第36章「つながる輪」
第36章「つながる輪」
【海野凛視点】
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
目を覚ますと、見慣れた——いや、まだ見慣れない天井がある。
ここは、私の新しい家。
静岡市内の仮設住宅。2DKの小さな部屋。
引っ越してから一週間が過ぎていた。
◆
布団から起き上がって、和室の隅に目を向ける。
小さな台の上に、白い骨壺が置いてある。
おばあちゃん。
「おはようございます」
手を合わせて、声をかけた。
返事はない。当たり前だ。
でも、毎朝こうして挨拶することで、おばあちゃんがまだ近くにいてくれるような気がした。
◆
キッチンに立って、朝ごはんの支度を始める。
冷蔵庫には、昨日買った食材が入っている。
卵、豆腐、ほうれん草。
迅くんが引っ越し祝いに卵焼きを作ってくれたから、今度は私が作ろうと思った。
練習しなきゃ。
迅くんに美味しいって言ってもらいたい。
フライパンを温めながら、自然と頬が緩む。
——好きな人に料理を作る。
それは、おばあちゃんがずっとしていたこと。
おじいちゃんに、お父さんに、お母さんに、そして私に。
今度は、私が誰かにしてあげる番だ。
◆
卵焼きは、少し焦げてしまった。
香ばしいような、ちょっと苦いような匂いがキッチンに漂う。
見た目はあまり良くない。でも、味は悪くないと思う。
一人でテーブルに座って、「いただきます」と呟く。
静かだ。
おばあちゃんと二人で暮らしていた頃も、朝は静かだった。
でも、今の静けさは少し違う。
寂しいというより——。
空白、という感じ。
誰かが来るのを待っている、そんな空白。
◆
食事を終えて、洗い物をしていると、インターホンが鳴った。
こんな朝早くに、誰だろう。
迅くんは今日も任務のはず。
杉浦さんも仕事があると言っていた。
慌ててエプロンを外して、玄関に向かう。
「はいっ」
ドアを開けると、見覚えのある顔があった。
「よう、元気してた?」
三条マリアさんだった。
◆
「マリアさんっ!」
「久しぶりね、凛ちゃん」
マリアさんは、避難所にいた時と変わらない明るい表情を浮かべていた。
少しだけ痩せたかもしれない。でも、目の力強さは変わっていない。
「どうしてここに……」
「人に聞いたのよ、あんたの新しい住所。お見舞いに来てあげたってわけ」
マリアさんは、手に持っていた紙袋を掲げた。
「ほら、手土産。といっても、コンビニのお菓子だけど」
「わあ……ありがとうございますっ」
「入っていい? 外は寒いのよ」
ドアの向こうから、冷たい風が吹き込んでくる。
「あ、はいっ、どうぞどうぞっ」
◆
マリアさんを部屋に招き入れた。
狭い部屋だけど、二人で座るには十分だ。
お茶を淹れながら、私はマリアさんの顔を見た。
「避難所、どうなったんですか?」
「閉鎖になったわ。被災者はみんな仮設住宅か、親戚のところに移った」
「そうなんですね……」
「あたしも、ようやく自分のところに戻れたってわけ。といっても、部屋は無事だったから、帰るだけだけど」
マリアさんは、湯呑みを受け取った。
湯気がふわりと立ち上る。
「それより、あんたの方よ。大変だったでしょう」
「……はい」
おばあちゃんのこと。
故郷のこと。
全部なくなってしまったこと。
「でも、今は大丈夫ですっ」
私は前を向いて答えた。
「迅くんが、いてくれますから」
◆
「迅くん、ね」
マリアさんが、意味ありげに目を細めた。
「その人、まだ会ったことないのよね。凛ちゃんの『大切な人』」
「そうでしたっ。マリアさんと迅くん、まだ会ってないんですよね」
「名前は聞いてるわよ。神谷三佐でしょ? 航空自衛隊の救難隊員」
「はいっ」
「避難所でも噂になってたわ。すごい人がいるって」
マリアさんは、お茶を一口飲んでから言った。
「一度、会ってみたいと思ってたの。凛ちゃんがそこまで惚れ込む相手、どんな人なのか」
私は、少し照れくさくなった。
「惚れ込むって……そんな」
「照れちゃって。いいのよ、青春してて」
◆
マリアさんと話していると、またインターホンが鳴った。
「あれ、今度は誰だろう」
