第39章「春を待つ」
第39章「春を待つ」
【海野凛視点】
窓を開けると、冷たい空気が頬に触れた。
まだ朝の早い時間。空は明るくなり始めたばかりで、薄紫と橙色が混じり合っている。
——もう、半年。
あの災害から、季節が二つ過ぎた。
◆
静岡市内の仮設住宅。
私の新しい暮らしの場所。
2DKの小さな部屋だけど、今はもう「仮設」という感じがしない。
カーテンは杉浦さんが選んでくれた明るい色のもの。
台所には私が少しずつ買い揃えた調理器具が並んでいる。
そして、和室の隅には——おばあちゃんのお骨が、静かに安置されている。
「おはようございます」
今日も、声をかける。
返事はない。
でも、朝日が差し込んで骨壺を照らすのを見ると、おばあちゃんが微笑んでくれているような気がした。
◆
キッチンに立って、朝ごはんの支度を始める。
冷蔵庫を開けると、昨日迅くんが持ってきてくれた野菜が入っていた。
キャベツ、にんじん、しめじ。
「任務帰りに寄った店で買った」と、ぶっきらぼうに言っていた。
でも、私の好きな野菜ばかりだった。
分かってないふりをして、全部覚えてくれている。
そういうところが、迅くんらしい。
フライパンを温めながら、思わず頬が緩んだ。
◆
卵焼きを作る。
最初は焦がしてばかりだったけど、今は上手に巻けるようになった。
おばあちゃんの味には、まだ遠い。
でも、迅くんが「うまい」と言ってくれる。
それだけで、十分だった。
味噌汁も作る。
出汁は昆布と鰹節から丁寧に取る。
おばあちゃんに教わったやり方。
あの小さな台所で、隣に立って見せてもらった記憶。
今でも、鮮明に覚えている。
◆
朝食を食べ終えて、洗い物をしていると、携帯が鳴った。
マリアさんからだ。
『今日、お昼過ぎに行くわね。美味しいお菓子もらったから、おすそ分け』
『わあ、ありがとうございますっ。楽しみにしてます』
『あと、杉浦さんも一緒に来るって。三人でお茶しましょ』
マリアさんと杉浦さん。
二人とも、今では私の大切な友達だ。
半年前、避難所で出会った時は、こんな関係になるとは思わなかった。
災害は多くのものを奪う。
でも、繋がりを生み出すこともある。
おばあちゃんが言っていた通りだ。
◆
午前中は、近くの公民館でボランティア活動をした。
仮設住宅に住むお年寄りの話し相手をしたり、子どもたちと遊んだり。
最初はマリアさんに誘われて始めたことだったけど、今では自分から通うようになっていた。
「海野さん、いつも来てくれてありがとうね」
公民館の担当者——佐藤さんという五十代の女性——が、にこやかに言った。
「いえ、私の方こそ勉強になりますっ」
「若いのに偉いわねえ。旦那さんも、良い人捕まえたわね」
「だ、旦那さん……?」
首を傾げると、佐藤さんがニヤニヤした。
「ほら、たまに迎えに来てくれるでしょ。自衛隊の制服着たかっこいい人」
「あ、あれは……その、まだ、旦那さんじゃ……」
顔が熱くなる。
迅くんとは、まだそういう話をしていない。
でも——。
いつか、そうなれたらいいなとは、思っていた。
◆
お昼過ぎ、マリアさんと杉浦さんがやってきた。
「やっほー、凛ちゃん。元気してた?」
マリアさんが、紙袋を掲げながら入ってくる。
その後ろから、杉浦さんが続いた。
「お邪魔します。……相変わらず、綺麗に片付いてるわね」
「杉浦さんが選んでくれたカーテンのおかげですよっ」
「別に大したことしてないわよ」
杉浦さんは相変わらず素っ気ない。
でも、その頬が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
◆
三人でテーブルを囲んで、お茶を飲む。
マリアさんが持ってきてくれたのは、老舗の和菓子屋の栗羊羹だった。
「これ、すごく美味しいですっ」
