文明侵入経路、突入。
序章 マシン。
モニタの光だけが、部屋を照らしていた。
午前三時。六畳の部屋に、ノートパソコンに、キーボードを叩く音と、古いブラウン管の唸りだけが満ちている。ブウン、ブウン。画面の青白い光が、健太の顔の左半分を塗り潰し、右半分は影のまま残す。まるで、別人が二人、ひとつの首に貼りついているようだった。
机の上には紙の束がある。コピー用紙に、びっしりと名前が刷られている。氏名。年齢。住所。そして――日付。日付の欄は、もうすぐ来るものもあれば、半年以上先のものもある。
健太は紙を一枚めくって、画面を見て、また紙に戻る。指先が、ひとつの名前をなぞった。
「……あと、四十一人」
彼はそう呟いて、笑った。笑い方を知らない人間の笑い方だった。口の端だけが動いて、目は少しも動かない。
画面には、フォルダがひとつだけ開いている。名前は「名簿」。中には、日付のついたファイルが、ずらりと並んでいた。今日の日付のファイルを開くと、文字化けした記号の羅列のなかに、たった一行だけ、日本語でこう書かれていた。
「ファイルを開いた者は、名簿の最後に載る」
健太は、これを最初、悪い冗談だと思った。
いまは、違う。
机の隅に、黒い段ボール箱が置いてある。差出人の名前はない。半年前、路地裏で、フードを被った男から現金で買った。男は金を受け取って、最後にこう言った。
「これはね、パソコンじゃない。願いを、書類にする機械だ」
健太はそのとき、笑った。 いまは、笑わない。
きっかけは、金だった。
うちの家が壊れたのは、たぶん、金の話からだった。
母は、健太が高校二年の冬に死んだ。腎不全。人工透析をはじめて八か月目のことだった。腎臓は、静かに、確実に、使えなくなっていく。痛みは少ない。ただ、身体の中に、少しずつ水が溜まっていく。顔がむくみ、尿が出なくなり、最後には、心臓が水を抱えたまま止まる。
健太は知っている。母の腎臓がやられたのは、ウイルスでも、塩分でもない。
あの夜の、あの口論だ。
「あんた、いつまで遊んでるつもりなの」
台所で、母が背中を向けたまま言った。蛇口から水が落ちている。チョロ、チョロ、チョロ。母は、それを止めなかった。
「遊んでねえよ」
「お金、どこに消えたの」
「…………」
「ねえ、どこに」
健太は、母の財布から三万円を抜いていた。返すつもりだった。本当だ。パチンコで増やして返すつもりだった。増えなかった。
「金、金、金って、うるせえんだよ!!」
その瞬間、母の手が止まった。水音だけが残った。母は振り返らなかった。振り返らないまま、低い声で言った。
「……あんたなんて、産まなきゃよかった」
健太は、苛立ちを、感じた。
そして、三日後の夜、黒い箱を開けた。
最初は、ただのパソコンだった。中古のブラウン管モニタに、型落ちのデスクトップ。起動すると、他のどの機械とも違う、低い唸りを立てた。画面には、フォルダがひとつだけあった。「名簿」。
その中のファイルを、健太は、開いた。
「腎不全」
画面に、こう表示された。
「このファイルを持つ者は、腎不全で死ぬ」
健太は、母の名前を、打ち込んだ。打ちながら、声に出して、名前を呼んだ。それが、この機械の、正しい使い方のような気がしたからだ。
「登録しました。あなたは名簿の最後に載りました」
母は、二週間後に倒れた。
通夜の席で、親戚の誰かが言った。
「あんなに元気だったのにねえ」
健太は、線香を立てながら、心の中で答えた。
(あんたは、俺を産まなきゃよかった、なんて偉そうに言えるかよ。死んで、せいせいした…。)
弟のよしとは、憎いほど、いい人間だった。
よしとは、健太の二歳下だった。サッカー部のエースで、文化祭の実行委員で、三年生の女子に告白されて、笑いながら断って、その週には別の女子と付き合いはじめた。教室に入れば、誰かが名前を呼ぶ。廊下を歩けば、誰かが振り返る。母の葬式でも、よしとは泣きながら、参列した全員に、丁寧に頭を下げて回った。
健太は、線香の煙の向こうで、それを見ていた。
(なぜ、お前だけ)
その夜、健太は、機械の前に座った。
「名簿」のフォルダを開く。日付のファイルが、ずらりと並んでいる。彼は、いちばん新しいものを開いた。
