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沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


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第34章「彼女の答え」

第34章「彼女の答え」


【杉浦沙耶視点】



 観測データの数値が、ようやく落ち着いてきた。


 D-1のモニターに映る地震計の波形を眺めながら、私はコーヒーカップを手に取った。もう何杯目か分からない。カフェインが身体に染み込んで、疲労を誤魔化してくれている。


 本震から二週間。


 余震の頻度は減少傾向にある。プレート境界の応力も、ようやく安定域に入りつつあった。


 ——終わったわけじゃない。


 でも、最悪の峠は越えた。そう判断していい段階だ。



         ◆



 デスクに積まれた書類の山を見て、ため息が漏れた。


 被害状況の集計、各観測点のデータ分析、今後の予測モデルの構築。やるべきことは山ほどある。


 死者数は暫定で千二百人を超えた。行方不明者を含めれば、さらに増える。


 数字で見ると、ただの統計だ。


 でも、その一つ一つが、誰かの大切な人だった。


 海野さんの祖母もその一人だ。



         ◆



 ふと、窓の外を見た。


 浜松基地の敷地内に、小さな人影が見える。


 ——海野さんだ。


 ベンチに座って、空を見上げている。


 この数日、彼女は基地の宿泊施設に滞在している。仮設住宅の申請は私が進めているが、入居までにはもう少し時間がかかる。


 神谷三佐は——今日も救助任務に出ている。


 でも、以前とは違う。


 ちゃんと休みを取るようになった。火葬の日も、任務を調整して同行していた。


 あの人が、変わった。


 海野さんがいるから。



         ◆



 モニターに目を戻す。


 地震発生確率の推移グラフ。今後三十日間の予測モデル。二次災害のリスク評価。


 科学者として、やるべきことは明確だ。


 データを集め、分析し、予測する。


 それが私の仕事。私にできること。


 ——それだけ。


 神谷三佐のように、瓦礫の下から人を救い出すことはできない。


 海野さんのように、誰かの心を温めることもできない。


 私にできるのは、数字を読み解くことだけ。


 それでも。


 それが、誰かの役に立つなら。



         ◆



 昼過ぎ、海野さんが観測室に顔を出した。


「杉浦さん、お昼ご飯、食べましたか?」


 私は書類から顔を上げた。


「……まだ」


「やっぱりっ。これ、食堂でもらってきましたっ」


 海野さんは、おにぎりとお茶のペットボトルを差し出した。


 その穏やかな表情が、眩しかった。


 祖母を亡くしてから、まだ数日。それなのに、彼女は前を向いている。


 無理をしているわけではない。本当に、ここから歩き出そうとしているのだ。


「……ありがとう」


 私は受け取りながら、視線を外した。


「神谷三佐から、杉浦さんにお礼を言っておいてって頼まれましたっ」


「お礼?」


「私のこと、いろいろ助けてくれてるって。住宅の申請とか、手続きとか」


「……仕事だから」


 素っ気なく答えてしまった。


 でも、海野さんは気にした様子もなく、にこにこと頷いている。


「杉浦さんも、ちゃんと休んでくださいねっ。顔色、あんまり良くないですよ」


「……余計なお世話」


 言ってから、少し後悔した。


 海野さんは悪くない。むしろ、私なんかを気遣ってくれている。


「ごめんなさい。そういう意味じゃなくて」


「分かってますっ。杉浦さん、お仕事頑張りすぎちゃうタイプですもんね」


 海野さんは、私の謝罪を軽く受け流した。


 この子は——本当に、強い。



         ◆



 海野さんが部屋を出た後、私はおにぎりを一口齧った。


 鮭。塩加減がちょうどいい。


 食堂のおにぎりなのに、なぜか温かい気がした。


 ——私じゃ、ダメなんだろうな。


 分かっていた。最初から。


 神谷三佐が誰を見ているか。誰のために変わろうとしているか。


 私には、ああいう柔らかさはない。


 素直に気持ちを伝えることも、相手の心に寄り添うことも。


 論理と理屈で物事を考える。それが私だ。


 感情を言葉にするのが、下手くそで。


 だから。



         ◆



 夕方、神谷三佐が帰還した。


 格納庫の前で、海野さんが出迎えている。


 私は観測室の窓から、その光景を見ていた。


 飛行服のまま、疲れた顔をした神谷三佐。


 でも、海野さんを見つけると、その表情が緩む。


 海野さんが駆け寄る。神谷三佐の手が、彼女の頭に置かれる。


 ぽんぽん、と軽く叩いている。


 海野さんが何か言って、神谷三佐が答える。


 声は聞こえない。でも、二人の口元が柔らかく動いているのは分かった。


 ——綺麗だな。


