第40章「君と生きる」
第40章「君と生きる」
【神谷迅視点】
桜の花びらが、風に舞っていた。
薄紅色の吹雪が視界を横切り、頬を掠めて飛んでいく。
あの災害から、一年が過ぎた。
◆
静岡市の郊外、小さな霊園。
俺たちは、トメさんの墓の前に立っていた。
墓石は新しく、その表面には海野家の名前が刻まれている。
凛が隣で、静かに手を合わせていた。
「おばあちゃん、来ましたよ」
凛の声は穏やかで、悲しみというより、温かさを帯びていた。
「迅くんと一緒に、です」
◆
俺も目を閉じて、手を合わせた。
トメさんの顔を思い出す。
あの穏やかな笑顔。「凛を頼む」と言ってくれた声。
約束は、守っている。
心の中で、そう報告した。
いや、守っているというより、凛に守られている。
あの日から、俺は何度も凛に救われてきた。
一人で抱え込む俺を、彼女はいつも引き戻してくれた。
◆
目を開けると、凛が俺を見上げていた。
春の日差しを受けて、長い黒髪が輝いている。
「迅くん。何か、伝えてくれましたか?」
「ああ」
「何て?」
「……ちゃんと飯を食わせてるか、って」
凛が、ぷっと吹き出した。
「おばあちゃんらしいですっ」
その表情を見て、俺も口元が緩んだ。
一年前、この笑顔を守るために走り続けた。
今もその気持ちは変わらない。
ただ、少しだけ変わったこともある。
◆
霊園を出て、二人で坂道を下った。
満開の桜並木が続いている。
道の両側に植えられた桜の木々が、トンネルのように枝を伸ばしていた。
花びらが絶え間なく舞い落ちてくる。
「綺麗ですね」
凛が、見上げながら呟いた。
「ああ」
「去年の今頃は、まだ……」
凛の声が、少し途切れた。
去年の今頃。
まだ、傷跡が生々しかった頃だ。
瓦礫の撤去が終わっていない場所もあった。避難所で暮らす人々もいた。
そして俺は、まだ止まることを恐れていた。
◆
「変わりましたね」
凛が言った。
「何がだ」
「景色も。私たちも」
立ち止まって、俺は凛の横顔を見た。
一年前より、少しだけ大人びた顔。
でも、あの柔らかさは変わらない。
「お前は、変わってないだろ」
「そうですか?」
「ああ。相変わらず……」
言葉を探した。
何と言えばいいか、分からなかった。
「相変わらず、何ですか?」
「……お節介だ」
「それ、褒め言葉じゃないですよっ」
凛が、むくれた顔をした。
その表情が可笑しくて、思わず声が漏れた。
◆
坂を下りきったところに、小さな広場があった。
桜の木の下に、ベンチが置いてある。
そこに、見覚えのある二人の姿があった。
「あ、いたいた」
マリアが手を振った。
隣には杉浦がいる。
二人とも、春らしい明るい色の服を着ていた。
「お待たせしましたっ」
凛が駆け寄っていく。
俺も後に続いた。
◆
「墓参り、終わった?」
マリアが聞いた。
「はいっ。おばあちゃん、喜んでくれたと思いますっ」
「そう。良かったわね」
マリアの目が優しく細められた。
この一年で、マリアとも何度か会った。
最初に会った時、互いの「傷を背負った目」を見抜いた。
今でもその傷は消えていない。
だが、傷を抱えたまま前に進むことはできる。
それを、俺たちは知った。
「杉浦も、わざわざ悪いな」
「別に。休暇を取っただけです」
杉浦が素っ気なく答えた。
相変わらずの態度だったが、口元がわずかに緩んでいる。
「観測チームは、順調か」
「ええ。余震はほぼ収束しました。プレート境界の応力分布も安定域で推移してます」
「そうか」
「ただ、油断はできない。次の災害に備えて、予測モデルの精度向上を続けてるところです」
杉浦の目に、科学者としての矜持が宿っていた。
あいつは、あいつの戦いを続けている。
俺たちと同じように。
◆
四人で、桜を見ながら歩いた。
マリアと凛が前を歩いて、楽しそうに話している。
俺と杉浦は、少し後ろを並んで歩いた。
「神谷三佐」
「何だ」
「最近、どうです?」
杉浦が、前を見たまま聞いた。