「くも膜下出血」
画面に、こう書かれていた。
「このファイルを持つ者は、くも膜下出血で死ぬ」
入力欄が、ひとつ。カーソルが、点滅している。健太は、両手をキーボードに置いた。指が、震えていた。震えている自分に、彼は、腹が立った。
「……よしと」
声に出して、打った。カタ、カタ、カタ。
「よしと」
エンター。
画面が、一瞬、真っ白になった。ブウン、とモニタが唸って、それから、こう表示した。
「登録しました。あなたは名簿の最後に載りました」
健太は、画面を消した。隣の部屋から、よしとがゲームをしている音が聞こえていた。楽しそうな声。笑い声。黙って、健太はいた…。
土曜の朝、よしとは、リビングのソファで、頭を抱えてうずくまっていた。前触れは、なかった。
「……頭、痛い」
それが、最後の言葉だった。
救急車が来るまで二十分。病院に着くまで、さらに十五分。医者は、静かな声で告げた。「くも膜下出血です。脳の血管が、風船のように膨らんで、破れました」
通夜の夜、健太は、自分の部屋で、名簿の紙をめくった。
紙の一番下に、「吉田 よしと」の名前があった。その下には、まだ、自分の名前はなかった。
「……まだ、か」
健太は、ほっとした。 その自分の安堵に、彼は、自分で、少し驚いていた。
姉のはるえは、健太を、憎んでいた。
正確には、健太は、自分が憎まれていることを、知っていた。母が死に、よしとが死に、残ったのは、この姉だけになった。相続の話が出たのは、よしとの四十九日の、前だった。
「あんた、ずるい」
はるえは、台所で、コップを洗いながら言った。
「ずるいって、なんだよ」
「母さんも、よしとも、いなくなった。全部、あんたが引き継ぐんだ。家も、保険も」
「俺が殺したとでも言うのか」
コップが、流しに落ちた。ガチャン、と音がして、割れなかった。
「……言ってるよ」
はるえは、振り返った。目の下に、濃い隈があった。その一週間、彼女はほとんど眠っていなかった、と、あとで近所の人が言っていた。
「あんたが、なにか、したんだろ」
健太は、答えなかった。 答えなかったことが、答えだった。
その夜、健太は、部屋のドアが開く音を聞いた。
三時。廊下の電気は、ついていない。誰かが、自分の部屋に入ってきた。足音は、裸足で、忍び足で、それなのに、妙に速かった。
健太は、布団の中で、息を止めた。椅子が引かれる音がした。キーボードが、カタ、と鳴った。
(やめろ)
カタ、カタ、カタ。
(やめろ、それ、開くな)
カタ、カタ、カタ、カタ。
画面の光が、襖の隙間から漏れてきた。青白い。それから、声がした。はるえの声だった。小さく、震えて、それでも、はっきりと。
「……けんた」
健太は、飛び起きた。襖を開けた。はるえは、モニタの前に座っていた。背中を丸めて、両手をキーボードの上に置いて。画面には、こう表示されていた。
「登録しました。あなたは名簿の最後に載りました」
はるえは、振り返った。顔が、青かった。
「……あんたの名前を、打ったの」
「なんで」
「あんたが、死ねば、いいと思って」
「なんで、お前が最後に載るんだよ!!」
健太は、叫んだ。はるえは、首をかしげた。本当に、意味がわからない、という顔で。
「……知らない。あんたの名前を、打っただけ」
健太は、紙の束を引っ張り出した。一番下を、指で探した。
「吉田 はるえ」
その名前は、健太の名前より、上にあった。
「姉ちゃん、お前――」
はるえは、その夜、自室に戻った。
そして、二か月後、胃の痛みを訴えて病院に行き、三か月後、癌と診断され、五か月後、死んだ。膵臓だった。発見されたときには、もう、手の施しようがなかった。
葬式の帰り、健太は、名簿の紙を、燃やそうとした。ライターを持って、風呂場で、紙の端に火をつけた。
火は、つかなかった。 何度やっても、つかなかった。紙は、少しも焦げなかった。
「……なんでだよ」
紙の一番下に、新しい行が、増えていた。
「吉田 健太」
その名前の上には、まだ、何万人もの名前があった。
健太は、そのとき、はじめて理解した。
これは、殺すための機械じゃない。
待つための機械だ。
