第8章 動き始めた歯車
第8章 動き始めた歯車
【神谷迅視点】
その日の午後三時、俺は再び東京にいた。
官邸の会議室。三日前と同じ場所。だが、空気が違っていた。
長いテーブルの周りに集まった顔ぶれは、前回より多い。内閣府の危機管理担当者、気象庁の幹部、防衛省の連絡官。そして——閣僚が二人。
エアコンの音が、やけに大きく聞こえた。誰も咳払いすらしない。窓の外から差し込む午後の光が、テーブルの上に四角い影を落としている。
緊急招集だった。
俺が官邸に電話をかけてから、五時間後にはこの場が設定されていた。東堂補佐官の手配だと、後で聞いた。
「では、杉浦主任研究員。報告をお願いします」
議長役の男が促す。
杉浦は立ち上がった。
スクリーンに、今朝俺たちが見た映像が映し出される。白く濁った海。噴き上がる水柱。
誰も、声を発する者がいなかった。
「本日〇八三五、御前崎沖の観測ポイントにおいて、大規模な海底噴出現象を確認しました」
杉浦の声は、落ち着いていた。三日前より、はるかに。
「気泡噴出範囲は直径一・五キロメートル以上。五日前の観測時の五倍以上に拡大しています。また、観測中に海底から水柱が噴き上がる現象を複数回確認しました」
映像が切り替わる。水柱が噴き上がる瞬間。五十メートル以上の高さ。
閣僚の一人が、椅子の背もたれを強く掴んだ。
「この現象は、海底の地殻が大規模に変動していることを示唆しています。現時点での地震発生確率は——」
杉浦が、一瞬だけ言葉を切った。
「六〇パーセント以上と推定されます。一ヶ月以内に、マグニチュード七以上の地震が発生する確率です」
六〇パーセント。
三日前は三〇パーセントだった。たった三日で、倍になった。
会議室がざわついた。
「六〇パーセント……」
「一ヶ月以内に……」
声が重なる。
俺は、東堂葵を見た。
彼女は、表情を変えずにスクリーンを見つめていた。だが、その右手が——膝の上で、静かに拳を握っていた。白くなるほど、強く。
「杉浦主任」
閣僚の一人が、声を上げた。
「前回より数字は上がった。しかし、まだ四〇パーセントは起きない確率だ」
三日前と、似たような言い方だった。
だが、杉浦の答えは違った。
「はい。四〇パーセントの確率で、何も起きないかもしれません」
杉浦は、閣僚の目を真っ直ぐに見た。
「ですが、今朝私が見たものは、『何も起きない』可能性を示唆するものではありませんでした」
沈黙が、会議室に落ちた。
「私は科学者です。数字でしか語れません。でも、今朝の海を見て——初めて、数字以外のものを感じました」
杉浦の声が、わずかに震えた。
「怖かったんです。あの海が、怖かった」
誰も、何も言わなかった。
科学者が「怖い」と言う。その重みを、この場にいる全員が理解していた。
◆
「神谷三佐」
議長が、俺の名を呼んだ。
「現場の状況について、補足をお願いできますか」
俺は立ち上がった。
視線が集まる。官僚たち、閣僚たち、そして——東堂葵。その視線の重さが、肩にのしかかるようだった。
「俺は、十年以上ヘリパイロットをやっています。災害現場も、海上救助も、数え切れないほど経験してきました」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに気づいた。
「でも、今朝見た光景は、これまでの何とも違いました」
あの白い海を思い出す。沸騰するように泡立つ海面。噴き上がる水柱。機体を揺らした振動。硫黄の混じった異質な匂い。
「海が、生きているように見えました。何かが下から押し上げてきている。そう感じました」
閣僚の一人が、眉をひそめた。
「感覚的な話ですね」
「はい。でも、現場の感覚は、時にデータより正確です」
俺は、その閣僚の目を見た。
「三日前、俺はこの場で『何人死んだら動くんだ』と言いました。感情的だったと思います。でも、今は違う言い方をします」
会議室が、俺の次の言葉を待っていた。
「今なら、まだ間に合うかもしれない。でも、三日後には分からない。一週間後には、もっと分からない」
俺は、東堂を見た。
「動くなら、今です」
◆
会議は、その後二時間続いた。
退避計画の詳細。対象地域。優先順位。輸送手段。受け入れ先。
議論は紛糾した。
だが、方向性は決まっていた。
「事前退避の準備を開始します」
東堂葵が、立ち上がって言った。
張り詰めた空気の中で、その声だけが響いた。
「対象地域は、駿河湾沿岸部および伊豆半島東部。約八十万人が対象となります」
八十万人。
その数字の重さが、会議室に沈んでいった。
「避難指示の発令は、地震発生確率が七〇パーセントを超えた段階、または、顕著な前兆現象が観測された段階とします。ただし、その前に——」
東堂は、閣僚たちを見回した。
「自主避難の呼びかけと、避難経路の確保、受け入れ施設の準備を、本日より開始します」
閣僚の一人が、口を開きかけた。
東堂は、それを遮った。
「経済的影響、社会的混乱のリスクは承知しています。空振りになる可能性も、四〇パーセントあります」
