第4章 帰る場所
第4章 帰る場所
【神谷迅視点】
官邸を出た後、俺は浜松に戻らなかった。
東海道新幹線を静岡で降り、在来線に乗り換える。窓の外を、六月の田園風景が流れていく。
三日後まで、特別な任務はない。上からは「待機」と言われている。
だから——というわけでもないが、俺は地元に向かっていた。
太平洋に面した、小さな港町。
八年前の津波で、両親と妹を失った場所。
そして、今も一人だけ、俺を待っている人間がいる場所。
◆
駅に着いたのは、夕方の五時過ぎだった。
改札を出ると、潮の匂いが鼻をついた。懐かしい匂い。子供の頃から嗅ぎ慣れた、この町の匂い。
「迅くんっ!」
声がした方を見ると、改札の向こうに一人の少女が立っていた。
やや明るい茶髪のポニーテール。白いTシャツにデニムのショートパンツ。日焼けした健康的な肌。笑うと、目尻にしわが寄る。
海野凛。十八歳。高校三年生。
俺の幼馴染であり、この町で唯一残った「家族」のような存在だ。
「……なんでここにいる」
「え、だって迅くんが来るって連絡あったんですもん」
「連絡?」
「高橋のおじさんが教えてくれたんです。『迅が帰ってくるらしい』って」
高橋のおじさん。地元の診療所の医師で、俺の父の旧友だ。どこから情報を得たのか知らないが、相変わらず耳が早い。
「迎えに来なくていいって言っただろ」
「言ってないですよっ。っていうか、連絡くれなかったじゃないですか」
凛は頬を膨らませた。子供の頃からの癖だ。
「ごめん」
「まあいいですけど。久しぶりですね、迅くん」
「……ああ」
最後に会ったのは、三ヶ月前だ。正月以来。
凛は俺の顔をじっと見つめて、小さく首を傾げた。
「なんか、疲れてます?」
「そうか?」
「うん。目の下、ちょっとクマあるっ」
杉浦や東堂のことを思い出した。あの二人に比べれば、俺のクマなど大したことはないはずだが。
「大丈夫だ。ちょっと忙しかっただけだ」
「ふーん」
凛は納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。
「じゃ、帰りましょう。晩ご飯、用意してあるんですよっ」
「用意?」
「高橋のおばさんが作ってくれたんです。迅くんが好きだった、アジの干物」
口元が緩んでいた。自分でも気づかないうちに。
「……相変わらずだな、この町は」
「当たり前ですっ。ここは変わらないですよ、何があっても」
凛は笑って、歩き出した。
俺はその背中を追いながら、胸の奥で何かが軋むのを感じていた。
◆
凛の家は、港から少し離れた高台にある。
八年前の津波で、海沿いの家々は壊滅した。俺の実家もその一つだった。凛の家は高台にあったおかげで無事だったが、彼女の両親は当時、海沿いの魚市場にいた。
凛もまた、あの日に両親を失っている。
今は祖母と二人暮らしだ。祖母は足が悪く、凛が家事のほとんどをこなしている。
「おばあちゃん、迅くん来ましたよー」
玄関を開けると、奥から「おお、迅かい」という声が聞こえた。
居間に入ると、凛の祖母——海野トメさんが座布団に座っていた。八十を超えているが、目は鋭い。
「久しぶりだね、迅。元気にしてたかい」
「はい。ご無沙汰してます」
「相変わらず堅いねえ。まあ座んな、座んな」
俺は促されるまま、座布団に座った。
凛が台所からお茶を運んでくる。その動きは手慣れていて、淀みがなかった。
「凛、学校は?」
「今日は午前で終わりなんです。テスト期間だから」
「そうか」
「迅くんは? なんでこっち来たんですか?」
俺は少し迷った。
駿河トラフのこと。海底の異変。三〇パーセントの確率。——そんなことを、この子に話すべきだろうか。
「……少し休暇をもらった。三日間だけ」
「へえ、珍しいですね。迅くん、休暇なんてほとんど取らないのに」
「たまには、な」
嘘ではない。だが、全部を話しているわけでもない。
凛は俺の顔をじっと見つめていたが、やがて「ふーん」と言って立ち上がった。
「じゃ、ご飯の準備しますねっ。おばあちゃん、迅くんの相手しててよ」
「はいはい」
凛が台所に消えると、トメさんが俺を見た。
「迅」
「はい」
「何かあったのかい」
老人の目は、鋭かった。俺の嘘を見透かしているような。
「……いえ。何も」
「そうかい」
トメさんは、それ以上は聞かなかった。
「凛のこと、頼むよ」
「え?」
「あの子は、この町から出ようとしない。あんたが迎えに来ても、きっと行かないと言うだろう。でも、いつか——」
トメさんは、窓の外を見た。
夕日に染まった海が、遠くに見える。
「いつか、あの子を連れ出してやっておくれ。この婆さんは、もう長くないからね」
「トメさん」
「いいんだよ。分かってるから」
トメさんは、穏やかに微笑んだ。
「あの子は、あんたのことが好きなんだ。昔からね」
俺は、返す言葉を見つけられなかった。
◆
夕食は、アジの干物と味噌汁と白米だった。
シンプルだが、どれも旨かった。この町の味だ。
「美味しいですか?」
「ああ」
「よかったですっ」
凛は嬉しそうに目を細めた。