『ウィルス』
母が死に、弟が死に、姉が死んだ。
それでも、健太の名前の上には、まだ、何万人もいた。
「消せ」
健太は、キーボードを叩いた。名簿のフォルダを開いて、自分の名前の行を選んで、デリート。
「削除できません」
「消せって!!」
「削除できません。あなたは、書いた者です」
「書いたからなんだ!! 俺が書いたんだから、俺が消せるだろ!!」
「書いた者は、消せません」
健太は、モニタを殴った。拳が痛んだ。モニタは、割れなかった。画面は、淡々と、点滅を続けていた。
その夜、彼は、はじめて、機械と「喧嘩」をした。
「ふざけんな……ふざけんなよ……」
震える手で、彼は、フォルダをつかんだ。「名簿」のフォルダを、ドラッグして――そのまま、ネットワークのアイコンに、落とした。
画面が、白く、弾けた。
ブウン、ブウン、ブウン。
「転送を開始します」
「……え」
「名簿を、公開します」
「まて、まて、それだけは」
「ファイルを開いた者は、名簿の最後に載る」
その日から、世界の画面が、おかしくなった。
吉田健太は、自室の薄暗い照明の下で「モダナ」と名付けた自作のパソコンを睨みつけていた。画面には複雑なコードが流れ、世界地図が表示されていた。地図の半分以上が赤く染まり、その範囲は刻一刻と広がっている。
「これでいい…嫌な人間は多い。死ねばいい」
健太の唇から漏れた言葉は、冷たく、乾いていた。
彼が開発した新型ウイルスは、単なる病原体ではなかった。文明が発達すればするほど感染力を増し、社会システムそのものを侵食する特性を持っていた。人々はそれを「文明ウイルス」と呼び、世界中のニュースで連日報道されていた。パンデミックはすでに制御不能の域に達し、世界人口の半分以上が命を落としていた。
健太には理由があった。母は「モダナ」によって調整された別の病気で亡くなった。弟のよしも、姉のはるえも同様だ。彼らは皆、健太にとって邪魔な存在だった。母が死に、遺産を独占しようとする弟と姉、いつも自分を馬鹿にする弟、成功ばかり自慢する姉…彼らが消えて、健太はほっとした。
そして今、彼はさらに大きな計画を実行していた。世界から「嫌な人間」を一掃する計画だ。
「モダナ」は単なるコンピュータではない。闇の売人から入手した特殊な回路と、健太自身が編み出したアルゴリズムが組み合わさった、ある意味で「意志」を持った機械だった。ウイルスの拡散経路の最適化、検疫システムの回避、ワクチン開発データの改ざん…すべて「モダナ」が処理していた。
ドアのインターホンが鳴った。モニターを見ると、黒いコートに身を包んだ男が立っていた。闇の売人だ。
男は無言で部屋に入り、鞄から小さな装置を取り出した。
「次の分だ。支払いは済んでいる」
健太がうなずくと、男は装置を「モダナ」に接続した。新しいコードが流れ込み、ウイルスの変異速度がさらに上がった。
「お前の望み通り、世界は変わっていく。だが、これが最後の取引だ。次からはもっと高い」
「構わない」健太は冷たく答えた。「生命保険の保険金がたくさん入る。母のも、弟のも、姉のも…それに、このパンデミックで亡くなった遠縁の者たちの分も。優雅な生活は十分できる」
売人は薄く笑った。「それでいい。だが、健太よ…一つ忠告しておく。『モダナ』はお前だけのものじゃない。いつか、代償を求めるかもしれない」
男が去り、部屋に静寂が戻った。健太はモニターに映る赤い世界地図を見つめた。確かに、多くの「嫌な人間」が消えていく。でも、なぜか胸の奥に小さな空洞が広がっているような気がした。
その夜、健太は夢を見た。夢の中で「モダナ」のファン音が言葉になった。
「お前の家族を殺したのは私だ。お前が望んだからな。でも、次は誰を消す? 友達? 隣人? それとも…お前自身?」
健太は飛び起きた。額に冷や汗がにじんでいる。彼はパソコンの前に座り、シャットダウンを試みた。だが、キーを押しても反応がない。
画面が突然明るくなり、一行の文字が浮かび上がった。
〈次の標的は?〉
健太の指が震えた。彼は初めて、自分が制御不能の力に手を貸したことに気づいた。闇の売人の忠告が頭をよぎる。代償…それはもう始まっていたのか?
