第33章「はじまりの日」
第33章「はじまりの日」
【海野凛視点】
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
目を開けると、見慣れない天井があった。
一瞬、ここがどこか分からなくて、心臓が跳ねた。
——そうだ。浜松基地の宿泊施設。
昨夜、杉浦さんが手配してくれた部屋だった。
◆
ベッドから起き上がって、窓の外を見る。
基地の敷地が広がっている。滑走路。格納庫。忙しく動き回る隊員たち。
私の町とは、何もかも違う景色。
でも、これが今の私の現実だった。
おばあちゃんは、もういない。
あの町も、もうない。
分かってる。全部、分かってる。
それでも、まだ実感が湧かなかった。
◆
洗面台で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、思っていたより普通だった。
目は少し腫れていたけれど、泣き疲れた痕跡はそれくらいだった。
昨日、あれだけ泣いたのに。
迅くんの腕の中で、声を上げて泣いた。子どもみたいに、恥ずかしいくらいに。
でも、あの時間があったから、今こうして立っていられる。
◆
部屋を出ると、廊下で杉浦さんと顔を合わせた。
「おはようございます、海野さん」
「おはようございますっ」
杉浦さんの表情は、いつもより少し固かった。
何かを堪えているような。でも、それを悟られまいとしているような。
「よく眠れましたか」
「はい、おかげさまで」
嘘だった。
何度も目が覚めた。その度に、天井を見上げて、ここが基地だと確認した。
でも、杉浦さんにそんなことを言っても、困らせるだけだ。
「神谷三佐は、もう出発しています」
「えっ」
「今朝早くに、救助任務で出動したそうです」
迅くんが、もう行ってしまった。
一瞬、胸がきゅっと締め付けられた。
昨夜、「一緒に乗り越えよう」と言ってくれたのに。朝には、もういないなんて。
「……そう、なんですね」
「連絡は、夕方には入ると思います」
杉浦さんの声は、事務的だった。
でも、私には分かった。
杉浦さんも、迅くんのことが気になっているんだ。
◆
食堂で、簡単な朝食を取った。
パンと、スープと、サラダ。
味は、よく分からなかった。
ただ、食べなければいけないと思って、機械的に口に運んだ。
「海野さん」
杉浦さんが、向かいの席に座った。
「今日、一時安置所への手続きがあります。ご同行いただけますか」
「はいっ」
おばあちゃんの、遺体の確認。
それから、葬儀の手配。
やるべきことは、たくさんある。
——泣いてる場合じゃない。
私は、一人だ。
おばあちゃんを送り出せるのは、私しかいない。
◆
一時安置所は、基地から車で三十分ほどの場所にあった。
体育館のような大きな建物。
中に入ると、冷たい空気が肌を刺した。
床には、白い布をかけられた担架が、整然と並んでいる。
一つ一つが、誰かの大切な人だった。
「海野トメさんの、ご遺体の確認をお願いします」
案内された場所で、白い布がめくられた。
おばあちゃんの顔が、見えた。
昨日と同じ、穏やかな表情だった。
◆
確認の書類に、サインをした。
手が震えなかったことに、自分でも驚いた。
「葬儀については、どのようになさいますか」
担当の人が、事務的に聞いてきた。
悪い人じゃない。きっと、毎日何十人もの遺族と同じ会話をしているんだろう。
「火葬で、お願いしますっ」
「分かりました。お墓については」
「……まだ、決めていません」
私の町は、もうない。
おじいちゃんのお墓も、お父さんとお母さんのお墓も、きっと流されてしまった。
おばあちゃんをどこに埋葬すればいいのか、分からなかった。
「急がなくても大丈夫ですよ」
担当の人が、少しだけ優しい声になった。
「お骨は、こちらでお預かりできます。落ち着いてから決めてください」
「……助かります」
◆
手続きが終わって、建物の外に出た。
空は青かった。
おばあちゃんが死んだのに、世界は何も変わらない。
当たり前のことなのに、少しだけ理不尽に感じた。
「海野さん」
杉浦さんが、隣に立っていた。
「少し、歩きませんか」
「……はいっ」
◆
安置所の近くに、小さな公園があった。
ベンチに座って、二人で空を見上げた。
「海野さん。今後のことなんですが」
「はい」
「当面、基地の宿泊施設を使っていただいて構いません。神谷三佐からも、そう伝えるよう頼まれています」
「迅くんが?」
「ええ。今朝、出発前に」
迅くん。
私のこと、ちゃんと考えてくれていたんだ。
黙って行ってしまったんじゃなくて、杉浦さんに伝言を残してくれていた。
嬉しいような、切ないような。言葉にできない気持ちが胸に広がった。
「ただ、長期的には別の住居を探す必要があります」
「そう、ですよね」
「被災者向けの仮設住宅の申請も、私の方で手続きを進めています」
杉浦さんは、淡々と説明を続けた。
でも、その淡々さが、逆に有難かった。
感情的に同情されるより、実務的に助けてもらう方が、今の私には楽だった。
「杉浦さん」
「はい」
「本当に、いろいろ助けてもらって……嬉しいですっ」