 そう思った。


 嫉妬じゃない。羨ましいとも、少し違う。


 ただ、綺麗だと思った。


 あの二人の間にあるものが。


 ——でも。


 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


 見ていたい。でも、見ていると苦しい。


 矛盾してる。分かってる。


 それでも、目が離せなかった。



         ◆



 モニターに目を戻す。


 地震計の波形は、穏やかな曲線を描いている。


 まだ油断はできない。余震は続くだろうし、二次災害のリスクもゼロではない。


 でも、最悪の事態は——たぶん、避けられた。


 千二百人以上が亡くなった。


 救えなかった命が、たくさんある。


 それでも。


 もっと早く避難指示が出ていなかったら。観測データが間に合わなかったら。


 死者数は、もっと増えていたはずだ。


 私のデータが、誰かを救ったかもしれない。


 そう思うことにした。



         ◆



 深夜。


 観測室に一人、残っていた。


 他のスタッフはとっくに帰宅している。私だけが、モニターの前に座っていた。


 データを見ているふりをして、実際は何も考えていなかった。


 ——神谷三佐。


 あの人に出会わなければ、こんな気持ちにはならなかった。


 冷静に。論理的に。感情を挟まずに。


 そうやって仕事をしてきた。


 でも、あの人は違った。


 自分の命を省みず、目の前の一人を救うために飛び込んでいく。


 論理では説明できない。合理的でもない。


 それでも——美しいと思った。


 その在り方が。


 だから惹かれた。


 惹かれてしまった。



         ◆



 でも、それでいい。


 海野さんがいる。神谷三佐には、帰る場所がある。


 あの人が「生きたい」と思えるようになった。


 それは、海野さんの力だ。


 私には、できなかったこと。


 悔しいとは思わない。


 ——嘘だ。


 悔しい。


 少しだけ、じゃない。本当は、すごく悔しい。


 私だって、あの人の傍にいたかった。


 あの人に、私を見てほしかった。


 でも——選ばれなかった。


 それだけのことだ。


 分かってる。理屈では、分かってる。


 でも、心が追いつかない。


 それでも。


 良かった、と思う。


 神谷三佐が、笑えるようになって。


 自分を大切にできるようになって。


 ——矛盾してる。


 悔しいのに、嬉しい。


 苦しいのに、安心してる。


 人間の感情って、こんなにぐちゃぐちゃなものなんだ。


 科学では、説明できない。



         ◆



 翌朝。


 仮設住宅の入居許可が下りた。


 私は海野さんを呼び出して、書類を渡した。


「来週から入居できます。場所は静岡市内。基地からは少し離れますが、交通の便は悪くないはずです」


「ありがとうございますっ!」


 海野さんは、書類を大事そうに受け取った。


「神谷三佐にも報告を。……彼も、安心するでしょう」


「はいっ。杉浦さん、本当にいろいろありがとうございましたっ」


 海野さんが頭を下げる。


 私は、少し照れくさくて、顔を背けた。


「仕事だから。礼を言われることじゃない」


「でも、杉浦さんがいなかったら、私、どうしていいか分からなかったと思います」


 海野さんの瞳は、真っ直ぐだった。


 嘘がない。本心からそう言っている。


「……そう」


 それだけ答えて、私は書類の整理に戻った。


 海野さんが部屋を出ていく。


 一人になって、私は小さく息を吐いた。


 ——これでいい。


 私の役目は、ここまで。


 あとは、あの二人が歩いていく。



         ◆



 午後、神谷三佐が観測室に来た。


 珍しい。いつもは私から出向くのに。


「杉浦」


「神谷三佐。何か」


「凛から聞いた。仮設住宅の件、世話になった」


「仕事です」


 そっけなく答える。いつもの私だ。


 神谷三佐は、少し間を置いてから言った。


「……お前も、休め。顔色が悪い」


「……海野さんと同じこと言いますね」


「あいつに言われたのか」


「ええ。お節介な人たちだ」


 軽口のつもりだった。


 でも、神谷三佐は真剣な顔で続けた。


「俺は——お前に、助けられた」


「は?」


「観測データ。避難指示のタイミング。お前がいなかったら、もっと多くの人間が死んでいた」


 私は、言葉に詰まった。


「……当然のことをしただけです」


「当然じゃない。お前にしかできなかった」


 神谷三佐の目が、真っ直ぐに私を見ている。


 この人は、いつもこうだ。


 言葉は少ない。でも、嘘がない。


「だから、礼を言う。ありがとう」


 私は——何と答えていいか、分からなかった。


 顔が熱くなる。


「……別に。礼を言われるほどのことじゃ」


「素直に受け取れ。お前の悪い癖だ」


 神谷三佐が、かすかに口元を緩めた。