「でしょ? 知り合いからもらったのよ。あんたに食べさせたくてね」
マリアさんが嬉しそうに目を細める。
「海野さん、最近ちゃんと食べてる? また痩せたんじゃない?」
杉浦さんが、鋭い目で私を見た。
「食べてますよっ。迅くんがいっぱい野菜買ってきてくれるんですっ」
「ふうん。神谷三佐も、すっかり主夫みたいね」
「主夫……?」
「言い過ぎか。でも、あの人がスーパーで野菜選んでる姿、ちょっと想像つかないわ」
杉浦さんが小さく笑った。
半年前より、ずっと柔らかい笑顔だ。
「杉浦さんも、笑うようになりましたねっ」
「……そう?」
「はいっ。前は、もっと怖い顔してましたもん」
「怖い顔って……」
杉浦さんが眉をひそめる。
マリアさんが横から口を挟んだ。
「確かにね。あたしが最初に会った時なんて、『何しに来たの』って睨まれたわよ」
「睨んでない。疲れてただけ」
「はいはい。ツンデレさん」
「誰がツンデレよ」
二人のやり取りを見ていると、気づけば私は声を出して笑っていた。
こんな何気ない時間が、とても幸せだった。
◆
「そういえば」
マリアさんが、急に真面目な顔になった。
「凛ちゃん、これからのこと、どう考えてるの?」
「これから、ですか?」
「仮設住宅、いつまでもってわけにはいかないでしょ。復興住宅への移行とか、仕事のこととか」
確かに、考えなければいけないことだった。
仮設住宅の入居期間は原則二年。
その先のことを、私はまだ曖昧にしていた。
「えっと……正直、あまり考えてなかったですっ」
「凛ちゃんらしいわ」
マリアさんが苦笑した。
「でもね、そろそろ考えた方がいいわよ。特に、神谷三佐との関係も含めて」
「迅くんとの……?」
「あんたたち、もう付き合って半年でしょ? 次のステップ、考えないの?」
次のステップ。
その言葉に、胸がざわついた。
嬉しさと、ほんの少しの不安が、同時に込み上げてくる。
◆
杉浦さんが、静かに口を開いた。
「……私から言うのも変だけど」
その目は、真っ直ぐに私を見ていた。
「神谷三佐は、本気よ。あなたのことを、本気で大切に思ってる」
「杉浦さん……」
「だから、あなたも逃げないで。ちゃんと、向き合って」
杉浦さんの言葉には、重みがあった。
この人も、迅くんのことを——。
そう思うと、胸が締め付けられる。
「杉浦さんは、大丈夫ですか?」
思わず聞いてしまった。
杉浦さんは、一瞬だけ目を伏せた。
でも、すぐに顔を上げて、笑った。
「大丈夫。私には、私のやることがあるから」
その笑顔は、少し寂しそうだったけど——でも、強かった。
◆
夕方、二人を見送った後、私は和室に座った。
おばあちゃんの骨壺に向かって、報告する。
「おばあちゃん。今日ね、マリアさんと杉浦さんが来てくれましたっ」
窓から差し込む夕日が、部屋を橙色に染めている。
「みんな、優しくしてくれるんです。私、一人じゃないって、毎日実感しますっ」
手を合わせて、続けた。
「迅くんとのこと、ちゃんと考えなきゃって言われました。マリアさんに」
おばあちゃんなら、何て言うだろう。
きっと——。
「『好きなら、素直になりな』って、言いますよね」
そんな気がした。
◆
夜。
インターホンが鳴った。
時計を見ると、七時過ぎ。
迅くんだ。
慌てて玄関に向かう。
「おかえりなさいっ」
ドアを開けると、迅くんが立っていた。
制服のままだ。任務帰りに、真っ直ぐここに来てくれたんだ。
「ただいま」
迅くんは、小さな紙袋を差し出した。
「途中で寄った店で、見つけた」
中を見ると、苺のショートケーキが入っていた。
「わあ……! ケーキっ」
「お前、甘いもの好きだっただろ」
「覚えててくれたんですねっ」
「……当然だろ」
迅くんが、少し照れたように視線を逸らす。
その仕草が、好きだ。
◆
二人で夕食を食べた。
