第7章 白い海
第7章 白い海
【神谷迅視点】
翌朝、〇七三〇。
浜松基地の格納庫前に、杉浦沙耶が立っていた。
昨日と同じオレンジ色のフライトスーツ。顔色が、昨日より悪い。目の下の隈が、一晩でさらに濃くなっていた。
「おはようございます、神谷三佐」
「……ああ」
俺は短く答え、機体の方へ歩き出した。
UH-60J。いつもの機体だ。整備班が夜通しで点検を終わらせてくれている。滑走路脇のアスファルトが、朝日を受けて微かに熱を帯び始めていた。
「昨日のメッセージ、ありがとうございました」
背後から杉浦の声が追いかけてくる。
「礼を言われることじゃない」
「いえ。会議に出ると言ってくださったこと。……心強かったです」
俺は振り向かなかった。
心強かった、という言葉の意味を、今は考えたくなかった。礼を言われるような立派なことを、俺はしていない。見に行くだけだ。見て、報告するだけだ。
「今日の観測ポイントは」
「御前崎沖。前回と同じ場所です。ただ——」
杉浦の声が、少し硬くなった。
「範囲が広がっています。昨日の時点で、直径六百五十メートル以上」
「六百五十」
「はい。前回の二倍以上です」
俺は、空を見上げた。
六月の朝。雲一つない青空。絶好の飛行日和だ。
だが、その下の海で、今この瞬間も地殻が動いている。
俺たちは、これから見に行く。見ることしかできないと分かっていて——それでも、見なければ始まらない。
胸の奥で、鈍い痛みと焦りが絡み合っていた。止められない。でも、目を逸らすわけにもいかない。どちらに転んでも、この感覚は消えないのだろう。
◆
〇八〇〇、離陸。
浜松基地を後にし、駿河湾上空へ向かう。
コックピットには俺と副操縦士の田村。後部キャビンには杉浦と、前回と同じ技術者が乗っている。
エンジンの低い唸りが、操縦席のシートを通じて背骨に伝わってくる。この振動は、いつもと同じだ。この機体で、何度も飛んだ。
だが今日は、その先に待っているものが違う。
「神谷三佐」
ヘッドセット越しに、杉浦の声が届いた。
「何だ」
「前回の観測から、五日経っています。その間に、状況は大きく変わっている可能性があります」
「どう変わっている」
「分かりません。だから、見に行くんです」
前回と同じ言葉だった。
——科学って、そういうものです。分からないから観測する。
あの時の杉浦の声を、俺は覚えていた。
「杉浦」
「はい」
「異常を感じたら、すぐに言え。俺は判断する。お前はデータを見ろ」
「……分かりました」
杉浦の声に、わずかな息を吐く音が混じった。緊張を逃がそうとしているのか。それとも、少しだけ安堵したのか。
俺は計器に目を戻した。
高度一五〇〇フィート。速度一二〇ノット。風向北西、風速八ノット。
条件は良好だ。
だが、胸の底で、不安と好奇心と使命感が絡まり合っていた。見たくない。でも見なければならない。見たところで止められない。でも——見ないよりはマシだ。そう言い聞かせる。
8年前のあの日も、こうやって空を飛んでいた。あの時は間に合わなかった。今度は——
◆
観測ポイントに到着したのは、〇八三五。
眼下に、駿河湾が広がっている。
——違う。
俺は、最初にそう感じた。
前回来た時と、海の色が違う。
青ではない。白い。
「……なんだ、あれは」
田村が、呻くように言った。
俺も、同じことを思っていた。
眼下の海が、白く濁っている。前回見た気泡噴出の範囲が、比較にならないほど広がっていた。潮の匂いが、空調を通してかすかに機内に入り込んでくる。いつもの磯の香りとは違う、鉄と硫黄が混じったような——異質な臭気。
「杉浦、見えるか」
「見え——はい、見えています」
杉浦の声が、一度詰まってから絞り出された。
「神谷三佐、高度を下げられますか」
「どこまで」
「五〇〇フィートまで」
俺は、一瞬だけ迷った。
あの白い海の上を、低空で飛ぶ。どんな現象が起きているか分からない。ガスが噴出しているかもしれない。乱気流が発生するかもしれない。
だが——
「了解。降下する」
操縦桿を押し込む。機体が緩やかに高度を落としていく。
一〇〇〇フィート。八〇〇フィート。六〇〇フィート。
白い海が、近づいてくる。
匂いが濃くなる。硫化水素か。危険域ではない。まだ、大丈夫だ。
五〇〇フィートで水平飛行に移行した瞬間、俺は目を見開いた。
海面が、沸騰していた。
無数の気泡が、海底から噴き出している。白い泡が、海面を覆い尽くしている。低周波の振動が、機体の外殻を通じて伝わってくる——海鳴りだ。海そのものが、唸っている。
「杉浦。これ、どのくらいの広さだ」
「……計測、計測中です」
杉浦の声が、早口になっていた。
「直径……一・二キロメートル以上。いえ、まだ広がって——一・五キロ……いや、それ以上」
一・五キロメートル。
前回の二倍以上。昨日のデータのさらに二倍以上。
たった一日で、これだけ広がっている。
「神谷三佐」
技術者の声が、後部キャビンから届いた。
「海底の水圧センサーに異常値が出ています。急激に変動して……これは——」
その瞬間だった。
機体が、大きく揺れた。
「何だ!」
俺は反射的に操縦桿を握り直した。
だが、乱気流ではない。風は安定している。
計器を見る。異常なし。では、揺れの原因は——
「神谷三佐、上昇してください!」
杉浦が叫んだ。声が裏返っていた。
「今すぐ!」
