第37章「歩み出す朝」
第37章「歩み出す朝」
【神谷迅視点】
浜松基地の格納庫は、以前より静かになっていた。
整備士たちの作業音が響く。ヘリのローターが規則正しく回転する確認音。それらが、かつての喧騒に比べればずっと穏やかに感じられた。
本震から三週間。
救助任務は減り、代わりに復興支援の任務が増えている。
瓦礫の撤去、物資の輸送、被災者の移動支援。俺たちの役割は「救う」から「支える」へと、少しずつ変わりつつあった。
◆
「神谷三佐」
声をかけられて振り返ると、田村が立っていた。
「今日の任務、終わりました。報告書、後で提出します」
「ああ、ご苦労」
田村は一瞬、何か言いたげな顔をした。
「どうした」
「……いえ。神谷三佐、最近、顔色がいいなと思いまして」
「そうか」
「前は、もっと——なんというか、切羽詰まった顔をしてた気がします」
田村の言葉に、俺は少し考えた。
確かに、以前の俺は違っていたかもしれない。
任務と任務の間に、息を吸う暇もなかった。止まったら終わりだと思っていた。
今は、違う。
「凛がいるからな」
自然と、その名前が口から出た。
田村は一瞬目を丸くして、それから笑った。
「そうですか。良かったです」
◆
任務を終えて、俺は凛の仮設住宅に向かった。
静岡市内まで、基地から車で一時間弱。
この三週間、時間が許す限り通っている。
週に三回か、四回。多い時は毎日。
——通いすぎだと、杉浦に呆れられた。
でも、足が勝手に向かってしまう。
あの小さな部屋に、凛がいる。
それだけで、何か張り詰めていたものが緩む気がした。
◆
夕暮れの空が、茜色に染まっていた。
仮設住宅の駐車場に車を停めて、階段を上がる。
ドアの前に立つと、中から良い匂いが漂ってきた。
味噌の香り。煮物の匂い。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「おかえりなさいっ」
凛が、エプロン姿で立っていた。
長い黒髪が、後ろで一つに束ねられている。
その笑顔を見た瞬間、今日一日の疲れが、ふっと抜けていくのを感じた。
「ただいま」
自然と、そう答えていた。
◆
小さなリビングに上がると、テーブルには料理が並んでいた。
肉じゃが、ほうれん草のおひたし、味噌汁。
「今日は煮物に挑戦してみましたっ」
凛が誇らしげに言う。
「おばあちゃんの味に、ちょっとだけ近づけた気がしますっ」
俺は席に着いて、箸を取った。
肉じゃがを一口。
——うまい。
柔らかく煮込まれたジャガイモと、しっかり味の染みた牛肉。
「どう、ですか……?」
凛が不安そうに俺の顔を覗き込む。
「うまい」
「本当ですかっ?」
「嘘は言わない」
凛の顔が、ぱあっと明るくなった。
その表情を見ていると、なぜか胸が締め付けられる。
嬉しいのか、切ないのか、自分でもよく分からない。
ただ、この瞬間が続けばいいと思った。
◆
食事を終えて、洗い物をする。
凛は俺の隣で皿を拭いていた。
水の音。食器が触れ合う音。それから、凛の鼻歌。
知らない曲だったが、穏やかなメロディーだった。
「何の歌だ」
「えっ? あ、すみませんっ、つい」
「謝ることじゃない。何の歌か聞いた」
凛は少し恥ずかしそうに答えた。
「おばあちゃんがよく歌ってた曲ですっ。タイトルは分からないんですけど、昔から好きで」
「そうか」
「迅くん、歌とか歌います?」
「歌わない」
「えー、一曲くらい」
「歌わない」
凛が頬を膨らませた。
その顔が可笑しくて、思わず笑ってしまった。
——笑った。
自分が笑っていることに、少し驚いた。
以前の俺は、こんな風に笑えただろうか。
◆
食後、二人で和室に移動した。
窓際に置かれた骨壺——トメさんのお骨——に、凛が手を合わせる。
俺も隣で手を合わせた。
しばらくの沈黙。
トメさんの顔を思い出す。
あの穏やかな笑顔。「凛を頼む」と言ってくれた声。
——約束は、守っている。
心の中で、そう報告した。
「おばあちゃん」
凛が骨壺に向かって話しかけた。
「今日ね、迅くんが私の肉じゃがを褒めてくれましたっ。おばあちゃんの味に近づけたかな」
俺は黙って聞いていた。
「迅くん、最近よく笑うようになったんですよ。前はもっと、怖い顔してたのに」
「……怖い顔はしてない」
「してましたよっ」
凛が俺を見上げて、笑った。
その目が、夕日の光を反射して輝いている。
「でも、今の迅くんの方が好きですっ」
俺は——何と答えていいか、分からなかった。
顔が熱くなる。
視線を逸らして、窓の外を見た。
空が、深い紅色に変わっていた。
◆
夜。
凛を部屋に残して、俺は基地に戻る準備をしていた。
玄関先で、凛が見送ってくれる。
「今日も来てくれて、ありがとうございますっ」
「……こっちこそ」
「えっ、何がですか?」
「飯。うまかった」
凛が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、帰りたくなくなる。
でも、明日も任務がある。
「また来る」
「はいっ。待ってますっ」
ドアを閉めようとした時、凛が俺の袖を掴んだ。
「迅くん」
「何だ」
「あの……聞いてもいいですか?」
凛の表情が、少し真剣になった。
「迅くんは、今、幸せですか?」
その質問に、俺は言葉を詰まらせた。
幸せ——。
そんなこと、考えたことがなかった。