彼女の声は、平坦だった。だが、その平坦さの中に、鋼のような意志があった。
「でも、空振りなら、それでいい。『やっておいてよかった』と笑えばいい。本当に起きた時に『やっておけばよかった』と泣くよりは、はるかにマシです」
誰も、反論しなかった。
東堂は、小さく頭を下げた。
「以上です。詳細は、各担当部署と調整の上、本日中に計画案をまとめます」
会議は、そこで終わった。
◆
会議室を出ると、廊下で杉浦が待っていた。
「神谷三佐」
「ああ」
「……動きましたね」
杉浦の声には、何かが混じっていた。ほっとしたような、でもまだどこか緊張が解けていないような——言葉にしづらい響き。
「動いた。でも、間に合うかは分からない」
「はい」
杉浦は、窓の外を見た。
夕日が、東京の街を染めている。三日前と同じ光景。でも、何かが変わっていた。
「退避対象地域に、神谷三佐の地元は入っていますか」
俺は、足を止めた。
駿河湾沿岸部および伊豆半島東部。約八十万人。
あの港町は——
「……入っている」
「そうですか」
杉浦は、それ以上何も言わなかった。
俺は、携帯電話を取り出した。
凛の番号を呼び出す。
コール音が、三回鳴った。
『——もしもし? 迅くんですか?』
凛の声が、聞こえた。いつもと変わらない、明るい声。
「凛。今、大丈夫か」
『うん、大丈夫ですよっ。どうしたんですか、急に』
どう言えばいい。
お前の住んでいる町が、退避対象地域に入った。自主避難の呼びかけが始まる。逃げろ。今すぐ——
言葉が、喉の奥でつかえた。出てこない。何を言えばいい。何から言えばいい。
「……いや、何でもない。また連絡する」
『えっ、ちょっと——』
俺は、電話を切った。
携帯電話を握ったまま、動けなかった。
指先が、冷たい。六月なのに、まるで冬みたいに。
——何も言えなかった。
政治が動いた。退避計画が始まった。でも、凛はあの町を離れないと言っていた。
『私、逃げないですよ。何があっても』
あの言葉が、頭の中で響いていた。
なぜ言えなかった。言わなければならないことは分かっていた。でも、凛の声を聞いた瞬間、全部が詰まった。あの明るい声を——壊したくなかった。壊さなければならないのに。
「神谷三佐」
背後から、声がかかった。
振り向くと、東堂葵が立っていた。
「少し、話があります」
◆
東堂に連れられて、小さな応接室に入った。
二人きりだった。
「さっきの会議、ありがとうございました」
東堂が、頭を下げた。
俺は、少し驚いた。この女が、俺に礼を言うとは思わなかった。
「……俺は、見たことを話しただけだ」
「それが、大きかったんです」
東堂は、ソファに座った。俺も、向かいに座る。革張りのソファが、体重を受けて軋んだ。
「科学者が数字を並べても、政治家は動きません。でも、現場の人間が『怖い』と言えば、空気が変わる」
「杉浦も、そう言っていた」
「ええ。彼女が『怖かった』と言った瞬間、会議の流れが変わりました。あなたが『動くなら今です』と言った時も」
東堂は、口元を少しだけ緩めた。
硬い表情が崩れたのは一瞬だった。すぐに元に戻る。でも、その一瞬を、俺は見た。
「私は、数字と根拠でしか動けない。でも、あなたたちは違う。現場の感覚を、言葉にできる」
「買いかぶりだ」
「そうでしょうか」
東堂は、視線を落とした。
「神谷三佐。退避計画が始まります。これから、あなたの仕事は増えます」
「分かっている」
「輸送ヘリの手配、避難経路の確保、要救助者の搬送……現場の判断が、命を分けることになる」
「ああ」
東堂が、俺を見た。
「お願いがあります」
「何だ」
「私を、信じてください」
俺は、黙って東堂を見つめた。
窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を照らしていた。その目には——何か、押し殺しているものがあった。
「私は、あなたたちを裏切りません。政治的な判断で、必要な退避を遅らせることはしない。約束します」
その目には、嘘がなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「……分かった」
俺は、頷いた。
「信じる」
東堂は、小さく息をついた。
肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。それだけで、この女がどれだけの重圧を背負っているのか——想像がついた。
「ありがとうございます」
彼女は立ち上がり、ドアに向かった。
その背中を見ながら、俺は考えていた。
この女は、何を背負っているのだろう。
最小の死者で済む判断。嫌われ役を引き受ける覚悟。そして今、退避計画の責任者として、八十万人の命を預かる重さ。
俺には、想像もつかない。
俺にできるのは、目の前の一人を救うことだけだ。
——凛。
携帯電話を、まだ握っていた。さっき切ったまま、ずっと。
あいつを、どうやって説得する。
言わなければならない。でも、言えなかった。あの明るい声を聞いて、言葉が全部消えた。
答えは、まだ見つからなかった。
【第8章 終】