俺は、理由を聞かなかった。
操縦桿を引く。エンジン出力を上げる。機体が急上昇を始めた。
五〇〇フィート。六〇〇フィート。七〇〇フィート。
八〇〇フィートを超えた瞬間——眼下の海面が、裂けた。
そうとしか表現できなかった。
白い海面から、巨大な水柱が噴き上がった。高さは五〇メートル以上。轟音が、ローター音を貫いて耳に届く。海底から——海底そのものが、吐き出している。
一瞬、思考が止まった。
これは——なんだ。
見たことがない。
データにも、訓練にも、経験にも——こんな光景は、どこにもなかった。
「……何だ、今のは」
田村が、震える声で言った。
俺も、答える言葉を持っていなかった。
杉浦も、黙っていた。
ヘッドセット越しに、彼女の荒い呼吸だけが聞こえていた。早い。浅い。過呼吸の一歩手前だ。
「杉浦」
俺は、声を押し殺して呼んだ。
「——はい」
かすれた返事。
「深呼吸しろ。ゆっくり吐け」
数秒の沈黙。そして、長い息を吐く音が聞こえた。
俺は、窓の外に目を戻した。
◆
俺たちは、高度一五〇〇フィートまで上昇し、そこから観測を続けた。
水柱は、その後も断続的に噴き上がっていた。高さは徐々に低くなっていったが、完全には止まらなかった。
「杉浦。説明してくれ」
俺は、声を抑えて言った。
「あれは何だ」
「……海底の地殻が、大きく動いています」
杉浦の声は、まだ震えていた。だが、言葉を紡ごうとしていた。科学者として、自分の目で見たものを——理解しようとしていた。
「おそらく、プレート境界付近で……急激な、何らかの——」
「何らかの、何だ」
「分かりません」
杉浦が、正直に言った。声が、少しだけ落ち着いていた。認めることで、逆に冷静さを取り戻したのかもしれない。
「こんなこと、見たことがない。データにも、記録にも、ない。私が知る限り——先行研究にも、ない」
見たことがない。
この言葉を、俺は杉浦の口から聞きたくなかった。
科学者が「見たことがない」と言う時、それは——予測の外にいるということだ。準備も、対策も、追いついていないということだ。
喉の奥が、締め付けられるように痛んだ。
8年前、あの津波も——誰も予測できなかった。専門家たちは「想定外」と言った。その「想定外」で、俺の家族は死んだ。
また、同じことが起きようとしている。
俺には——止められない。
「神谷三佐」
杉浦の声が、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「帰投してください。このデータを、すぐに本部に送らないと」
「……ああ」
俺は、機首を北に向けた。
背後で、杉浦が無線機を掴み、必死にデータを伝えようとしているのが聞こえた。声は早口で、専門用語が矢継ぎ早に飛び出している。だが、その声には——恐怖だけじゃない。使命感がある。
俺は、窓の外を見た。
白い海が、まだそこにあった。
あの下で、大地が動いている。
俺たちには、止められない。
見ることしかできない。
その無力さが、胸の奥で重く沈んでいた。悔しいとか、怖いとか、そういう単純な言葉では言い表せない。ただ——何かをしなければならないのに、何もできない。そのもどかしさが、体の内側を灼いていた。
◆
浜松基地に着陸したのは、〇九四五。
杉浦は、機体を降りるなり走り出した。フライトスーツのままだった。
俺は、コックピットに座ったまま、しばらく動けなかった。
手が——まだ震えていた。操縦桿を握っている間は気づかなかった。
「三佐」
田村が、声をかけてきた。
「……ああ」
「あれ、何だったんですか」
「分からない」
俺は、正直に答えた。
「分からないが……良くないことだけは、確かだ」
田村は、黙って頷いた。彼の顔も、青白かった。
俺は、ヘルメットを外し、機体を降りた。
格納庫の向こうで、杉浦が電話をしているのが見えた。激しく身振りを交えながら、何かを訴えている。声は聞こえないが、必死さは伝わってくる。
その背中を見ながら、俺は考えていた。
あの白い海。噴き上がる水柱。海底からの轟音。
あれが、何を意味しているのか。
俺には、分からない。
だが、一つだけ分かることがある。
——時間が、ない。
三日後の会議を待っている場合じゃない。
俺は、杉浦の方へ歩き出した。
「杉浦」
彼女が振り向いた。
目が赤かった。泣いていたのか、それとも極度の緊張で血管が浮いているのか——どちらでもいい。今は、そんなことを気にしている場合じゃない。
「会議を、前倒しできないか」
「……やっています。今、東堂補佐官に連絡を」
「俺からも言う。現場を見た人間として」
杉浦は、俺を見つめた。
その目に、灯ったものがあった。希望、というには弱すぎる。でも、絶望ではない。諦めてない。この人は、まだ諦めてない。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い」
俺は、携帯電話を取り出した。
官邸の番号を呼び出す。
コール音が鳴る間、俺は空を見上げた。
青い空。雲一つない。
だが、この国の足元で、大地が崩れ始めている。
俺には、それが見えていた。
見えているなら、動くしかない。
止められなくても。間に合わなくても。それでも——動かないよりはマシだ。
8年前、俺は間に合わなかった。
今度こそ——間に合わせる。
それが、俺にできる全てだった。
【第7章 終】