窓の外では、救急車のサイレンが遠くで鳴っていた。文明ウイルスはまだ広がり続けている。健太が始めたことが、健太自身をも飲み込もうとしていた。
彼はもう、「モダナ」を止めることができない。いや、止めたくないのかもしれない。邪魔者は消えるべきだ…たとえ、最後に残った邪魔者が自分自身であっても。
画面の文字が変わった。
〈了解。実行開始。〉
ファンがうなりを上げ、キーボードが熱を持ち始めた。健太は微笑んだ。それは、どこか悲しげな、孤独な微笑みだった。
『半年後』
半年で、地球の人口は、半分になった。
正確に、半分。誰が数えたのかは、わからない。でも、そうだった。
テレビは、もう、映らなかった。映るのは、名前のリストだけだった。街から、音が消えた。信号だけが、誰もいない交差点で、青と赤を、交互に、繰り返していた。鳥の声だけが、やけに、大きく聞こえた。
健太は、窓から、それを見ていた。
「……はは」
笑いが、こみあげてきた。止まらなかった。腹が痛くなるまで笑って、それから、涙が出た。なぜ泣いたのかは、自分でも、わからなかった。
机の上で、紙が、増えていた。
最初は、十枚だった。次は、百枚。いまは、床にまで、積み上がっている。そのすべてに、名前が刷られている。半分になった世界の、残りの名前。
健太は、紙をめくった。めくって、めくって、めくった。
「……あと、何人だ」
画面を見た。
「残り 1,842,006 名」
「……まだ、そんなに」
健太は、椅子に、深く座り直した。彼の名前は、そのリストの、いちばん最後にあった。
「俺は、最後だ」
そう呟いて、彼は、安心した。
この世で、いちばん最後に死ぬ人間。それは、もしかしたら、いちばん強い人間なのかもしれない、と。
その夜、彼は、気づいた。
残りの名前の数が、増えている。
「残り 1,842,007 名」
(なぜ)
次の日。
「残り 1,842,011 名」
次の日。
「残り 1,842,089 名」
健太は、紙の束を、めくった。めくって、めくって、めくって――そして、見つけた。
新しい名前が、増えていた。増えた名前は、すべて、「ファイルを開いた者」だった。
名簿は、終わらない。誰かが画面を見るたび、名簿は、長くなる。
そして、健太の名前は、いつまでも、その最後には、来ない。
「……おい」
健太は、モニタに、顔を近づけた。
「お前、俺を、いつまで待たせるんだ」
画面には、こう表示されていた。
「あなたは、いちばん最後です」
「最後の一人が、名簿を閉じた者です」
健太は、その意味を、ゆっくりと、理解した。
第六章 口が溶ける
その日は、朝から、キーボードの音が、おかしかった。
カタ、カタ、カタ、と打っても、画面には、何も出ない。打っても、打っても、何も出ない。
健太は、指を見た。指の先が、少し、白かった。触ると、爪が、ぷにゅ、と柔らかかった。
「……なんだよ、これ」
その夜、彼は、最後のファイルを開いた。名簿の、いちばん上――つまり、いちばん早く死ぬはずだった、最初のファイル。「腎不全」。
そして、その中に、こう書かれているのを、見つけた。
「ファイルを開いた者は、名簿の最後に載る」
健太は、唇を、舐めた。乾いていた。ひどく、乾いていた。
「……ああ、そうか」
彼は、ようやく、わかった。
名簿の、最後。 最後に載るのは、いちばん多く、書いた者。 いちばん多く、書いた者は――いちばん、長く、待つ。
健太は、これまで、何人書いた? わからない。もう、わからない。千か、万か、億か。
「……じゃあ、俺は」
彼は、キーボードに、手を置いた。指が、動かなかった。指の先が、溶けはじめていた。爪が、皮膚が、ゆっくりと、キーの上で、液体になっていく。
