫と父がスメールだったフマーフマナも微力ながら力を貸した。
スピターマは、王に直接に仕える二十四賢人――スメールのひとりだ。
四つの階級の頂点にあるブラフマーナから、さらに選ばれた二十四人がスメールと呼ばれ、国の政治から軍事までを司る賢人議会を構成している。賢人議会は王が不在の現在では、王に代わって王政府の中枢となりこの国を動かしている。
そのスメールのひとりスピターマは医術を得意とし、特にサーンキヤとしての力は、ブラフマーナの間ではよく知られていた。
ルジュの母は藁をもつかむ気持ちで呼び寄せたスピターマは、巷で悪く言われているようなただの呪い師などではなかった。まず施術で傷口を縫い合わせた後に、傷口に手を当てて目を閉じ集中している様子を見せた。そしてしばらくすると、傷口からの血は完全に止まったのだ。
「私には傷に手を当てているだけに見えましたが、本当に不思議なものです。フマーフマナさんは、何かスピターマ様の手の辺りが光っているように見えたと言っていましたけれど」
ルジュの母は、意識を取り戻した息子にそう語った。
サーンキヤが治療に使うという霊力とはつまり、魂の力だとされている。それは確かに生き物の中にあるだろうと考えられているものの、しかし目に見え、手に触れられるようなものではない。
土や風にも一種の霊力は宿り、それらは生物が持つ魂の力とは区別されて、『気』と呼ばれることが多い。一説にはその気が川のように流れる、地の気脈、風の気脈などと呼ばれるものがあるとされているが、それを物質的な法則に基づいて説明することはできない。いや、スメールたちの研究によって、物質的な法則では説明ができないものだという結論が出されている。
それでもなおスピターマは霊力を用いた医術を施すサーンキヤとして認められていて、つまり逆にそれはスピターマの力が否定できないものとして突出しているということだ。彼自身がサーンキヤの根拠で、証明となっている。
ルジュは好運にもそのスピターマの治療をすぐに受けることができ、速やかな死からは免れた。
それでも、失った血が多すぎて予断を許さなかったルジュの容態だが、スピターマも数日の間はロプト邸に泊まり込んで施術を続け、ルジュはなんとか持ちこたえた。
やっといくらか熱も下がり、家付きの侍医からももう大丈夫だろうという言葉が出て、母やフマーフマナが安堵したところだ。
しかし今もルジュは、傷からくる痛みでほとんど身動きが取れない。特に致命傷に近かった背中の傷は骨まで達していて、体を動かした拍子に背中から頭まで鋭い痛みが突き抜けることがいまだにある。
後遺症の心配も、まだまだ消えていない。
縫い合わされている傷も引きつっていて、少し動いた拍子に傷口の表面が破れてしまいそうだ。
それでも少しずつルジュの体力が戻り、いくらか会話もできるようになってくると、フマーフマナの口からは説教じみた言葉も出るようになった。
それがルジュのことを思っての言葉ばかりなので、ルジュにとっては余計に辛い。
フマーフマナが部屋を出て行って彼女の顔を見なくて済むようになり、ルジュはうつぶせになった体を少しだけ持ち上げて、顔の向きを変える。それだけでも背中全体に鈍く深い痛みが走った。
そして視界に、ひどくやつれた母の顔が入った。思わず、枕に顔を押しつけるようにして目をつむる。
それでもなんとか、もう一度母の顔を見たルジュは、脇に控えている使用人に声をかけた。
「……お母様に休んでいただいてくれ」
ルジュの父は、何年も前に病で死んでいる。突然体調を崩したと思ったら、それからの数か月間は病床から出ることもできず、そのまま死んでしまった。
ルジュにとってはもちろん父の突然の死も辛かったのだが、その後に母が長い間ふさぎ込んでしまったのがもっとこたえた。
死んだ人間は哀れだが、苦しむのは生きている人間だ。
「でもルジュ」
ルジュは背中の痛みに耐えて手を伸ばし、なんとか母の手を取る。いや、ルジュが辛そうに手を伸ばしたのを見かねて、母が椅子から腰を上げてその手を取った。