「どう、とは」
「……仕事とか。生活とか」
「特に問題ない」
「そうですか」
しばらく沈黙が続いた。
桜の花びらが、俺たちの間を舞っていく。
「海野さんと一緒に住み始めたって、聞きました」
「ああ。先月から」
「……そう」
杉浦の声が、少しだけ小さくなった。
俺は、何と言えばいいか分からなかった。
杉浦が俺に対してどんな気持ちを抱いていたか、知っている。
凛から聞いた。
だが、杉浦は何も言わなかった。
言わないまま、同志として俺たちを支え続けてくれた。
◆
「杉浦」
「何です?」
「……ありがとう」
杉浦が、一瞬だけ足を止めた。
それから、何事もなかったように歩き出す。
「何よ、急に。気持ち悪いですよ」
「お前がいなければ、俺は……」
「分かってますよ。言わなくていいです」
杉浦が、俺の言葉を遮った。
「あなたが幸せならいいんです。それで十分」
その声は、穏やかだった。
以前よりも、ずっと。
「杉浦」
「何よ」
「お前も、幸せになれ」
杉浦が、少しだけ驚いた顔をした。
それから、目元が和らいだ。
「……はい」
「悪いか」
「……いいえ」
◆
広場に戻って、四人でベンチに座った。
マリアが持ってきた弁当を広げる。
「さあ、食べましょ。あたしの手作りよ」
「マリアさん、料理できたんですか?」
凛が驚いた声を上げた。
「失礼ね。ちょっと練習したのよ」
「前は壊滅的だって言ってましたよねっ」
「うるさいわね。黙って食べなさい」
凛が頬を緩めながら、弁当に手を伸ばした。
「あれっ、これ何のおかずですか?」
「卵焼きよ。見れば分かるでしょ」
「そうなんですかっ? 茶色いですけど……」
「焦げたのよ! 味は問題ないから!」
俺も一つ取って、口に運ぶ。
意外と、うまい。見た目は悪いが。
「どう?」
マリアが、期待を込めた目で聞いてきた。
「悪くない」
「あら、褒め言葉ね」
「普通だろ」
「神谷三佐に『悪くない』って言われたら、最大級の褒め言葉ですよ」
杉浦が横から口を挟んだ。
「そうか?」
「はい」
四人で、顔を見合わせた。
桜の花びらが、弁当の上にひらりと落ちてきた。
◆
午後になって、マリアと杉浦は帰っていった。
「また来月ね、凛ちゃん」
「はいっ。楽しみにしてますっ」
「神谷三佐も、無理しすぎないように。この子が心配するから」
「分かってる」
「嘘ね。分かってたら、もっと休むでしょ」
マリアが口の端を上げて、手を振った。
杉浦も軽く頷いて、マリアの後に続いた。
二人の背中を見送る。
並んで歩くその姿は、どこか姉妹のようにも見えた。
◆
凛と二人になって、再び桜並木を歩いた。
午後の陽射しが、桜の花びらを透かして降り注いでくる。
「迅くん」
「何だ」
「今日、楽しかったですっ」
「そうか」
「みんなと会えて、おばあちゃんの墓参りもできて」
凛が、俺の手を取った。
小さくて、温かい手だった。
「一年前は、こんな日が来るなんて、思ってませんでした」
「……ああ」
「迅くんは、どうですか?」
「何がだ」
「今、幸せですか?」
半年前にも、同じことを聞かれた。
あの時、俺は「分からない」と答えた。
幸せがどういうものか、よく分からなかったから。
でも、今は違う。
◆
「……ああ」
俺は、凛の顔を見て答えた。
「幸せだ」
凛の目が、大きく見開かれた。
それから、瞳が潤んで視界がぼやけたのか、何度か瞬きをした。
「泣くことか」
「だって……嬉しいんですっ」
凛が、俺の胸に顔を埋めた。
俺は、その背中に腕を回した。
小さな体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。
「前は、分からないって言ってたのにっ」
「ああ。分からなかった」
「今は、分かるんですかっ」
「分かる」
凛の髪の匂いがした。
花の香りに似た、柔らかい匂い。
「お前がいるから、分かるようになった」
「……迅くん」
