第38章「観測者の夜明け」
第38章「観測者の夜明け」
【杉浦沙耶視点】
観測室のモニターは、今日も静かだった。
本震から一ヶ月。
画面に並ぶ数値の羅列は、もう私の不安を煽ることはない。
余震の回数は着実に減少し、プレート境界の応力分布も安定域に入っている。
——最悪の峠は、越えた。
そう言い切れるだけのデータが、ようやく揃った。
◆
「杉浦主任」
部下の森田が、コーヒーを差し出してきた。
「ありがとう」
受け取りながら、モニターから目を離さない。
森田は少し躊躇してから、言った。
「……そろそろ、休んでください。一ヶ月、ほとんど帰宅していないでしょう」
「休んでるわよ。仮眠室があるもの」
「それは休んでるとは言いません」
正論だった。
でも、止められなかったのだ。
あの日からずっと、観測を止めることが怖かった。
目を離した隙に、また何かが起きるんじゃないかと。
「……もう少しだけ」
そう言って、コーヒーを口に運んだ。
苦い。
でも、その苦さが私を現実に繋ぎ止めている。
◆
午後、東堂から連絡が入った。
『杉浦さん、報告書の件、受け取りました。政府への最終報告、来週で調整しています』
「承知しました。データの精査は完了しています」
『……お疲れ様でした。本当に』
東堂の声が、少しだけ柔らかかった。
この一ヶ月、彼女とは何度もやり取りをした。
立場は違う。方法も違う。
でも、「守りたいもの」は同じだった。
『杉浦さんのチームがいなければ、避難指示の判断は間に合わなかった。そのこと、政府内でも認識されています』
「……仕事をしただけです」
『そういうところ、神谷三佐に似ていますね』
不意を突かれた。
「……何が言いたいの」
『褒め言葉です。素直に受け取ってください』
電話の向こうで、東堂が笑った気配がした。
珍しい。
この人が笑うところなんて、初めて聞いたかもしれない。
◆
夕方、観測室のドアが開いた。
振り返ると、見覚えのある顔があった。
「杉浦」
神谷三佐が立っていた。
隣には、海野凛。
「……何しに来たんですか」
つい、素っ気ない言い方になってしまう。
分かってる。こういうところが、私の悪い癖だ。
「観測データの確認に来た」
神谷三佐が言う。
「嘘でしょ。データなんて、メールで送れるじゃないですか」
「……バレたか」
神谷三佐が、少しだけ口元を緩めた。
この人が笑うようになったのは、いつからだろう。
前は、もっと——張り詰めた顔をしていた。
「杉浦さん、これっ」
凛が、紙袋を差し出してきた。
「お弁当作ってきましたっ。杉浦さん、ちゃんと食べてないでしょう」
「……なんで分かるの」
「だって、前より痩せてますもん」
凛の目が、真剣だった。
この子は、本当に——人のことをよく見ている。
◆
休憩室で、三人で食事をすることになった。
凛が作ってきた弁当は、卵焼き、ほうれん草のおひたし、鮭の塩焼き。
どれも丁寧に作られていて、優しい味がした。
「おいしい」
思わず、素直な言葉が出た。
「本当ですかっ?」
凛の顔が、ぱっと明るくなる。
「……嘘は言わないわよ」
そう言ってから、自分の言葉に苦笑した。
嘘は言わない。
本当に、そうだろうか。
私はずっと、嘘をついていた。
あの人の隣にいたい。
あの人に振り向いてほしい。
そんな気持ちを、隠し続けていた。
◆
食事を終えて、神谷三佐が言った。
「杉浦。一つ、聞いていいか」
「何よ」
「お前は——これからどうするつもりだ」
その質問に、私は少し考えた。
「……観測チームは縮小される。でも、データの解析と今後の予測モデルの構築は続ける必要がある。私は、そこに残るつもりです」
「そうか」
「何ですか。私が辞めるとでも思いました?」
「いや。お前はそういう人間だと思ってた」
神谷三佐の目が、真っ直ぐに私を見た。