八年間、俺は「幸せ」を求めて生きてこなかった。
誰かを救うこと。それだけが、俺の存在意義だった。
自分の幸せなんて、どうでもよかった。
でも——今は、違う。
「……分からない」
正直に答えた。
「俺には、幸せがどういうものか、よく分からない」
凛の目が、少し悲しそうに揺れた。
「でも」
俺は続けた。
「お前と一緒にいると、悪くない気分になる」
「悪くない……」
「嫌な気持ちにならない。落ち着く。それが幸せかどうかは分からないが——」
言葉を探す。
うまく言えない。
俺はいつも、言葉が足りない。
そう思った瞬間——口が、勝手に動いた。
「——お前といると、生きていたいと思う」
言葉が出てから、自分が何を言ったのか理解した。
顔に血が上る。
こんな言葉、今まで誰にも言ったことがない。
考えるより先に、口から漏れていた。
でも——。
本当のことだった。
◆
凛は、しばらく黙っていた。
それから、目に涙を浮かべて笑った。
「……迅くん」
「な、なんだ」
「それ、すごく嬉しいですっ」
凛の手が、俺の手を握った。
小さくて、柔らかい手だった。
「私も、迅くんと一緒にいると、生きていたいって思いますっ」
「……」
「だから、ずっと一緒にいましょうねっ」
俺は、うまく返事ができなかった。
ただ、凛の手を握り返すことしかできなかった。
それでいいと、凛は笑っていた。
◆
車を走らせながら、夜の道を眺めた。
街灯が、規則正しく並んでいる。
まだ復旧していない区画もあるが、少しずつ明かりが戻ってきている。
——生きていたい。
自分の口から出た言葉を、反芻した。
八年前、俺は生きることを諦めていた。
家族を失って、自分も死ぬべきだったと思っていた。
生き残ったのは罰だと。だから、誰かを救い続けなければならないと。
止まったら終わりだと。
でも、今は違う。
凛がいる。
凛と一緒にいると、明日が来ることが嬉しい。
帰る場所があることが、こんなにも心を満たすとは知らなかった。
——変わったな、俺は。
フロントガラス越しに、星が見えた。
澄んだ夜空だった。
◆
翌朝。
基地で杉浦と会った。
「神谷三佐。昨日の観測データの件ですが」
「ああ、聞いている」
杉浦は、相変わらず事務的な口調だった。
でも、その目は以前より柔らかい気がした。
「余震の頻度は、さらに減少傾向です。プレート境界の応力も安定域に入っています」
「終息に向かっているのか」
「断言はできません。ただ、最悪の峠は越えた、とは言えます」
杉浦は、モニターに視線を移した。
「死者数は、最終的に千三百人を超える見込みです。行方不明者を含めれば、さらに」
「……」
「でも」
杉浦が、俺の方を見た。
「もっと多くなっていた可能性もあった。避難指示が間に合わなければ」
「お前のおかげだ」
「私だけじゃありません。現場で動いた人たちのおかげです。神谷三佐も、含めて」
俺は、何も言えなかった。
千三百人。
救えなかった命が、それだけある。
その数字は、一生背負っていくものだ。
でも——救えた命もある。
そのことを、忘れてはいけない。
「杉浦」
「はい」
「ありがとう」
杉浦が、少し驚いた顔をした。
「……何がですか」
「色々だ。凛のことも、観測のことも。お前がいなければ、もっと多くの命が失われていた」
「……仕事ですから」
杉浦は、視線を逸らした。
その頬が、わずかに赤くなっている。
「神谷三佐は、前より素直になりましたね」
「そうか」
「ええ。以前は、絶対にそんなこと言わなかった」
杉浦が、小さく笑った。
「海野さんの影響ですね」
「……否定はしない」
「良いことですよ」
杉浦の目が、優しく細められた。
「あなたが変わっていくのを見ていると、私も少し、救われた気持ちになります」
◆
午後、復興支援の任務に出た。
被災地の物資輸送。
ヘリから見下ろす景色は、まだ傷跡が残っていた。
崩れた建物。泥に覆われた道路。ブルーシートで覆われた屋根。
でも、その中に人の営みが戻りつつある。
瓦礫を片付ける作業員。仮設住宅の前で洗濯物を干す女性。遊ぶ子供たち。
生きている。
みんな、生きようとしている。
——俺も、生きる。
凛と一緒に。
この災害を乗り越えて、前に進む。
それが、今の俺にできることだ。
◆
夕方、任務を終えて基地に戻った。
携帯を見ると、凛からメッセージが来ていた。
『今日は何を作ろうかな、迷ってますっ』
『迅くん、食べたいものありますか?』
俺は、少し考えてから返信した。
『何でもいい。お前が作るものなら』
すぐに返事が来た。
『もう、そういうの困りますよっ!』
『でも嬉しいですっ』
『頑張って作りますねっ』
その言葉を見ていると、自然と口元が緩んだ。
——帰る場所がある。
それは、こんなにも心を穏やかにするものなのだと、今になって分かった。
八年間、俺は一人で走り続けてきた。
止まることを恐れていた。
でも、今は違う。
止まってもいい。
休んでもいい。
誰かと一緒に、歩いていけばいい。
凛が、そう教えてくれた。
◆
窓の外を見た。
夕焼けが、空を染めている。
赤と紫が溶け合う、美しい空だった。
——明日も、生きよう。
その次の日も。
凛と一緒に。
災害は多くのものを奪った。
でも、奪えないものもある。
人と人との繋がり。
一緒に生きていこうという意志。
それだけは——誰にも、奪えない。
【第37章 終】




