第6章 数字の向こう側
第6章 数字の向こう側
【杉浦沙耶視点】
午後四時二十三分。
モニターの数値が、目に刺さっていた。
内閣府・地殻変動観測チーム本部。地下二階の薄暗いフロアには、十数台のモニターが青白い光を放っている。蛍光灯の低いうなりが、空調の音と混じって耳の奥に沈んでいた。空気が乾いている。ずっとこの地下にいると、外の天気すら分からなくなる。
——また、上がっている。
気泡噴出範囲。昨日は直径三百二十メートル。今朝の観測では、六百五十メートル。
二倍以上。
たった一日で。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。吐き気に似た感覚。違う。これは吐き気じゃない。——焦りだ。
「杉浦主任」
背後から声をかけられた。振り向くと、チームの後輩——山崎が立っていた。二十五歳。私より三つ下。眼鏡の奥の目が、落ち着きなく揺れている。
「シミュレーション、回し終わりました」
「結果は」
「……四五パーセントです。一ヶ月以内にM7以上が発生する確率」
四五パーセント。
三日前は三〇パーセントだった。二日で十五ポイント上昇。
このペースが続けば、一週間後には——
計算が、勝手に頭の中で回る。止められない。止めたくない。いや、違う。止めたくないんじゃなくて、止めたら考えなきゃいけないことがあるから——
「山崎くん。この結果、すぐに上に報告して」
「え、でも、次の会議は三日後で——」
「三日後じゃ遅いかもしれない」
立ち上がっていた。
気づいたら、もう立っていた。椅子が後ろに滑り、ガタンと音を立てる。隣のデスクの職員が驚いた顔でこちらを見た。その視線が、肌にちくちくと刺さる。
「私が行く。報告書、十分で仕上げて」
「十分って——」
「できるでしょ。あなた、そういうの得意じゃない」
自分の声が、少し尖っていた。分かっている。山崎は悪くない。でも、今はそれを気にしている余裕がなかった。
山崎は何か言いかけて、口を閉じた。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
その声が、どこか遠くに聞こえた。
◆
十五分後、私は三階の会議室の前に立っていた。
手には、山崎が作った報告書。A4用紙五枚。グラフと数値の羅列。
紙を持つ指先が、かすかに冷たい。緊張しているのか、それとも地下にいすぎて体温が下がっているのか。どちらでもいい。関係ない。
——これで、伝わるだろうか。
分からない。
三日前の会議を思い出す。私が「三〇パーセント」と報告した時、東堂補佐官は「七〇パーセントの確率で起きない」と言った。
あの時、神谷三佐が声を上げてくれた。
——何人死んだら動くんだ。
感情的な言葉だった。科学者としては、ああいう言い方はできない。論理的じゃない。根拠がない。そう分かっていた。
でも、私は——
嬉しかった、のだと思う。少しだけ。ほんの少しだけ。
誰かが、数字の向こう側を見てくれている。そう思えたから。
……何を考えてるんだ、私は。今はそんなことを考えている場合じゃない。
「杉浦主任」
廊下の奥から、声がかかった。
振り向くと、東堂葵が歩いてくるところだった。
ショートボブの黒髪。薄いメイク。相変わらず、隙のないスーツ姿。ヒールの音が、廊下に硬く響いていた。
「アポイントなしで来るのは感心しませんね」
「すみません。でも、緊急なんです」
「緊急?」
東堂は、私の手元の報告書に視線を落とした。
「また数字が変わったんですか」
「はい。四五パーセントです」
「……三日で十五ポイント上昇」
東堂の目が、一瞬だけ細くなった。
その反応を見て、胸の奥で何かが揺れた。期待なのか、焦りなのか。名前がつかない。
——この人も、気づいているのだろうか。事態の深刻さを。
「三日後の会議まで待てますか」
「それを判断するのは、私ではありません」
東堂の声は、平坦だった。
「政策判断は、閣僚と官房長官が行います。私はその材料を整える役目です」
「でも——」
「杉浦主任」
東堂が、私の言葉を遮った。
「あなたの気持ちは分かります。でも、ここで私に詰め寄っても、何も変わりません」
喉の奥に、何かがつかえた。
分かっている。
分かっているけど——分かっていても、どうにもならないことがある。それが一番、苦しい。
「三日後の会議で、最新のデータを提示してください。私も、できる限りのことはします」
「できる限り、って何ですか」