玄関に向かって、ドアを開ける。
——迅くんが、立っていた。
「おかえりなさいっ」
思わず声が出た。
「……ただいま」
迅くんは、少し照れたように視線を逸らした。
「今日は任務が早く終わった。顔を見に来た」
胸が弾む。
思わず迅くんの手を取って、部屋の中に引っ張り込んだ。
「あのね、今日はお客さんが来てるんですっ」
◆
リビングに戻ると、マリアさんが立ち上がっていた。
迅くんを見て、一瞬、目を見開く。
それから、ゆっくりと口元を緩めた。
「へえ……」
迅くんも、マリアさんを見た。
二人の視線が絡んだ瞬間、空気が張り詰めた。
言葉にならない何か——互いの奥底にある傷を、嗅ぎ取ったような沈黙。
「初めまして。神谷迅です」
「三条マリア。凛ちゃんには避難所でお世話になったわ」
マリアさんの声は、いつもより少し低い。
何かを測っているような、そんな声。
◆
三人でテーブルを囲んだ。
私がお茶を淹れ直している間、マリアさんと迅くんは静かに向き合っていた。
沈黙。
でも、気まずい沈黙じゃない。
何かを確かめ合っているような、そんな沈黙だ。
「凛ちゃんから聞いてるわ」
マリアさんが、先に口を開いた。
「あんたが凛ちゃんを助けてくれたって。おばあさんの最期にも、立ち会ってくれたって」
「……俺は、大したことはしていない」
「そう謙遜しなさんな」
マリアさんは、迅くんの目を真っ直ぐに見た。
「あんた、良い目をしてるわね」
◆
「良い目?」
私は、首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
マリアさんは、少し考えてから答えた。
「……そうね。何かを背負ってる目、っていうのかしら」
迅くんの表情が、一瞬だけ固くなった。
でも、すぐに元に戻る。
「お前もだろう」
迅くんが、静かに言った。
「その目。俺には分かる」
マリアさんの瞳が、わずかに揺れた。
——そうか。
二人とも、同じものを抱えているんだ。
言葉にしなくても、分かり合える何かが。
◆
「五年前」
マリアさんが、ぽつりと言った。
「あたしも、大切な人を失ったの。災害で」
迅くんは、黙って聞いていた。
「同僚だったわ。救助活動中に、目の前で」
「……そうか」
「あんたも、何か失ったんでしょ。その目を見れば分かるわ」
迅くんは、少しの間、黙っていた。
それから、静かに答えた。
「八年前。両親と、妹を」
「そう」
マリアさんは、深く頷いた。
「だから分かり合えるのかもね。凛ちゃんと」
私の方を見て、マリアさんは続けた。
「この子も、失ったものがある。でも、それでも前を向いてる。あんたと同じように」
◆
「マリアさん」
私は、二人の間に入った。
「あの……二人とも、なんだか難しい顔してますっ」
「ああ、ごめんね」
マリアさんの表情が和らいだ。
「年寄りの昔話なんて、つまらないわよね」
「年寄りじゃないですよっ。マリアさん、まだお若いです」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
迅くんも、少しだけ肩の力を抜いた。
「……凛が世話になった。礼を言う」
「礼なんていらないわよ。この子には、あたしの方が救われたんだから」
マリアさんが、私の頭を撫でた。
「いい子に出会えて、良かったわ」
◆
お昼近くになって、マリアさんは帰ると言った。
「また来るわ。今度は、もっとまともな手土産持ってくるから」
「いつでも来てくださいっ」
玄関先で、マリアさんは迅くんに向き直った。
「神谷三佐」
「何だ」
「凛ちゃんのこと、頼んだわよ」
迅くんは、真っ直ぐにマリアさんを見た。
「分かってる」
「うん、良い返事」
マリアさんは、満足そうに目尻を下げた。
「あんた、良い男ね。凛ちゃんの見る目は確かだわ」
「……」
迅くんが、少し照れたように視線を逸らす。
珍しい。
普段、あまり表情を変えない迅くんが。
「マリアさんっ」
私は、マリアさんを呼び止めた。
「また、絶対来てくださいねっ」
「言われなくても来るわよ。あんたの顔見ないと、あたしが寂しいもの」
マリアさんは手を振って、階段を降りていった。
◆
