第5章 海を知る者たち
第5章 海を知る者たち
【神谷迅視点】
翌朝、目を覚ましたのは六時前だった。
障子の隙間から差し込む光で、ここが自分の部屋ではないことを思い出す。凛の家の客間。布団の匂いが、どこか懐かしい。
携帯電話を確認する。
杉浦からのメッセージは、昨夜のまま画面に残っていた。
『四〇パーセントです』
その数字を見つめながら、俺は昨夜の会話を思い出していた。
——私が生きるから、迅くんも生きて。
凛の声。握られた手の温度。
約束した。生きると。
だが、四〇パーセント。
三日前は三〇パーセントだった。二日で十ポイント上がっている。このペースが続けば——
「迅くーん、起きてるー?」
廊下から凛の声がした。
「……起きてる」
「朝ごはん、できてますよっ」
◆
朝食は、焼き鮭と卵焼きと味噌汁だった。
テーブルには、トメさんも座っていた。昨夜より顔色がいい。
「迅、よく眠れたかい」
「はい。久しぶりに、ぐっすり眠れました」
「そうかい。この家の布団は、お前の父さんも気に入っていたんだよ」
トメさんは、味噌汁を啜りながら言った。
「あの人はよくここに来てね。高橋先生と三人で、夜遅くまで話し込んでいたものさ」
「父が?」
「ああ。この町のこと、海のこと。色々とね」
俺は、知らなかった。父がこの家で、何を話していたのか。
凛が、俺の顔を覗き込んだ。
「迅くん、なんかぼんやりしてない?」
「……少し、考え事をしていた」
「仕事のことですか?」
「まあ、そんなところだ」
凛は「そっか」と言って、箸を動かした。追及しない。昔からそうだった。聞いてほしくないことは、聞かない。
「今日、どうするんですか?」
「少し、町を歩こうと思う。高橋先生のところにも顔を出したい」
「あ、じゃあ私も行きますっ。今日、診療所の手伝いの日だから」
凛は目を輝かせた。
俺は、その顔を見ながら考えていた。
この子に、何を伝えるべきだろうか。
四〇パーセント。一ヶ月以内。マグニチュード七以上。
数字を並べても、きっと伝わらない。凛は「それでもここにいる」と言うだろう。昨夜、そう言ったのだから。
では、何を伝えれば——
「迅くん」
「ん?」
「ご飯、冷めちゃいますよっ」
凛が、俺の茶碗を指さしていた。
◆
高橋診療所は、港から歩いて五分ほどの場所にあった。
白い壁に青い屋根。古いが、手入れは行き届いている。玄関脇のプランターには、季節の花が咲いていた。潮風に混じって、かすかに消毒液の匂いが漂ってくる。
「おじゃましまーす」
凛が先に入っていく。俺はその後に続いた。
待合室には、数人の老人が座っていた。顔見知りらしく、凛に「おはよう」と声をかけている。木製のベンチが軋む音。どこかでラジオが小さく天気予報を流している。
その中の一人が、隣の老人に話しかけているのが聞こえた。
「——最近、魚がおらんのよ。いつもの場所に」
「ああ、うちの婿も言っとった。海の様子がおかしいって」
俺は、足を止めた。
老人たちは俺に気づき、視線を向けた。だが、すぐに逸らされた。
——よそ者、というわけではない。ただ、この町を出ていった人間。
その視線の意味を、俺は知っていた。
「迅か」
奥から、低い声がした。
白衣を着た男が、診察室から顔を出していた。六十代半ば。白髪交じりの短髪。日焼けした顔に、深い皺が刻まれている。
高橋誠一郎。この町で四十年以上、医者を続けている男。俺の父の、数少ない友人だった一人。
「お久しぶりです」
「ああ。元気そうだな」
高橋先生は俺を見て、小さく頷いた。
「少し話がある。凛ちゃん、悪いが受付を頼めるか」
「はーい」
凛は慣れた様子で受付に向かった。俺は高橋先生に促されるまま、診察室に入った。
◆
診察室は、薬品と消毒液の匂いがした。古い木の棚に並ぶ医学書。窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。