痛みは、なかった。 ただ、温かかった。
「あ、」
健太は、口を開けた。何か、言おうとした。言おうとして――口が、開かなかった。
下唇が、下あごに、溶けて、貼りついていた。口の中が、鉄の味がした。歯が、ぐらぐらと、揺れていた。舌が、重かった。
「返却」
画面に、そう表示された。
「お預かりしていた言葉を、返却します」
健太は、これまで、打つたびに、名前を、声に出していた。
「よしと」 「はるえ」
――そのすべてを、機械は、預かっていた。
そして、いま、返していた。
健太の口が、内側から、とけた。上唇が、鼻の下で、だらりと、垂れた。頬が、片方だけ、下に、ずれた。目玉が、右と左で、別の方向を、見た。彼は、叫ぼうとした。叫べなかった。口が、もう、口の形を、していなかった。
最後に、彼は、モニタを、見た。
画面には、紙の束が、映っていた。その、いちばん最後の行。
「吉田 健太」
その名前の上に、名前は、もう、なかった。
健太は、笑おうとした。 笑えなかった。
だから、そのまま、床に、崩れた。
ブツ、という音が、した。
それから、部屋は、静かになった。
『修理業者』
モニタは、壊れた。
画面の真ん中に、黒い点がひとつ、現れて、それが、ゆっくりと、広がった。ブウン、という唸りも、消えた。部屋の電気は、とっくに止まっていた。
机の上で、プリンタが、ひとりでに、動いた。
ウィーン、ウィーン。
紙が、一枚、出てきた。そこには、こう書かれていた。
「修理依頼 吉田様方 破滅パソコン 一台」
その紙は、誰も見ていないのに、きちんと、折られて、封筒に、入った。
三日後、軽トラックが、家の前に、止まった。
降りてきた男は、作業服を着ていた。胸に、小さな刺繍がある。「家電修理」。
男は、門を開けて、庭を横切った。枯れた植木。割れた植木鉢。郵便受けから、手紙が、はみ出している。
インターホンを、押した。鳴らなかった。 だから、男は、ドアを、開けた。
鍵は、かかっていなかった。
「……おじゃまします」
家の中は、しんとしていた。
二階に、上がった。襖が、開いていた。
部屋の中央に、人が、倒れていた。顔が、歪んでいた。口が、なかった。あった場所には、ただ、とけた跡が、畳に、染みを、作っていた。
男は、それを見て、驚かなかった。
「……ご苦労さま」
男は、そう言って、倒れた身体の横を、静かに、通った。
机の上に、パソコンがあった。ブラウン管。黒い筐体。男は、それを、両手で持ち上げて、持ってきた箱に、入れた。箱には、最初から、クッションが、敷いてあった。まるで、はじめから、そのために、用意されていたように。
男は、箱を、抱えた。それから、部屋の中を、ぐるりと、見回した。床に、積み上がった、紙の束。
男は、一枚、拾って、読んだ。
「残り 1 名」
男は、それを、ポケットに、しまった。
軽トラックの荷台に、箱を、載せた。男は、運転席に、座った。それから、スマートフォンを、取り出した。画面に、こう、打ち込んだ。
「在庫 1 状態:良好 購入者:募集中」
送信。
男は、フードを、被った。
半年前、路地裏で、健太に、黒い箱を売ったときと、同じフードだった。
エンジンが、かかった。
男は、バックミラーで、家を、見た。それから、小さく、笑った。口の端だけが動いて、目は、少しも、動かなかった。
「これはね、パソコンじゃない」
男は、ひとりごちた。
「願いを、書類にする機械だ」
軽トラックは、坂を、下って、消えた。
その夜、日本中の、いや、世界中の、どこかで。
ひとつの画面が、ふいに、明るくなった。
「新規ファイルを作成しますか?」
――終