「お前と一緒にいると、明日が来ることが嬉しい。帰る場所があることが、嬉しい」
言葉が、自然と口から出てきた。
以前は、こんな言葉は言えなかった。
言う必要も、言う資格もないと思っていた。
俺には、誰かを救うことしかできない。
自分のために生きることなんて、許されない。
そう思っていた。
でも、凛が変えてくれた。
◆
「俺は」
凛の頭に顎を乗せながら、続けた。
「八年間、止まることを恐れていた」
「……」
「止まったら終わりだと思っていた。誰かを救い続けなければ、自分には価値がないと」
凛は、黙って聞いていた。
「でも、お前と出会って、変わった」
「私は、何も……」
「何もしてない? そんなことはない」
俺は、凛の肩を掴んで、顔を上げさせた。
潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「お前は俺に『生きていたい』と思わせてくれた。それだけで、十分だ」
「迅くん……」
「だから、これからも一緒にいてくれ」
凛が、大きく頷いた。
「はいっ。ずっと、一緒ですっ」
◆
桜の花びらが、二人を包むように舞っていた。
一年前、俺は「必ず迎えに行く」と約束した。
凛は、それを待っていてくれた。
そして今、俺たちは一緒にいる。
帰る場所を見つけた。
守りたい人がいる。
守られている自分がいる。
それだけで、生きていく理由になる。
◆
夕暮れ時。
俺たちは、新しい家に向かって歩いていた。
仮設住宅ではない。
先月、二人で引っ越した小さなアパート。
2LDKの、決して広くはない部屋。
でも、二人で暮らすには十分だった。
「今日の晩ご飯、何にしましょうか」
凛が、俺の腕に寄り添いながら聞いた。
「何でもいい」
「また、そう言うっ」
「お前が作るものなら、何でもうまい」
「……迅くん、最近ずるいです」
「何がだ」
「そういうこと言うの、ずるいですっ」
凛が、頬を膨らませた。
その顔を見て、俺は息をついた。
こうやって、何気ない会話ができる。
一年前の俺には、想像もできなかったことだ。
◆
アパートに着いて、部屋に入った。
玄関には、二人分の靴が並んでいる。
リビングには、凛が選んだカーテンがかかっている。
キッチンには、俺が買った調理器具が並んでいる。
和室には、トメさんの骨壺が静かに佇んでいる。
「ただいま、おばあちゃん」
凛が、骨壺に向かって声をかけた。
俺も、軽く頭を下げた。
ただいま。
初めて、この言葉が自然に出てきた。
ここは、俺たちの帰る場所だ。
◆
夕食の支度を始める凛を、俺は手伝った。
野菜を切る。味噌汁の出汁を取る。
凛が卵焼きを作る。俺が煮物を温める。
二人で並んで、台所に立つ。
何気ない日常。
でも、この何気なさがかけがえのないものだと、今は分かる。
「迅くん」
「何だ」
「幸せって、こういうことなんですね」
凛が、フライパンを振りながら言った。
「特別なことじゃなくて。毎日の、小さなことの積み重ねで」
「……そうだな」
「私、おばあちゃんにずっと言われてたんです」
「何をだ」
「『幸せは、足元にあるんだよ』って」
凛の目が、少しだけ潤んだ。
「今なら、分かります」
◆
夕食を食べ終えて、洗い物をした。
凛が隣で皿を拭いている。
一年前と同じ光景。
でも、今は違う。
あの頃は、止まることが怖かった。
今は、止まっていることが心地いい。
凛と一緒に、ゆっくりと時間が流れていく。
それだけで、満たされている自分がいる。
◆
夜。
俺たちは、和室で並んで座っていた。
トメさんの骨壺の前で、二人で手を合わせた。
「おばあちゃん、今日も一日ありがとうございましたっ」
凛が目を閉じて、静かに語りかける。
「迅くんと一緒に、幸せに暮らしてますっ。ちゃんとご飯も食べさせてますからっ」
俺も目を閉じて、心の中で報告した。
約束、守ってる。
凛を、大切にしてる。
俺も、幸せだ。
トメさんが、微笑んでくれている気がした。
◆
窓を開けると、夜風が入ってきた。