マリアさんを見送った後、私と迅くんは部屋に戻った。
「良い人だな」
迅くんが、ぽつりと言った。
「はいっ。マリアさん、避難所でもみんなのお母さんみたいな人でしたっ」
「お前の言う通りだった」
「何がですか?」
「前に言ってただろ。マリアさんっていう人がいて、すごく助けてもらったって」
「覚えててくれたんですねっ」
思わず、迅くんの腕に抱きついた。
「……重い」
「嘘ですっ。迅くん、私のこと軽いって言ったじゃないですかっ」
「言ったか?」
「言いましたっ」
迅くんが、少しだけ口元を緩めた。
その表情が、好きだ。
◆
お昼ご飯を一緒に食べた。
私が作った卵焼きと、味噌汁と、ほうれん草のおひたし。
味噌汁の湯気が、ふわりと立ち上る。
迅くんは、黙々と食べていた。
「どう、ですか……?」
恐る恐る聞いてみる。
「うまい」
「本当ですかっ?」
「嘘は言わない」
迅くんが、私の方を見た。
「トメさんに、似てる」
「……おばあちゃんの味?」
「ああ。優しい味だ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
おばあちゃんに似てるって言ってもらえた。
何より、心が満たされる。
◆
「迅くん」
「何だ」
「今日、マリアさんと会えて良かったです」
私は、箸を置いて言った。
「マリアさんも迅くんも、大切な人を失った経験があるんですよね」
「……ああ」
「私も、同じです。お父さんとお母さん、おばあちゃん」
迅くんは、黙って聞いていた。
「でも、だからこそ分かり合えるのかなって、思いましたっ」
「どういう意味だ」
「失ったものがあるから、今あるものの大切さが分かるっていうか」
言葉がうまく出てこない。
でも、伝えたいことがあった。
「私たち、みんな何か失ってます。でも、それでも前を向いてる。そういう人たちが繋がっていくのって、すごいことだと思うんです」
迅くんは、しばらく考えてから言った。
「……お前は強いな」
「強くなんかないですよっ」
「いや、強い」
迅くんの手が、私の頭に置かれた。
「俺よりも、ずっと」
◆
午後、迅くんは基地に戻らなければならなかった。
「また来る」
「はいっ。待ってますっ」
玄関先で、私は迅くんを見送った。
「迅くん」
「何だ」
「マリアさんにも、また会ってあげてください。あの人、一人だと寂しがりやさんなんです」
迅くんは、少し驚いた顔をした。
「俺が、か」
「はいっ。迅くんとなら、マリアさんも話せることがあると思うんです」
同じ傷を持つ者同士。
言葉にしなくても、分かり合えることがある。
そういう繋がりが、大切だと思った。
「……分かった」
迅くんは、私の頭をもう一度撫でた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいっ」
◆
迅くんを見送った後、私は部屋に戻った。
和室の骨壺に向かって、報告する。
「おばあちゃん。今日ね、マリアさんが来てくれましたっ。迅くんとも会えて、とても幸せでしたっ」
骨壺は、何も答えない。
でも、おばあちゃんが微笑んでくれている気がした。
「私、一人じゃないんですね」
迅くんがいる。
マリアさんがいる。
杉浦さんも。
失ったものは多いけれど、繋がりは増えていく。
それが、生きていくということなのかもしれない。
◆
夕方、携帯が鳴った。
マリアさんからだ。
『今日はありがとね。神谷三佐、良い人だったわ』
『マリアさんも来てくれて、とても幸せでしたっ』
『また遊びに行くわ。次は、あんたの手料理ごちそうになりたいわね』
『はいっ、腕を磨いておきますっ』
『期待してるわよ。じゃあね』
電話が切れた後、私は窓の外を見た。
夕焼けが、空を染めていた。
オレンジ色の光が、部屋の中まで差し込んでくる。
綺麗だ。
——繋がっていく。
人と人との輪が、少しずつ広がっていく。
災害は多くのものを奪った。
でも、奪えないものもある。
人と人との繋がり。
一緒に生きていこうという意志。
それだけは、誰にも奪えない。
おばあちゃんが教えてくれたこと。
私は、それを胸に刻んで生きていく。
【第36章 終】




