第9章「ここにいる理由」
第9章 ここにいる理由
【海野凛視点】
電話が切れた。
ツー、ツー、という音が、耳に残っている。
私はスマートフォンを耳から離して、画面を見つめた。通話時間、十二秒。迅くんからの着信。
——何だったんだろう、今の。
居間のソファに座ったまま、私は首を傾げた。
夕方六時過ぎ。窓の外では、夕焼けが海を染めている。いつもと変わらない、この町の夕暮れ。
でも、さっきの電話は——いつもと違った。
「凛。今、大丈夫か」
迅くんの声は、少しだけ硬かった。何かを言おうとして、言えなかったような。
「……いや、何でもない。また連絡する」
そう言って、切れた。
何でもない、という言葉が、嘘だと分かった。
八年間、あの人を見てきた。遠くからだけど、ずっと。
迅くんが嘘をつく時、声が少しだけ低くなる。それを、私は知っている。
胸の奥に、名前のつけられない何かが生まれていた。心配、とも違う。不安、とも違う。言葉にしたら、きっと嘘になる。ただ——迅くんが何か大きなものを抱えている。それだけは、確かだった。
「凛ちゃん、どうしたの」
台所から、おばあちゃんの声が聞こえた。
「んっ、何でもないですよっ。迅くんから電話だったんです」
「あら、迅ちゃんから?」
おばあちゃんが、台所から顔を出した。しわだらけの顔に、柔らかい笑み。
「何だって?」
「……何でもないって。また連絡するって」
「そう」
おばあちゃんは、それ以上聞かなかった。
でも、その目が、私を見ていた。何かを見透かすような、穏やかだけれど深い目。
「ご飯、もうすぐできるからね」
「うんっ」
おばあちゃんが台所に戻っていく。味噌汁の匂いが、かすかに漂ってきた。
私は、縁側の方に視線を向けた。
夕焼けの海。漁船が何隻か、港に戻ってきている。
——この景色を、私は十八年間見てきた。
生まれてから、ずっと。
◆
翌朝、私は高橋診療所に向かった。
週に三回、ボランティアで手伝いに行っている。受付の整理とか、お年寄りの話し相手とか、そういう簡単なこと。
診療所は、港から少し坂を上がったところにある。白い壁の、小さな建物。高橋先生が一人でやっている。
「おはようございますっ」
引き戸を開けると、消毒液の匂いと、古い木の香りが混じった空気が顔に触れた。待合室にはもう何人かのお年寄りがいた。
「おう、凛ちゃん」
漁師の田中さんが、手を上げた。七十過ぎの、日焼けした顔。
「おはようございますっ、田中さん。膝の調子はどうですかっ?」
「今日はまあまあだな。お前が来ると、待合室が明るくなるよ」
「そ、そんなことないですよっ」
照れくさくて、私は早足でカウンターに入った。
カルテの整理。予約の確認。薬の在庫チェック。
単純な作業だけど、嫌いじゃない。この診療所にいると、町の人たちの顔が見える。声が聞こえる。
——この町が、生きていると感じる。
「凛ちゃん」
高橋先生が、診察室から顔を出した。六十代後半、白髪混じりの穏やかな顔。
「田中さん、次どうぞ」
「はいよ」
田中さんが立ち上がり、診察室に入っていく。
待合室には、あと三人。みんな顔見知りだ。壁にかかった古い時計が、カチカチと小さな音を刻んでいる。
「凛ちゃん、最近どうだい」
佐藤のおばあちゃんが、声をかけてきた。八十過ぎ。おばあちゃんの友達。
「元気ですよっ。おばあちゃんは?」
「膝がねえ、最近痛くてさ」
「大変ですね……」
「年取ると、あちこちガタが来るのよ」
佐藤のおばあちゃんは、笑った。
でも、その笑顔がすぐに消えて、何か別のものに変わった。
「……ねえ、凛ちゃん」
「はいっ?」
「最近、海がおかしいって話、聞いた?」
私は、手を止めた。
「海が、おかしい……?」
「うちの息子がね、漁師やってるんだけど。ここんとこ、魚がいないんだって」
佐藤のおばあちゃんの声が、低くなった。
「いつもの場所に、いないんだって。深いところに逃げてるみたいだって」
「そう……なんですか」
「何十年も漁師やってて、こんなの初めてだって言ってた」
待合室が、しん、と静まった。
他のお年寄りたちも、佐藤のおばあちゃんの話を聞いていた。
「地震でも来るんじゃないかって、みんな言ってるよ」
誰かが、小さく言った。
その言葉が、胸の奥に落ちてきた。重たく。冷たく。
私は、待合室の窓に目を移した。
青い空。白い雲。いつもと変わらない、六月の朝。
けれど——何かが、違う気がした。
同じ景色なのに、どこか——ずれている。
◆
昼休み、私は診療所の裏手にある小さな庭に出た。
ベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べる。日差しが肌に温かい。風が、潮の匂いを運んでくる。
スマートフォンを取り出した。
昨日の迅くんからの電話。通話履歴に残っている。十二秒。
——何を言おうとしたんだろう。
もう一度かけてみようか、と思った。でも、指が動かなかった。
迅くんが言わなかったことには、理由があるはずだ。
あの人は、無駄なことをしない人だから。
優しいのに、不器用で。いつも誰かのために動いているのに、自分のことは後回しで。
——心配してる。私のこと。
そう思うと、嬉しいような、苦しいような、変な気持ちになった。
「凛ちゃん」
振り向くと、高橋先生が立っていた。
白衣を着たまま、手には缶コーヒー。
「先生っ、お昼ですか?」
「ああ、少しだけね」
高橋先生は、私の隣に座った。ベンチがきしむ音がした。