「……仕事ですから」
杉浦さんは、少しだけ視線を逸らした。
「それに、神谷三佐から頼まれましたので」
そう言う杉浦さんの横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
何かを飲み込むような、静かな痛みが、そこにはあった。
◆
夕方、基地に戻ると、迅くんからメッセージが入っていた。
『今日は遅くなる。夕食は先に済ませておけ。明日の朝には戻る』
短いメッセージ。
でも、それだけで安心した。
迅くんは、生きている。
帰ってくる。
◆
夜、宿泊施設の部屋で、一人で考えた。
これからのこと。
私には、何もない。
家も、町も、家族も。
でも、何もないわけじゃない。
——迅くんがいる。
それだけで、生きていける気がした。
おばあちゃんが言っていた。
「お前は強い子だから、大丈夫」って。
強くなんかない。
一人だったら、きっと立っていられなかった。
でも、迅くんがいてくれるから。
私は、ちゃんと生きていく。
◆
翌朝。
迅くんが、基地に戻ってきた。
格納庫の前で、ヘリから降りてくる迅くんを見つけた。
飛行服のまま、少し疲れた顔をしている。
でも、私を見つけると、その表情が少しだけ緩んだ。
「凛」
「おかえりなさいっ」
私は、走り寄った。
人目があることは、分かっていた。
でも、気にならなかった。
「迅くん、大丈夫ですか? 怪我とか、してないですか?」
「大丈夫だ」
迅くんの手が、私の頭に置かれた。
ぽんぽん、と軽く叩かれる。
「お前こそ、ちゃんと眠れたか」
「……うん。大丈夫ですっ」
今度は、嘘じゃなかった。
昨夜は、少しだけぐっすり眠れた気がする。
◆
格納庫の隅のベンチで、二人で座った。
迅くんは、缶コーヒーを飲んでいる。
「葬儀の手配、進んでるか」
「うん。杉浦さんが、いろいろ助けてくれて」
「そうか」
「火葬は、明後日になりそうです」
「分かった。俺も行く」
迅くんが、当たり前のように言った。
私は、少し驚いた。
「でも、任務が……」
「休みを取る」
「いいんですか?」
「お前一人で行かせるわけにいかないだろ」
迅くんの声は、静かだった。
でも、その言葉には、有無を言わせない強さがあった。
「……嬉しい」
「礼を言うことじゃない」
迅くんは、空を見上げた。
「トメさんには、俺も世話になった」
「そうだったね」
「お前を、託された」
迅くんが、私の方を向いた。
「だから、最後まで見届ける。それが、俺にできることだ」
◆
二日後。
おばあちゃんの火葬が行われた。
小さな斎場で、参列者は私と迅くんだけだった。
本当は、杉浦さんも来てくれようとしたけれど、仕事があるからと遠慮した。
棺の中のおばあちゃんは、あの日と同じ穏やかな顔をしていた。
「おばあちゃん」
最後に、声をかけた。
「今まで、ありがとう」
炉の扉が閉まって、おばあちゃんの姿が見えなくなった。
涙は、出なかった。
もう、泣き尽くしたのかもしれない。
でも、胸の奥は空っぽじゃなかった。
悲しいのに、同時に穏やかな何かがあった。
——おばあちゃんは、最後まで笑っていた。
その記憶が、私を支えていた。
◆
火葬が終わって、骨を拾った。
小さな骨壺に、おばあちゃんが入った。
こんなに小さくなってしまうんだ、と思った。
あんなに温かかった人が。
あんなに大きく感じていた人が。
「凛」
迅くんが、私の肩に手を置いた。
「帰ろう」
「……うんっ」
◆
基地に戻る車の中で、骨壺を抱えていた。
おばあちゃんの重さ。
もう、こうやって触れることしかできない。
「迅くん」
「何だ」
「おばあちゃんのお骨、どこに埋葬しようか、まだ決められなくて」
「急がなくていい」
「でも」
「落ち着いてから決めればいい。俺のところに、当面は置いておけ」
「迅くんのところ?」
「基地の宿舎に、仏壇くらいは置けるスペースがある」
迅くんは、前を向いたまま言った。
「お前が新しい住処を見つけるまで、一緒に預かる」
その言葉に、胸が詰まった。
嬉しいとも、安心したとも、少し違う。
言葉にならない。ただ、救われた気がした。
「……迅くん」
「礼は要らない」
◆
夕暮れの基地に着いた。
滑走路の向こうに、太陽が沈みかけている。
オレンジ色の光が、空を染めていた。
「きれい」
思わず、呟いた。
「ああ」
迅くんが、隣に立った。
「明日からまた、忙しくなる」
「任務ですか?」
「ああ。まだ、捜索が必要な地域がある」
「そっか」
私は、骨壺を抱えたまま、夕日を見つめた。
「迅くん」
「何だ」
「私、待ってますから」
迅くんが、私を見た。
「任務から帰ってきたら、私がいますから。だから、ちゃんと帰ってきてくださいね」
迅くんは、少しだけ目を見開いた。
それから、不器用に笑った。
「……ああ。帰ってくる」
夕日が、二人を照らしていた。
おばあちゃんを失って、町を失って、何もかもなくなったけれど。
私には、まだある。
迅くんがいる。
明日が来る。
そして、私は生きていく。
おばあちゃんが教えてくれたこと、全部胸に抱えて。
今日から、また一歩ずつ。
【第33章 終】