食後、凛と二人で縁側に出た。
夜の海が、遠くで黒く光っている。波の音が、かすかに聞こえる。
「ねえ、迅くん」
「なんだ」
「私ね、卒業したら、この町で働こうと思ってるんです」
俺は凛を見た。
「働く?」
「うん。高橋先生のところで、事務とか手伝いとか。おばあちゃんもいるし、この町から離れるわけにはいかないから」
「……大学は」
「行かないです。行きたいところもないし、お金もないし」
凛は、夜の海を見つめていた。
「それに、ここが好きなんです。この町が。海が。みんなが」
「凛」
「分かってますよ、迅くんが言いたいこと」
凛が俺を見た。表情は穏やかだった。でも、その目には、どこか覚悟のような光があった。
「危ないんでしょう、ここ。地震とか、津波とか。いつ来るか分からないって」
「……知ってたのか」
「高橋先生が、ちょっと心配してたんです。最近、海の様子がおかしいって」
高橋先生。やはり、あの人も気づいていたのか。
「でもね、迅くん」
凛は、俺の目を真っ直ぐに見た。
「私は、この町を離れないです。絶対に」
「なんでだ」
「だって、ここにいるから」
「ここに?」
「お父さんとお母さんが」
凛の声が、少し震えた。
「あの日、二人はここで死んだんです。この海で。この町で。だから、私はここにいる。ここにいないと、二人を忘れちゃう気がするから」
俺は、何も言えなかった。
八年前。俺も同じことを考えていた。
この町を離れたら、父と母と妹を忘れてしまう。だから、ここにいなければ。
でも、俺は離れた。
自衛隊に入り、浜松に配属され、この町には年に数回しか帰れなくなった。
そして——忘れたわけではないが、記憶は少しずつ薄れていった。
「迅くん」
凛が、俺の袖を掴んだ。
「私ね、怖くないんですよ」
「怖くない?」
「うん。地震が来ても、津波が来ても。ここで死ぬなら、それでいいって思ってるの」
「凛——」
「だって、お父さんとお母さんのところに行けるもん」
凛は、微笑んでいた。
でも、その微笑みの奥に、何かが見えた。
諦めではない。覚悟でもない。
ただ、この場所に縛られている。この町に、この海に、この記憶に。
——俺と、同じだ。
気づいたら、口が動いていた。
「……俺は」
凛の手を見た。細い指。日焼けした肌。
「俺は、お前に死んでほしくない」
「え?」
「お前は、生きろ。ここが沈んでも、どこかで生きろ」
凛は、目を丸くした。
俺も、自分の言葉に驚いていた。こんなことを言うつもりはなかった。
でも、言葉は勝手に出てきた。喉が熱い。胸の奥で、何かがぐちゃぐちゃに渦を巻いている。怒りなのか、焦りなのか、名前のつけられない何かなのか。
「俺は、もう三人失った。父と母と、妹を。これ以上、誰も失いたくない」
「迅くん……」
「だから、生きろ。頼む」
凛は、しばらく黙っていた。
波の音だけが、遠くで聞こえていた。
そして、静かに言った。
「……迅くんは、どうするんですか」
「俺?」
「うん。迅くんは、生きるの?」
俺は、答えられなかった。
生きる。
その言葉が、どこか遠い。
俺は、八年間ずっと飛び続けてきた。人を救い続けてきた。でも、それは「生きる」ためだったのか。
分からない。
ただ、止まったら終わりだと思っていただけだ。止まったら、あの日のことを考えてしまう。母の最後の電話。出なかった俺。だから、止まれない。止まりたくない。
——それは、「生きる」とは違う気がする。
「……分からない」
「じゃあ、約束してください」
凛が、俺の手を握った。
その手は、温かかった。小さくて、細くて、でも強い力で俺の手を握っている。
「私が生きるから、迅くんも生きて。それでいいですか?」
俺は、凛の目を見た。
十八歳。まだ子供だ。でも、その目は——
真っ直ぐだった。揺らがなかった。
胸の奥で、何かが軋んだ。同時に、何かが緩んだ。矛盾している。でも、そうとしか言えない。
「……ああ」
声がかすれていた。
「約束する」
凛は、笑った。
今度は、本当の笑顔だった。目尻に皺が寄って、少し涙ぐんでいるような、でも嬉しそうな。
俺は、その顔から目を逸らせなかった。
◆
その夜、俺は凛の家の客間で眠った。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
頭の中で、いろいろなことがぐるぐると回っていた。
駿河トラフ。三〇パーセント。気泡。杉浦。東堂。
そして、凛。
——私が生きるから、迅くんも生きて。
彼女の言葉が、耳に残っていた。
もし、本当に地震が来たら。津波が来たら。
この町は、沈むかもしれない。
凛は、死ぬかもしれない。
俺は——
携帯電話が震えた。
画面を見ると、杉浦からのメッセージだった。
『神谷三佐。明日の朝、また新しいデータが出ます。確率が、さらに上がっています』
そして、もう一通。
『四〇パーセントです』
俺は、窓の外を見た。
夜の海は、静かだった。
でも、その下で何かが動いている。
俺には、それが見える気がした。
【第4章 終】