私の声が、少し尖った。自分でも分かった。これは八つ当たりだ。東堂補佐官に向けるべき言葉じゃない。それでも、止められなかった。
東堂は、一瞬だけ視線を落とした。
その仕草に、初めて人間らしいものを見た気がした。
そして、静かに言った。
「……退避計画の前倒しを、検討させます」
「前倒し?」
「現状の計画では、地震発生後に避難指示を出すことになっています。でも、それでは間に合わない可能性がある」
東堂は、廊下の窓に視線を向けた。
夕日が、東京の街を染めている。オレンジ色の光が、窓ガラスを通って彼女の横顔を照らしていた。
「事前退避の準備だけでも、始めておくべきかもしれません」
そこで、東堂は私を見た。
その目には、三日前の会議室では見せなかったものがあった。
「私も、そう考えています。個人的には」
——個人的には。
その言葉に、息が止まった。
肺の中の空気が、固まったみたいに動かなくなる。
この人は、公式の立場と、自分の考えを分けている。そして今、私に自分の考えを見せた。
信じていいのか、分からない。でも——
「ただし」
東堂の声が、再び官僚のそれに戻った。
「それを実現するには、もっと強い根拠が必要です。四五パーセントでは、まだ足りない」
「何パーセントなら足りるんですか」
「……分かりません」
東堂は、首を横に振った。
「でも、あなたのデータが積み上がれば、いつか閾値を超える。その時に、すぐ動けるように準備しておきます」
私は、黙って東堂を見ていた。
この人は、敵じゃない。
三日前の会議では、そう思えなかった。冷たくて、官僚的で、数字しか見ていない人だと思った。
でも、今は——少しだけ、理解できる。
彼女も、同じ方向を向いている。ただ、立っている場所が違う。背負っているものが違う。それだけだ。
「……分かりました」
私は、報告書を差し出した。
「これ、目を通しておいてください。三日後の会議の前に」
東堂は、報告書を受け取った。
その手が、ほんの一瞬だけ震えたように見えた。気のせいかもしれない。
「必ず読みます」
「お願いします」
私は、頭を下げた。
東堂は小さく頷いて、廊下の奥へ歩いていった。
ヒールの音が遠ざかっていく。その背中は真っ直ぐで、一分の隙もなかった。
◆
本部に戻ったのは、午後六時過ぎだった。
山崎は、まだモニターの前にいた。画面の青白い光が、彼の顔を照らしている。
「杉浦主任、どうでした」
「三日後まで待て、って言われた」
「そうですか……」
山崎は、肩を落とした。
私も、同じ気持ちだった。疲労が、肩から腰にかけてずっしりと沈んでいる。
でも、立ち止まっている暇はない。
「山崎くん。明日の朝、御前崎沖の観測に行く」
「え?」
「新しいデータが必要なの。三日後の会議で、誰にも否定できないような」
山崎は、目を丸くした。眼鏡がずれて、慌てて直す。
「でも、今の状況で現地に行くのは——」
「危険、って言いたいの?」
「……はい」
「分かってる」
私は、自分のデスクに座った。
椅子の冷たさが、太ももの裏に染みる。
モニターには、さっきと同じ数値が表示されている。四五パーセント。その数字が、ちかちかと点滅しているように見えた。目の疲れだ。
「でも、行かなきゃ分からないこともある。神谷三佐が教えてくれた」
「神谷三佐?」
「この前、一緒に飛んだパイロット。現場の人」
あの時のことを思い出す。
海底から噴き出す気泡。白く泡立つ海面。潮の匂いが、ヘリの中まで入り込んできていた。
神谷三佐は、あの光景を見て、すぐに判断した。帰投する、と。
私がデータを確認している間に、彼はもう動いていた。
——現場の人間には、分かるのだ。
データではなく、経験で。数字ではなく、皮膚感覚で。
……あの人は、今どこで何をしているのだろう。
考えてから、首を振った。今は関係ない。関係ないはずだ。
さっき、彼からメッセージが来ていた。
『明日の朝、基地に戻る。三日後の会議には、必ず出席する』
必ず、と書いてあった。
あの人は、約束を守る人だ。なぜか、そう思った。根拠はない。データもない。ただ、そう感じた。
——科学者のくせに、感覚で判断するなんて。
自分を笑った。笑ったけど、嫌な気持ちじゃなかった。
「神谷三佐に、連絡しておきます」
「連絡?」
「明日の観測、同行をお願いしようと思って」
山崎は、何か言いたそうな顔をした。口が開きかけて、閉じる。その視線が、ちょっとだけ揶揄うような色を帯びた気がした。
——何よ、その目。