高橋先生は椅子に座り、俺にも座るよう促した。
「お前が来ると聞いていた」
「ご連絡もせず、すみません」
「いい。むしろ、来てくれて助かった」
高橋先生の目が、鋭くなった。
「お前、何か知っているな」
断定だった。質問ではない。
俺は、答えなかった。
高橋先生は、俺の沈黙を見て、窓の外に視線を移した。
窓からは、港と海が見える。今日も穏やかな青だった。
「海がおかしい。漁師たちが言っている」
胸の奥が、締めつけられるように軋んだ。
やはり、ここでも。
「ここ二週間ほど、魚の動きが変だそうだ。いつもの場所にいない。深いところに潜っているのか、それとも別の場所に移動したのか」
「それは——」
「海水温の変化だと言う者もいる。だが、漁師たちはそうは思っていない」
高橋先生は、俺を真っ直ぐに見た。
「『海が怒っている』。そう言った者がいた」
海が、怒っている。
非科学的な表現だ。杉浦が聞いたら、眉をひそめるかもしれない。
だが——俺は、その言葉の意味を理解した。
現場の人間には、分かるのだ。
データではなく、経験で。数字ではなく、皮膚感覚で。
何かが、おかしい。
「先生」
「ん」
「……俺が知っていることを、話してもいいですか」
高橋先生は、静かに頷いた。
◆
俺は、話した。
駿河トラフの異変。海底からの気泡噴出。加速する地殻変動。三〇パーセントから四〇パーセントへ上昇した確率。
そして、三日後の会議。
高橋先生は、黙って聞いていた。
話し終えた後、長い沈黙があった。窓の外で、カモメが一声鳴いた。
「……そうか」
高橋先生は、深くため息をついた。
「やはり、そういうことか」
「先生は、気づいていたんですか」
「気づいていた、というほどではない。ただ、嫌な予感がしていた」
高橋先生は、机の上の写真立てを見た。
若い頃の写真だろう。白衣を着た高橋先生と、隣に立つ男。——俺の父だった。
父の顔を、久しぶりに見た気がした。記憶の中の父と、写真の中の父。重なるようで、少しずれている。
「お前の父親とは、よく話したものだ。この町のこと。海のこと。地震のこと」
「父と?」
「ああ。あいつは、この町が好きだった。だが同時に、この町が危険だということも分かっていた」
朝、トメさんが言っていたことと繋がった。
父は、ここで何を話していたのか。
知りたい。でも、もう聞くことはできない。その事実が、喉の奥でつかえた。
「八年前の津波の後、俺はずっと考えていた。なぜ、もっと早く逃げられなかったのか。なぜ、あんなに多くの人が死んだのか」
高橋先生の声が、少し震えた。
「答えは、分からない。分からないが——ひとつだけ、確かなことがある」
「何ですか」
「次に何かが起きた時、俺たちは同じ過ちを繰り返してはいけない」
高橋先生は、立ち上がった。
「迅。お前が三日後の会議に出るなら、伝えてくれ」
「何を」
「この町の漁師たちは、海の異変に気づいている。科学者だけじゃない。海と生きてきた人間の勘が、同じ方向を指している」
高橋先生は、窓の外を見た。
青い海。穏やかな波。
だが、その下で何かが動いている。
俺たちには、それが見えていた。
◆
診療所を出たのは、十一時過ぎだった。
凛が、受付から顔を出した。
「終わりました?」
「ああ」
「高橋先生と、何話してたんですか?」
「……昔の話だ」
嘘ではない。父の話も、確かにした。
凛は小首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、お昼どうします? おばあちゃんのところに戻りますか?」
「少し、海を見ていきたい」
「海?」
「ああ。——付き合ってくれるか」
凛は、少し驚いた顔をした。
そして、頬をわずかに緩めた。
「うん。行きましょうっ」
◆
防波堤に座って、海を眺めた。
