第35章「ともに生きる」
第35章「ともに生きる」
【神谷迅視点】
静岡市内の仮設住宅は、思っていたより綺麗だった。
プレハブの外壁は真新しく、白い塗装が午前の陽光を反射している。
俺は軽トラックの荷台から最後の段ボール箱を下ろした。中身は凛の私物——避難所で手配してもらった衣類と、最低限の生活用品。
「迅くん、そっちのは私が持ちますよっ」
凛が小走りで近づいてくる。
「いい。軽いから」
「でも」
「お前は鍵を開けておけ」
素っ気なく言うと、凛は頬を膨らませた。
「……もう、いつもそうやって一人でやろうとするんだから」
そう言いながらも、凛は素直に玄関へ向かった。
その後ろ姿を見ながら、俺は段ボールを抱え直す。
——軽い。
凛の持ち物は、この数箱だけ。
あの町で暮らしていた十八年分の生活が、全部流されたのだ。
◆
2DKの間取り。
六畳の和室と、四畳半の洋室。小さなキッチンと、ユニットバス。
仮設住宅としては標準的な広さだろう。一人で暮らすには十分だ。
「わあ……畳だ」
凛が和室に入って、目を輝かせた。
「久しぶりに畳の匂い、嗅ぎましたっ」
い草の香りが、かすかに漂っている。
避難所では体育館の床だった。硬くて冷たくて、体が休まらなかっただろう。
「ここなら、ちゃんと眠れるな」
「はいっ」
凛が振り返って、笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
——この子は、笑えている。
おばあさんを亡くして、故郷を失って、それでも笑っている。
嬉しいのか、切ないのか、俺には分からなかった。ただ、目が離せなかった。
◆
荷解きは、すぐに終わった。
元々、荷物が少ないのだ。
段ボール箱の中身を押し入れに収め、最低限の家具を配置する。
テーブル、座布団、布団一式。杉浦が手配してくれたものだ。
「杉浦さん、いろいろ用意してくれてましたね」
「ああ」
「嬉しかったです。テーブルまで」
凛がテーブルの天板を撫でた。
「一人だと広すぎるかもしれないけど……」
その言葉が、途中で止まった。
凛は俺の方を見て、照れたように笑う。
「迅くんが来てくれたら、ちょうどいいですっ」
「……ああ」
俺は、うまく返事ができなかった。
こういう時、何と言えばいいのか分からない。
ただ、悪い気分ではなかった。
◆
最後に、俺は車から小さな包みを取り出した。
白い布に包まれた、骨壺。
「凛」
「はい」
凛が、真剣な顔で受け取った。
トメさんのお骨だ。
俺の宿舎に預かっていたものを、今日、凛に渡す。
「ここに、仏壇を置く場所はあるか」
「和室の、ここがいいと思いますっ」
凛が指さしたのは、部屋の北側。窓から入る光が、柔らかく差し込む場所だった。
「おばあちゃん、明るいところが好きだったから」
凛は骨壺を丁寧に置いて、手を合わせた。
俺も、隣で手を合わせる。
しばらく、沈黙が続いた。
トメさんの顔を思い出す。
あの時、凛を俺に託してくれた人。
「凛を頼む」と言ってくれた人。
——約束は、守る。
心の中で、改めて誓った。
◆
「おばあちゃん」
凛が、骨壺に向かって話しかけた。
「私、ここで暮らすことになりましたっ。仮設住宅だけど、ちゃんとした部屋ですよ。畳もあるんです」
その声は、明るかった。
無理をしているわけではない。本当に、前を向いている。
「一人だけど、大丈夫ですっ。迅くんが来てくれるし、杉浦さんもいるし。それに、マリアさんにも連絡してます」
凛が俺を見た。
「ね、迅くん。来てくれますよね?」
「……ああ」
「約束ですよっ」
凛の目が、うっすらと潤んでいた。
笑顔なのに、泣きそうな顔。
気づいたら、俺の手が動いていた。凛の頭に、そっと置く。
「約束だ」
◆
昼過ぎ、二人でキッチンに立った。
といっても、食材は最低限しかない。卵と、ご飯と、味噌。
「卵焼き、作りますねっ」
「いや、俺がやる」
「えー、私だって料理できますよっ」
「知ってる。でも、今日は引っ越し祝いだ。俺が作る」
凛が、きょとんとした顔をした。
「引っ越し祝い……」
「大したものは作れないが」
フライパンを熱しながら、俺は言った。
「味噌汁と、卵焼きくらいなら」
凛は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……嬉しい」
「何が」
「迅くんが、私のために料理してくれること」
凛の声が、かすかに震えていた。
「おばあちゃんがいなくなって、一人でご飯を食べるのかなって思ってたから」
俺は、卵を割りながら答えた。
「一人じゃない」
「……うん」
「俺がいる」
言ってから、顔が熱くなった。
こんなこと、普通は言わない。言えない。
でも、凛には言いたかった。
◆
出来上がった卵焼きと味噌汁を、テーブルに並べた。
二人分の茶碗。二人分の箸。
「いただきますっ」
凛が手を合わせる。
俺も、同じようにした。
——いただきます。
こんな些細な言葉が、今は特別に感じる。
八年前、家族を失った時。
一人で食事をするのが、辛かった。
誰かと「いただきます」を言うこと。それだけで、少し救われることを、俺は知っている。
「おいしいですっ」
凛が、卵焼きを頬張りながら笑った。
「迅くん、料理上手ですねっ」
「普通だ」
「普通じゃないですよっ。ふわふわで、甘くて」
凛の褒め言葉に、俺はどう返せばいいか分からなかった。
「……お前の方が上手いだろ」
「そんなことないですっ」
「次は、お前が作れ」