 その表情が——ずるいと思った。



         ◆



 神谷三佐が部屋を出た後、私はしばらく動けなかった。


 胸の奥が、じんわりと温かい。


 ——ダメだ。


 こんなことで浮かれていたら。


 あの人には、海野さんがいる。私は、それを分かっている。


 でも。


 「お前にしかできなかった」


 その言葉が、頭から離れなかった。


 ——やめろ。


 期待するな。勘違いするな。


 あれは、同志としての感謝だ。それ以上でも、それ以下でもない。


 分かってる。


 分かってるのに、胸が苦しい。



         ◆



 夕暮れ。


 私は屋上に上がって、空を見上げた。


 オレンジ色の光が、雲を染めている。


 綺麗な夕焼けだった。


 ——報われなくても、いい。


 神谷三佐が変わった。海野さんが傍にいる。


 それで、いい。


 私は私の仕事をする。


 データを集め、分析し、予測する。


 それが、私にできること。


 あの人たちを——この国を、守るために。


 恋心は、胸の奥に仕舞い込む。


 でも、なくなったわけじゃない。


 消えたわけでも、諦めたわけでもない。


 ——本当に諦められたら、こんなに苦しくない。


 ただ——形を変えた。


 想いは、これからも続いていく。


 違う形で、あの人を支える力になる。


 それが、私の答えだ。


 納得なんか、してない。


 でも、これしかない。



         ◆



 屋上から戻ろうとした時、背後で声がした。


「杉浦さん」


 振り返ると、海野さんが立っていた。


「海野さん。どうして」


「杉浦さんを探してたんですっ。お夕飯、一緒にどうですか?」


 海野さんは、いつものように穏やかな顔をしている。


「……私は、仕事が」


「少しくらい、休んでくださいっ。神谷三佐も、そう言ってましたよ」


 海野さんが、私の手を取った。


 温かい手だった。


「行きましょうっ」


 私は——抵抗する気力がなかった。


 というより、抵抗する理由がなかった。


「……分かった」


 海野さんに手を引かれて、食堂に向かう。


 夕焼けの光が、二人の影を長く伸ばしていた。



         ◆



 食堂で、海野さんと向かい合って座った。


 神谷三佐は、まだ任務の後処理があるらしい。


 二人きりの夕食。


 海野さんは、味噌汁を一口飲んでから言った。


「杉浦さん」


「何」


「神谷三佐のこと、好きですよね」


 私は——箸を落としそうになった。


「……なっ」


「違いますか?」


 海野さんの瞳は、穏やかだった。責めているわけでも、警戒しているわけでもない。


 ただ、真っ直ぐに聞いている。


「……どうして、そう思うの?」


「なんとなく。杉浦さん、神谷三佐のこと見てる時、優しい目をしてるからっ」


 ——この子は。


 天然なのか、鋭いのか、分からない。


 私は、観念した。


「……そうね。好きだった」


「だった?」


「今も好き。でも、諦めた」


 言葉にすると、不思議と楽になった。


 ——嘘だ。楽になんか、なってない。


 でも、口にしなければ、もっと苦しかった。


「あの人には、あなたがいる。私の出る幕じゃない」


 海野さんは、少し困ったような顔をした。


「杉浦さん……」


「気にしないで。私が勝手に好きになって、勝手に諦めただけ。あなたを恨む理由なんて、どこにもない」


 本心だった。


 海野さんは何も悪くない。神谷三佐も、何も悪くない。


 ただ、私の想いが届かなかっただけ。


「……ありがとうございます」


 海野さんが、小さく頭を下げた。


「謝ることじゃないでしょう」


「謝ってるんじゃないですっ。感謝してるんです」


 海野さんは、真剣な顔で言った。


「杉浦さんが、神谷三佐を支えてくれたから。今、あの人は変われたんだと思いますっ」


「……そう」


「私一人じゃ、きっと無理でした。杉浦さんがいてくれたから」


 海野さんの言葉は、温かかった。


 この子は——本当に、ずるい。


 恨みたくても、恨めない。



         ◆



 食事を終えて、食堂を出た。


 外は、もう暗くなっていた。


「杉浦さん」


「何」


「これからも、よろしくお願いしますっ」


 海野さんが、ぺこりと頭を下げた。


「……何がよろしく、なの」


「全部ですっ。お仕事のことも、神谷三佐のことも。私、杉浦さんのこと、好きですから」


 私は——何と言っていいか、分からなかった。


「……変な子」


「よく言われますっ」


 海野さんは、ころころと声を上げた。


 その声を聞いていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……こちらこそ」


 小さな声で答えた。


「これからも、よろしく」



【第34章 終】


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