「お前のおかげで、多くの命が助かった。俺も——お前に助けられた」
不意に、胸が熱くなった。
ダメ。
泣いちゃダメ。
「……当然のことをしただけですよ。科学者として、やるべきことをやっただけです」
「ああ。だから、礼を言いに来た」
神谷三佐が、頭を下げた。
その姿を見て、何も言えなくなった。
◆
二人が帰った後、私は一人で観測室に残った。
窓の外は、夕暮れの色に染まっていた。
——好きだった。
今も、好き。
でも、もう諦めた。
あの人には、守りたい人がいる。
あの人を、笑顔にできる人がいる。
それは、私じゃなかった。
悔しい。
悲しい。
でも——。
それでいいと、今は思える。
あの人が笑っている。
あの人が「生きていたい」と思えるようになった。
それは、海野凛のおかげだ。
私にできたのは、科学者として、データを読み解くこと。
避難指示を出すための根拠を作ること。
あの人が救助活動に専念できるよう、後方で支えること。
それが、私の——役割だった。
◆
モニターに目を戻す。
数値は安定している。
余震の頻度は、さらに減少した。
プレート境界の応力分布も、危険域を脱している。
——私たちは、この災害を乗り越えようとしている。
千三百人以上の命が失われた。
その数字は、一生背負っていくものだ。
でも、救えた命もある。
避難指示が間に合わなければ、もっと多くの人が死んでいた。
私の仕事に、意味はあった。
そう思いたい。
そう思えるようになった。
◆
携帯が鳴った。
凛からだ。
『杉浦さん、今日はありがとうございましたっ』
「私は何もしてないわよ。お弁当、ごちそうになったのは私の方だし」
『でも、会えて嬉しかったですっ。杉浦さん、最近元気なかったから、心配してたんです』
「……心配?」
『はいっ。だって、杉浦さんは私の大切な友達ですから』
その言葉に、胸の奥が締め付けられた。
友達。
恋敵になるはずだった相手が、友達だと言ってくれる。
この子は、本当に——。
「……ありがとう。私も、あなたのこと、嫌いじゃないわ」
素直に「友達」と言えない自分が、少しだけ情けなかった。
でも、凛は笑った。
『知ってますよっ。杉浦さん、そういうところ、可愛いですっ』
「可愛い……?」
『はいっ。ツンデレって言うんですよねっ』
「誰がツンデレよ!」
電話の向こうで、凛がくすくす笑っている。
呆れる。
でも——悪い気分じゃなかった。
◆
夜。
観測室の窓から、星が見えた。
澄んだ夜空だった。
災害の後、空気が澄んでいるのかもしれない。
いや——。
そうじゃない。
私の心が、少しだけ軽くなったから、そう見えるのかもしれない。
恋は叶わなかった。
でも、得たものもある。
信頼できる同志。
友達と呼べる存在。
そして——科学者としての、誇り。
私は、やるべきことをやった。
できることを、やり尽くした。
それは、誰にも否定できない。
◆
モニターを見つめながら、私は思った。
明日からも、観測は続く。
データを読み解き、予測モデルを構築し、次の災害に備える。
それが、私の仕事だ。
派手じゃない。
誰かを直接救うわけじゃない。
でも——。
「科学は100%を言えないが、0%でもない」
私がかつて言った言葉が、胸の中で響いた。
不完全でもいい。
100%じゃなくてもいい。
0%より上なら、動く価値はある。
それが、私の信念だ。
◆
窓の外が、うっすらと白み始めた。
夜明けだ。
また一日が始まる。
私は——前を向いて、生きていく。
叶わなかった恋を抱えて。
でも、それを受け入れて。
あの人が幸せなら、それでいい。
そう思える自分が、少しだけ誇らしかった。
——観測者として、私は見続ける。
この国の大地を。
この国に生きる人々を。
次の災害から、一人でも多くの命を守るために。
それが、杉浦沙耶という科学者の、生き方だ。
【第38章 終】