「はいっ」
凛が、嬉しそうに頷いた。
その顔を見ていると、こみ上げてくるものがあった。嬉しさとも、切なさとも違う。言葉にならない。
◆
食事を終えて、洗い物をする。
凛は俺の隣で、皿を拭いていた。
「迅くん」
「何だ」
「今日、ありがとうございました」
凛が、静かに言った。
「引っ越し、手伝ってくれて。ご飯も作ってくれて」
「当たり前のことだ」
「当たり前じゃないですっ」
凛が、強い口調で言った。
「迅くんは、いつもそう言うけど。でも、私にとっては当たり前じゃないんです」
俺は、手を止めた。
「一人で引っ越しするのかなって思ってました。一人で荷解きして、一人でご飯食べて。それでも平気なふりするんだろうなって」
凛の声が、震えてくる。
「でも、迅くんが来てくれた。私のために、お休み取ってくれた」
「……」
「嬉しかったんです。すごく」
凛が、俺を見上げた。
その目が、光を湛えている。
「ありがとう、迅くん」
俺は——何と言えばいいか、分からなかった。
こういう時、どんな顔をすればいいのか。
ただ、一つだけ分かることがあった。
「……俺の方こそ」
ぽつりと、言葉が出た。
「お前がいてくれて、助かってる」
凛が、息を呑んだ。
「迅くん……」
「前は、帰る場所なんかなかった。任務が終わっても、誰もいない部屋に戻るだけだった」
蛇口から水が流れている。
その音を聞きながら、俺は続けた。
「今は、違う」
凛の顔を見る。
「お前がいる。帰る場所がある」
凛の頬を、涙が伝った。
でも、笑っていた。
「……うんっ」
◆
夕方、俺は仮設住宅を後にした。
明日から、また任務がある。
災害はまだ終わっていない。行方不明者の捜索、被災地の支援。やるべきことは山ほどある。
「迅くん」
玄関先で、凛が呼び止めた。
「気をつけてくださいねっ」
「ああ」
「無茶しないでください」
「……善処する」
「善処じゃなくて、約束してくださいっ」
凛が、頬を膨らませた。
俺は、思わず笑ってしまった。
「分かった。約束する」
「絶対ですよっ」
「ああ」
凛の頭を、軽く撫でた。
「また来る」
「はいっ。待ってますっ」
◆
軽トラックを走らせながら、夕焼けを見た。
オレンジ色の光が、空を染めている。
——帰る場所。
その言葉を、俺は噛み締めた。
八年間、ずっと走り続けてきた。
止まったら終わりだと思っていた。
誰かを救い続けることでしか、生きている意味を見出せなかった。
でも、今は違う。
凛がいる。
帰りを待っている人がいる。
——生きたい。
その気持ちが、確かにある。
救いたい。誰かの役に立ちたい。その想いは変わらない。
でも、それだけじゃない。
俺自身が、生きたいと思っている。
凛と一緒に、生きていきたいと。
フロントガラス越しに、夕日が眩しかった。
目が熱くなる。
涙じゃない。たぶん。
ただ——。
初めて、明日が来ることを嬉しいと思えた。
◆
浜松基地に戻ると、杉浦が待っていた。
「神谷三佐」
「杉浦か。何だ」
「海野さんの引っ越し、無事に終わりましたか」
「ああ」
俺は、簡潔に答えた。
杉浦は、視線を逸らした。
「……そうですか。良かった」
その声は、いつも通り事務的だった。
でも、俺には分かった。
杉浦は、凛のことを心配してくれていた。仮設住宅の手配も、家具の用意も、全部杉浦がやってくれた。
「杉浦」
「はい」
「ありがとう」
杉浦が、一瞬動きを止めた。
「……何がですか」
「凛のこと。いろいろ世話になった」
「仕事ですから」
杉浦は、そっけなく答えた。
でも、その頬がわずかに赤くなっていた。
「……別に、お礼を言われるようなことは」
「いや」
俺は、杉浦の目を見た。
「お前がいてくれて、助かった。俺一人じゃ、何もできなかった」
杉浦は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……相変わらず、不器用な人ですね」
「うるさい」
「でも」
杉浦が、真っ直ぐに俺を見た。
「あなたが変わったこと、私には分かりますから」
俺は、何も言えなかった。
「以前のあなたなら、休みを取って引っ越しを手伝うなんてしなかった。任務を優先して、海野さんのことは後回しにしてたはずです」
「……そうかもな」
「変わったんですよ、神谷三佐は」
杉浦の声は、静かだった。
「それは、海野さんのおかげ。私が何かしたわけじゃない」
そう言って、杉浦は俺の横を通り過ぎた。
「明日の任務、資料を用意しておきます。確認お願いしますね」
「ああ」
杉浦の背中を見送りながら、俺は思った。
——違う。
お前のおかげでもある。
言葉にはできなかった。
でも、いつか伝えたいと思った。
◆
夜。
宿舎の窓から、星を見上げた。
凛は今頃、新しい部屋で眠っているだろうか。
一人だけど、一人じゃない。
俺がいる。杉浦がいる。
災害は多くのものを奪った。
命も、家も、町も。
でも、奪えないものもある。
人と人との繋がり。
一緒に生きていこうという意志。
それだけは、誰にも奪えない。
俺は、携帯を取り出した。
凛にメッセージを送る。
『今日はゆっくり休め。また連絡する』
すぐに返信が来た。
『はいっ。迅くんも、ちゃんと寝てくださいねっ』
その言葉に、自然と口元が緩んだ。
——ちゃんと、生きよう。
明日も、その次の日も。
凛と一緒に、生きていこう。
携帯を枕元に置いて、目を閉じた。
久しぶりに、穏やかな眠りが訪れた。
【第35章 終】