言いそうになって、飲み込んだ。今はそういうことを気にしている場合じゃない。
私は、携帯電話を取り出した。
メッセージを打つ。
『分かりました。新しいデータ、まとめておきます』
送信。
少し迷って、もう一通。
『神谷三佐。一つ、伝えておきたいことがあります』
返信は、すぐに来た。
『何だ』
短い。素っ気ない。でも、すぐに返してくれた。
胸の奥が、わずかに温かくなった。——いや、違う。これは仕事の連絡に対する反応であって、別にそういう意味じゃない。
『今朝の観測で、気泡噴出の範囲が昨日の二倍に広がっていました』
『現時点での確率は、四五パーセントに上方修正されています』
送信。
しばらく待った。
返信は、来なかった。
——当然だ。
この数字の意味を、彼は理解している。
言葉にできることなんて、何もない。
私だって、何も言えない。
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
やがて、画面が暗くなった。自分の顔が、うっすらと映っている。疲れた顔だ。目の下に、クマができている。
私は、モニターに視線を戻した。
四五パーセント。
この数字の向こう側に、何千万人もの人間がいる。
その重さが、今の私には——分かる気がした。いや、分かっているつもりでいるだけかもしれない。分からない。分からないけど、考えることを止めるわけにはいかない。
◆
午後十一時。
本部には、私一人だけが残っていた。
山崎は九時に帰した。明日の観測の準備があるから、と。無理やり帰した、というべきかもしれない。彼の顔色も、相当悪かった。
私は、過去のデータを眺めていた。
駿河トラフ。南海トラフ。相模トラフ。
三つのプレート境界が、この国の足元で複雑に絡み合っている。
——もし、これらが連動したら。
シミュレーションは、何度も回した。最悪のケースでは、マグニチュード九を超える。
東日本大震災を上回る規模。
死者は、数十万人に達する可能性がある。
数十万人。
数字で言えば、それだけだ。紙の上では、ただの六桁の数字。
でも、その一人一人に、人生がある。家族がある。守りたいものがある。朝起きて、ご飯を食べて、仕事に行って、誰かと話して、笑って、泣いて——そういう日常が、ある。
神谷三佐の顔が、頭に浮かんだ。
あの人は、八年前の津波で家族を失ったと聞いた。両親と、妹を。
それでも、今も飛び続けている。人を救い続けている。
自分の命を軽く見すぎている——そう思った。会議の時、東堂補佐官に詰め寄った時の彼の目。あの目は、自分が死んでもいいと思っている人間の目だった。
——そんなの、間違ってる。
思った。でも、口には出せなかった。
私に何ができるだろう。
数字を出すこと。データを積み上げること。予報の精度を上げること。
それしかできない。
でも、それが誰かの命を救うことに繋がるなら——
「……やるしかない」
声が、静かな部屋に落ちた。
自分の声なのに、どこか他人の声みたいに聞こえた。
私は、立ち上がった。
椅子が軋む音。空調の低いうなり。キーボードを叩く音はもうない。私以外、誰もいない。
モニターの電源を落とす。画面が暗くなって、自分の顔が映る。また、あの疲れた顔。
明日の朝、御前崎沖へ行く。新しいデータを取る。三日後の会議で、誰にも否定できない根拠を示す。
それが、今の私にできる全てだ。
足りないかもしれない。届かないかもしれない。間に合わないかもしれない。
でも、やらないよりはマシだ。
——不完全でも、動く。
それが、科学者としての私の答えだった。
本部を出ると、夜の東京が広がっていた。
ビルの明かり。車のヘッドライト。何も知らずに眠りにつこうとしている、無数の人々。
冷たい風が、頬を撫でた。六月なのに、夜風は涼しかった。季節が進んでいる。時間が、過ぎていく。
この街の下で、何かが動いている。
私には、それが見えていた。
見えているから、動くしかない。
立ち止まったら、考えてしまう。本当にこれでいいのか。私に何ができるのか。——そんなこと、考え始めたら止まらなくなる。
だから、歩く。
足を動かす。一歩、また一歩。
夜の街を歩きながら、私は考えていた。
明日のこと。三日後のこと。その先のこと。
そして——なぜか、神谷三佐のことも。
……べ、別に、そういう意味じゃないから。仕事上の関係者として、心配しているだけ。
誰にも聞かれていないのに、心の中で言い訳をしている自分がいた。
【第6章 終】