六月の陽射しは強かったが、海風が心地よかった。コンクリートの熱が、尻から伝わってくる。
凛は俺の隣に座り、足をぶらぶらさせていた。
「きれいですね」
「ああ」
「私、この海が好きなんです」
凛は、水平線を見つめながら目を細くした。
「小さい頃から、ずっとここにいた。お父さんと一緒に釣りしたり、お母さんと貝殻拾ったり」
「……覚えてる」
「迅くんも一緒だったですよね、たまに」
「ああ」
昔のことだ。俺がまだ高校生で、凛がまだ小学生だった頃。
よく一緒に遊んだ。この海で。この町で。
あの頃は、何も考えていなかった。この海が、この町が、永遠に続くと思っていた。
凛が、不意に口を開いた。
「ねえ、迅くん。さっき待合室で、おじいちゃんたちが話してたの、聞きました?」
俺は、凛を見た。
「魚がいないって。海がおかしいって」
「……ああ」
「私も、なんとなく分かるんです」
凛は、海を見つめたまま言った。
「この海、昔と少し違う気がするの。匂いとか、波の音とか。うまく言えないですけど」
俺は、黙って聞いていた。
「でもね」
凛が、俺を見た。
その目は、昨夜より少しだけ大人びて見えた。
「私、逃げないですよ。何があっても」
「凛——」
「分かってます。迅くんが心配してること。でも、私はここにいる。それだけは、変わらないです」
俺は、何も言えなかった。
昨夜と同じことを言っている。だが、その声の響きが違った。
覚悟、というほど重いものではない。
ただ、この子は自分で考え、自分で決めている。
それが、分かった。
「……分かった」
俺は、海を見た。
「でも、何かあったら連絡しろ。すぐに迎えに来る」
「うん」
凛は、小さく笑った。
「迅くんも、無茶しないでくださいね」
「ああ」
それ以上の約束は、必要なかった。
昨夜、もう交わしていたから。
◆
午後二時、俺は凛の家を後にした。
トメさんに挨拶をすると、彼女は俺の手を握った。しわだらけの手。でも、力は思ったより強かった。
「迅。また来ておくれ」
「はい」
「凛のこと……頼んだよ」
その目には、昨夜と同じ光があった。
俺は、頷いた。言葉にはしなかった。
凛は、改札まで見送りに来た。
「また来てくださいね」
「ああ」
「……気をつけて」
凛は、手を振らなかった。
ただ、真っ直ぐに俺を見ていた。
子供の頃の凛ではない。どこか、大人の顔だった。
俺は、その視線を受け止めてから、改札を通った。
在来線に乗り、静岡へ。そこから新幹線で浜松へ。
車窓を流れる景色を見ながら、俺は携帯電話を取り出した。
杉浦へのメッセージを打つ。
『明日の朝、基地に戻る。三日後の会議には、必ず出席する』
送信ボタンを押す。
数分後、返信が来た。
『分かりました。新しいデータ、まとめておきます』
そして、もう一通。
『神谷三佐。一つ、伝えておきたいことがあります』
『何だ』
『今朝の観測で、気泡噴出の範囲が昨日の二倍に広がっていました』
俺は、画面を見つめた。
二倍。
昨日の時点で、直径三百メートル以上だった。それが二倍ということは——
『現時点での確率は、四五パーセントに上方修正されています』
四五パーセント。
三日前は三〇パーセントだった。
二日で十五ポイント。
このペースが続けば、一週間後には——
俺は、窓の外を見た。
東海道の田園風景が、夕日に染まっていた。
穏やかな光景。何も起きていないかのような。
だが、この国の足元で、何かが動き始めている。
俺には、それが見えていた。
見えているのに、何もできない。
伝えても、信じてもらえるか分からない。会議で数字を並べても、東堂の言う通り「七〇パーセントは起きない」と言われるかもしれない。
それでも、俺には伝える以外にできることがない。
その無力さが、喉の奥の棘のように刺さっていた。
窓ガラスに映る自分の顔は、凛に見せた顔とは違っていた。
【第5章 終】