春の匂いがする。
花の香り。草の匂い。
遠くで、電車の音が聞こえた。
街は、生きている。
人々は、前を向いて歩いている。
災害の傷跡は、まだ残っている。
復興は、まだ道半ばだ。
でも、確実に進んでいる。
◆
「迅くん」
凛が、俺の隣に来た。
「何だ」
「一年前のこと、覚えてますか」
「忘れるわけがない」
「あの時、迅くんが言ってくれたこと」
凛が、俺の手を取った。
「『必ず迎えに行く』って」
「ああ」
「守ってくれましたね」
俺は、凛の手を握り返した。
「当然だ」
「……でも、私も迎えに行きましたよね」
凛の口元が、ほんの少し緩んだ。
「あの時、迅くんが限界だったから」
「……ああ」
「だから、おあいこですっ」
凛の言葉に、俺は何も言えなかった。
ただ、彼女の手を握る力を強くした。
◆
「迅くん」
「何だ」
「これからも、一緒に生きていきましょうね」
凛の目が、真っ直ぐに俺を見ていた。
月明かりに照らされて、その瞳がきらきらと輝いている。
「私が迅くんを守ります。迅くんが私を守ってくれるみたいに」
「……」
「二人で、支え合っていきましょう」
俺は、言葉が出てこなかった。
代わりに、凛を抱きしめた。
「迅くん?」
「……ああ。一緒に生きよう」
凛の体温が、俺の胸に伝わってくる。
温かい。
この温もりを、ずっと守っていきたい。
そして、守られていきたい。
◆
災害は、多くのものを奪った。
凛の両親。トメさん。故郷。
俺の両親。妹。八年間の時間。
千三百人を超える命が失われた。
その数字は、一生背負っていくものだ。
でも、奪えないものもあった。
人と人との繋がり。
一緒に生きていこうという意志。
それだけは、誰にも奪えなかった。
◆
窓の外に、月が浮かんでいた。
満月に近い、丸い月。
その光が、部屋の中を優しく照らしている。
俺は、生きている。
凛と一緒に。
明日も、明後日も、その先も。
誰かを救うためじゃなく。
自分が生きたいから、生きている。
そう思えるようになった。
凛が、俺を変えてくれた。
◆
「迅くん」
「何だ」
「私ね、ずっと思ってたことがあるんです」
「何だ」
凛が、俺の腕の中で顔を上げた。
「迅くんに出会えて、本当に良かったって」
「……」
「おばあちゃんも、きっと喜んでくれてます」
「そうか」
「はいっ。絶対にっ」
凛の表情が、月明かりに照らされていた。
その顔を見て、俺は思った。
この顔を守るために生きてきた。
でも、それだけじゃない。
この人と一緒に、生きていきたい。
それが、俺の生きる理由だ。
◆
夜が更けていく。
凛はいつの間にか眠ってしまった。
俺の腕の中で、穏やかな寝息を立てている。
その顔を見つめながら、俺は思った。
一年前の俺には、こんな未来は想像できなかった。
誰かを救うことしか考えられなかった。
自分が幸せになることなんて、許されないと思っていた。
でも、今は違う。
俺は、幸せだ。
凛と一緒にいることが、幸せだ。
それを、認められるようになった。
◆
窓から見える月が、ゆっくりと移動していく。
夜は静かに流れていく。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
凛が朝ご飯を作ってくれる。
俺は任務に出かける。
夕方に帰ってきて、二人で夕食を食べる。
何気ない日常。
でも、それがかけがえのない幸せだ。
◆
俺は静かに目を閉じた。
眠りに落ちる前に、心の中で呟いた。
ありがとう。
トメさんに。凛に。杉浦に。マリアに。
田村に。東堂に。救えた人々に。救えなかった人々に。
全ての出会いに、感謝した。
そして、これからも生きていく。
君と、一緒に。
◆
春の夜風が、窓から入ってくる。
花の香りが、部屋の中に満ちていた。
災害は終わった。
でも、俺たちの日々は続いていく。
これからも、ずっと。
静かな夜に、二人の寝息だけが響いていた。
【第40章・最終章 終】