しばらく、二人で黙って海を眺めていた。
診療所の裏手からは、港と海が見える。小さな漁船が、何隻か沖に出ている。
「凛ちゃん」
「はいっ」
「迅くんから、何か聞いてるかい」
私は、先生の方を振り返った。
先生の目は、海を見つめていた。穏やかだけど、どこか——遠い目。水平線より、もっと向こうを見ているような。
「……何も聞いてないです。昨日、電話があったけど」
「そうか」
先生は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「迅くん、自衛隊で災害救助やってるんだろう」
「はいっ」
「最近、忙しいみたいだね」
「……みたいです」
先生の横顔を、私は見つめた。
この人は、何かを知っている。
そう思った。直感だった。根拠なんてない。でも、分かる。
「先生」
「ん?」
「海がおかしいって、本当ですか」
先生は、少しだけ目を細めた。
「……誰から聞いた」
「佐藤のおばあちゃんからです。息子さんが漁師で」
「ああ、正一くんか」
先生は、また海に視線を戻した。
「本当だよ。ここ二週間くらい、漁師たちがみんなそう言ってる」
「地震が来るって話も……」
「それは、分からない」
先生の声は、抑えた調子だった。
「でも、何かが起きているのは確かだ。海の様子が、おかしい」
私は、黙って先生の言葉を聞いていた。
風が吹いて、髪が顔にかかった。塩辛い匂いが、鼻をかすめた。
「凛ちゃん」
「はいっ」
「もし——もしもの時は、逃げるんだよ」
先生が、私を見た。
その目には、優しさと、それだけではない色があった。覚悟。そう呼ぶしかない、何か。
「この町が好きなのは分かる。でも、命より大事なものはない」
「……先生は、逃げないんですか」
先生は、少しだけ笑った。寂しそうな、でも迷いのない笑い方。
「私は医者だからね。患者を置いて逃げるわけにはいかない」
「でも——」
「凛ちゃん」
先生が、私の言葉を遮った。
「君は若い。これから先、まだまだ長い人生がある」
先生の手が、私の肩に置かれた。温かくて、でも少しだけ震えている気がした。
「迅くんの言うことを聞きなさい。あの子は、君のことを——」
そこで、先生は言葉を切った。
何を言おうとしたのか、私には分からなかった。
でも——その続きを、聞きたかった。聞きたくなかった。どっちなのか、自分でも分からなかった。
◆
夕方、家に帰ると、おばあちゃんが縁側に座っていた。
夕日を浴びて、海を見ている。
「ただいまっ」
「おかえり」
私は、おばあちゃんの隣に座った。
畳の匂い。潮風。遠くでカモメが鳴いている。
二人で、しばらく黙って海を見た。
漁船が戻ってくる。波の音が、遠くから聞こえる。夕日が海面に砕けて、きらきら光っている。
「おばあちゃん」
「なんだい」
「私ね、この町から出たくない」
おばあちゃんは、何も言わなかった。
「お父さんとお母さんが死んで、八年経った。でも、まだ——」
言葉が、喉の奥でつかえた。
「まだ、ここにいる気がするの。この海に、この町に」
八年前の三月。
あの日、お父さんとお母さんは、海沿いの魚市場にいた。
津波が来た時、逃げられなかった。
遺体は、三日後に見つかった。二人とも、手を繋いでいたって。
その話を聞いた時、私は泣けなかった。泣いたら、本当になる気がして。本当にいなくなったって、認めることになる気がして。
だから私は笑った。大丈夫ですって、言い続けた。
今でも、あの時のことを思い出すと、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。悲しいのか、怖いのか、怒っているのか——全部が混じって、名前がつけられない。
「凛」
おばあちゃんの声が、響いた。
「お前のお父さんとお母さんは、もういないんだよ」
分かってる。
分かってるけど——
「でも、お前は生きてる。これからも、生きていかなきゃいけない」
おばあちゃんの手が、私の手を握った。
しわだらけの、温かい手。骨ばっていて、でも力強い。
「あの子たちが残したのは、この町じゃない。お前だよ」
涙が、目の奥で熱くなった。でも、流れなかった。
「凛。迅ちゃんを信じなさい」
私は、おばあちゃんの顔を見上げた。
夕日に照らされた、しわだらけの顔。八十年分の時間が刻まれた顔。でも、その目だけは——若い頃と変わらないんじゃないかって、思う。
「あの子は、お前を守ろうとしてる。それだけは、分かるだろう?」
——分かる。
分かるから、怖い。嬉しいのに、怖い。
迅くんが何かを隠している。何か、私に言えないことがある。
それが何なのか、私には——
スマートフォンが、鳴った。
画面を見る。迅くんからのメッセージ。
『明日、そっちに行く。話がある』
指先が、冷たくなった。
心臓が、跳ねた——違う。跳ねたんじゃない。一瞬、止まった気がした。そして、ゆっくりと動き出した。ドクン、ドクン、と。いつもより重たく。
話がある。
その四文字が、胸の中で反響していた。
嬉しい。会える。でも、怖い。何を言われるんだろう。何かが変わってしまう気がする。
私は、海を見た。
夕日が沈んでいく。水平線が、赤く燃えている。
何かが、近づいてきている。
足元の畳が、かすかに冷たくなった気がした。夕暮れの風が、首筋をなでていった。
私には、それが——何か大きなものの、始まりだと分かった。
【第9章 終】