今日は私が作った肉じゃがと、ほうれん草のおひたし。
迅くんは、黙々と食べていた。
「おいしい?」
「ああ」
「本当ですか?」
「嘘は言わない」
いつものやり取り。
でも、それが嬉しかった。
食後、二人でケーキを分けて食べた。
甘い苺の味が、口の中に広がる。
「迅くん」
「何だ」
「今日ね、マリアさんと杉浦さんが来てくれたんです」
「ああ、聞いてる。杉浦から連絡があった」
「その時にね、言われたんです」
迅くんが、私の方を見た。
「これからのこと、ちゃんと考えなきゃって」
迅くんは、黙って聞いていた。
◆
「仮設住宅のこととか、仕事のこととか」
言葉を選びながら、続けた。
「私、今まであまり考えてなかったんです。毎日が精一杯で」
「……ああ」
「でも、そろそろ考えなきゃいけないって」
迅くんは、しばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「俺も、考えてた」
「えっ?」
「これからのこと」
迅くんの目が、真っ直ぐに私を見た。
「俺は——お前と、一緒にいたい」
心臓が跳ねた。
嬉しさと、ほんの少しの不安が、胸の中で混ざり合う。
「仮設じゃなくて、ちゃんとした場所で。二人で」
「迅くん……」
「まだ具体的なことは決まってない。でも、俺はそう思ってる」
迅くんの声は、いつもより少しだけ緊張していた。
普段、感情を表に出さない人が——こんな風に、想いを伝えてくれている。
◆
私は——涙が出そうになった。
でも、笑顔で答えた。
「私もです」
「……」
「迅くんと、一緒にいたいです。ずっと」
迅くんの表情が、少しだけ緩んだ。
ほんの少しだけ——でも、確かに。
「そうか」
「はいっ」
「なら、少しずつ考えよう。焦る必要はない」
「はいっ。一緒に、考えましょうっ」
迅くんが、私の頭を撫でた。
大きくて、温かい手。
この手が、私を守ってくれた。
これからも——守ってくれる。
そして、私も迅くんを守りたい。
支え合って、一緒に生きていきたい。
◆
迅くんが帰った後、私は窓を開けた。
夜空には、星が瞬いていた。
寒いけど、澄んだ空気が心地良い。
——春が、もうすぐ来る。
長い冬を越えて、新しい季節が訪れる。
あの災害から、半年。
失ったものは、多い。
おばあちゃん。故郷。生まれ育った町。
全部、なくなってしまった。
でも——。
繋がりは、なくならなかった。
迅くんがいる。
マリアさんがいる。
杉浦さんがいる。
私を支えてくれる人たちが、いる。
そして、私もその人たちを支えていきたい。
◆
和室に戻って、おばあちゃんに報告した。
「おばあちゃん。迅くんと、これからのこと話しましたっ」
骨壺は、静かに佇んでいる。
「一緒にいたいって、言ってくれましたっ。私も、同じ気持ちですって、伝えましたっ」
月明かりが、部屋を優しく照らしている。
「おばあちゃんが教えてくれたこと、私、ちゃんと覚えてます」
人と人との繋がりは、誰にも奪えない。
失ったものがあっても、前を向いて生きていく。
おばあちゃんが、そうやって生きてきたように。
「私も、そうやって生きていきます」
手を合わせて、目を閉じた。
「見守っていてくださいね」
◆
布団に入って、目を閉じる。
明日も、迅くんが来てくれる。
明後日は、ボランティアの日。
来週は、マリアさんと杉浦さんとお花見の約束をしている。
小さな約束が、未来を作っていく。
そうやって、少しずつ——。
新しい日常を、積み重ねていく。
災害は、多くのものを奪った。
でも、奪えないものもある。
人と人との繋がり。
一緒に生きていこうという意志。
それだけは——誰にも、奪えない。
眠りに落ちる直前、私は微笑んでいた。
春が来る。
新しい季節が、始まる。
【第39章 終】