「お母様、そうじっと見られていては私も気が休まりません。どうかお部屋でお休みください」
不調法な言葉だと思いつつも、ルジュには他の言葉が思いつかなかった。疲れ切った母の顔を見たくないというのも、今の本音だ。
母は気を利かせた使用人に促されるようにして、部屋を出て行った。
しばらくすると、母が部屋を出たのに気づいたのか、フマーフマナがまた部屋に入ってきた。
ルジュは気配を察するが、部屋の奥の方へ顔を向けてそちらを見ることはない。
フマーフマナは水差しを手にしている。
「水をお飲みになりますか?」
フマーフマナはこのロプト家では本来は客人の扱いを受けるはずの立場にも関わらず、自然に使用人の仕事を奪ってしまう。
ルジュは自分の母が物を運んでいるところをあまり見たことがないのだが、フマーフマナがそれをやる分には違和感を感じない。そういう女性なのだ。
「少し……」
喉の渇きにそう答え、寝床に手を突いて上半身を起こそうとする。
フマーフマナが慌てて手を貸そうとするが、その細腕では大した助けにはならず、ルジュの全身を抱きかかえるようにする。
今のルジュには、フマーフマナの体の柔らかさに気恥ずかしさを感じる余裕はまるでない。痛みをできるだけ感じずに済むように、枕を胸の下に入れるようにして、ゆっくりと横を向きながら上半身を少しだけ起こした。
フマーフマナが水飲みに注いでくれた水を、ルジュは乾いた唇を開いて少しだけ流し込む。
空っぽの胃に新鮮な水が流れ落ちる。それが体に染みこんでいき、そして体が少し冷えて、逆にすべての傷口が少し熱を持った気がした。
「ありがとうございます」
その一口で、水飲みをフマーフマナに返す。
「……スピターマ様は本当にここへ?」
本当にフマーフマナに訊ねたいのは別のことだがそれは口にできず、ただそれでも何か声をかけずにいられなかった。
「ルジュ様も何度か目を覚まされたようでしたが、お気づきにはなっているわけではなかったのですね」
「……正直、まるで憶えていません」
ルジュのその言葉に、フマーフマナは困ったように笑っている。
「ルジュ様が怪我をしたという知らせを受けた時に、実はちょうどスピターマ様が当家にいらっしゃっていたので、共にこちらへ参りました」
フマーフマナの言う当家とは、嫁ぎ先か実家のどちらのことだろうとルジュは少しだけ考える。彼女の元夫は、数ヶ月前に病死してしまった。ブラフマーナとして領地の巡察を行っていた出先でのことだ。
子がなかったために、フマーフマナは元夫の家を出て未亡人としてマチェンドラ家に戻っていたはずだ。
痛み止めの薬のせいでぼんやりとしてしまう思考の歯車を、ひとつひとつルジュは動かしていく。
今のフマーフマナはマチェンドラ家の娘だ。そしてフマーフマナの父はスメールの一人――いや、一人だった。
そのマチェンドラ家をスピターマが訪れていた。その理由は、ルジュにはわかりすぎるほどにわかっている。今は、それに触れたくはない。
しかし、どうしても確かめなければならないことがある。どうしても確かめたいことがある。
「……い、妹君は」
またひどく渇いてしまっていた喉から、なんとかかすれた声が出せた。
「……そのお話はもう少し、お体がよくなってからにしましょう。良い報せも悪い報せも、今のルジュ様のお体には触るでしょうから」
そう優しく微笑んだフマーフマナの微笑みが一瞬だけ凍りついたのをルジュは見逃さなかった。
しかし今は、何がどうなったのか、そのすべてを知る気力は欠けていた。すべてを知りたくはなかった。すでに知っていることだけでも十分にルジュの心は痛めつけられて、それ以上を知ることを拒絶していた。
「わかりました」
ルジュのその答えに、フマーフマナが柔和な笑みを見せた。
「あなたが死ななくて、本当に良かった」
そう言って笑ったのに、フマーフマナはまた、微笑みながら涙した。
ルジュはフマーフマナの震えた声を耳にしつつも寝たふりをしようとして、そのまま本当に寝入ってしまった。
ルジュがなんとか起き上がり歩けるようになるまでは、それからさらに十日ほどを要した。