第32章「帰路」
第32章「帰路」
【神谷迅視点】
凛が泣き止むまで、どれくらい時間が経っただろう。
俺は何も言わずに、ただ凛を抱きしめていた。
背中に回した手に、凛の震えが伝わってくる。少しずつ、それが小さくなっていった。
◆
日が傾き始めていた。
西の空が橙色に染まり始め、瓦礫の上に長い影を落としている。
凛はようやく顔を上げた。目元は赤く腫れていたが、その瞳には不思議な静けさがあった。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
「こんなに、迷惑かけて」
「泣きたい時に泣けないほうが問題だ」
俺の言葉に、凛は小さく笑った。
泣いた後の、少しだけ軽くなったような笑顔だった。
◆
隊長が、静かに近づいてきた。
「海野さん。ご遺体の収容準備が整いました」
凛が頷く。
「ありがとうございます」
「一時安置所へ搬送し、その後ご親族の確認をいただく形になります。お身内は……」
凛の表情が、一瞬だけ曇った。
「私だけです」
両親は八年前の津波で亡くなっている。トメが最後の肉親だった。
「そうですか」
隊長は深く頭を下げた。
「心よりお悔やみ申し上げます」
◆
収容作業が始まった。
隊員たちがトメの遺体を担架に乗せ、白いシーツで覆う。
凛はその様子を、じっと見つめていた。
俺は凛の隣に立ったまま、何も言えなかった。
言葉にならなかった。
ただ、凛がそばにいることだけを示すように、肩に手を置いた。
「……おばあちゃん」
凛が、小さく呟いた。
「行ってくるね」
その声は震えていなかった。
決意のこもった、静かな声だった。
◆
搬送用のヘリが到着するまで、少し時間があった。
凛は高台の端に立ち、町だった場所を見下ろしていた。
俺は少し離れた場所から、その背中を見守っていた。
「神谷三佐」
杉浦の声だった。
振り返ると、杉浦が資料を手にこちらへ歩いてくるところだった。
「現地の状況、まとめておきました。報告書に使えるかと」
「……ありがとう」
「礼を言われることじゃありません」
杉浦は凛の方をちらりと見て、それからすぐに視線を逸らした。
その横顔に、一瞬、何かを飲み込むような影が過った。
「海野さん、大丈夫そうですか」
「分からない。強い子だ」
「そうですね」
杉浦の声には、複雑な響きがあった。資料を握る指先が、わずかに白くなっている。
「強くなきゃ、やってられないですものね」
そう言って、杉浦は背を向けた。
その足取りが、いつもより少しだけ速い気がした。
◆
杉浦が去った後、俺は凛のそばへ歩いていった。
「凛」
「……うん」
凛は振り返らなかった。ただ、町の跡を見つめ続けている。
「ここに住んでたんだ、私」
「ああ」
「小さい頃、あの辺りでよく遊んでた。お父さんとお母さんと、三人で」
凛が指差した先には、何もなかった。瓦礫と泥だけが広がっている。
「おばあちゃんが、いつも見守ってくれてた。縁側から、私のこと見てて」
「……」
「全部、なくなっちゃった」
その声は、不思議と穏やかだった。
「なくなってないものもある」
凛が、ようやく俺の方を向いた。
◆
「お父さんとお母さんが私に教えてくれたこと。おばあちゃんが私に伝えてくれたこと。それは、ここにあるから」
凛が、自分の胸に手を当てた。
「だから、私は生きていく。おばあちゃんの分も、お父さんとお母さんの分も」
俺は、何も言えなかった。
目の前にいるのは、俺が守ろうとしていた少女ではなかった。
俺よりもずっと強い、一人の人間だった。
「迅くん」
「……何だ」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
その言葉に、胸の奥が締め付けられた。
「俺は……何もしてない」
「そんなことないよ」
凛が、笑った。
「迅くんがいてくれたから、私は泣けたの。一人だったら、きっと泣けなかった」
◆
ヘリの音が、遠くから聞こえてきた。
迎えのヘリが到着したのだ。
「行くか」
「うん」
凛が頷いた。
俺たちは高台から降り、着陸地点へ向かった。
凛は一度だけ振り返り、町の跡を見た。
そして、小さく頭を下げた。
「さよなら」
その声は、風に消えた。
◆
ヘリに乗り込むと、杉浦が既に座っていた。
凛が俺の隣に座り、シートベルトを締める。
機体が浮き上がり、高度を上げていく。
窓の外で、町の跡がどんどん小さくなっていった。
凛は窓に顔を近づけて、それを見つめていた。
「凛」
「……大丈夫」
凛が、俺の方を見た。
「もう、大丈夫だよ」
その目には、涙はなかった。
代わりに、静かな光があった。
◆
帰路は、静かだった。
ローターの音だけが、機内に響いている。
杉浦は資料に目を落としていた。凛は窓の外を見つめている。
俺は、凛の横顔を見ていた。
——トメが言っていた。
「凛を頼む」と。
「凛は迅ちゃんのことが好きなんだよ」と。
俺は、その言葉を凛に伝えた。
まだ伝えていないことがある。
「凛」
「うん?」
「……これから、どうするか。決まってるか」
凛は少し考えて、首を横に振った。
「まだ、分からない。おばあちゃんのお葬式のこととか、これからどこに住むかとか……全然、考えられてない」
「そうか」
「一つだけ、決めてることがある」
凛が、俺の目を見た。
◆
「迅くんの傍にいたい」
凛は、はっきりとそう言った。
「迷惑じゃなければ、だけど」
「迷惑なわけがない」
声が、思ったより強く出た。
「俺も……お前の傍にいたい」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。
嘘じゃない。
俺は凛のことが大切だ。
失いたくない。
守りたい。
それだけじゃない。
「お前がいると、俺は」
言葉を探した。
「……生きたい、と思える」
凛の目が、大きくなった。
「迅くん……」
「前は、そんなこと考えたことなかった。目の前の誰かを救うことだけ考えてた。自分のことなんか、どうでもよかった」
「……うん」
「今は、違う」
気づいたら、凛の手を取っていた。
「お前と一緒に生きたい。そう思ってる」
◆
凛の目が潤んだ。
唇が震えて、何かを言おうとして、言葉にならない。
「……私も」
凛が、俺の手を握り返した。
「私も、迅くんと一緒に生きたい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かが、緩んだ気がした。
八年間、ずっと抱えていた重さが、少しだけ軽くなった。
——お袋の最後の電話。出られなかった後悔。
それは消えない。きっと一生、消えない。
もう一人で抱え込まなくていいのかもしれない。
凛がいる。
それだけで、生きていける気がした。
◆
杉浦が、資料から顔を上げた。
俺たちの繋いだ手を見て、一瞬だけ息を止めたように見えた。
すぐにいつもの冷静な顔に戻る。その切り替えが、逆に痛々しかった。
「神谷三佐。浜松基地に到着後、報告書の作成があります」
「分かってる」
「海野さんは、基地の宿泊施設を手配しました。今夜はそちらで休んでください」
「ありがとうございます、杉浦さん」
凛が頭を下げた。
「本当に、いろいろとお世話になって」
「気にしないでください」
杉浦の声は、いつもより少しだけ硬かった。
「それが、私の仕事ですから」
窓の外を向いた杉浦の横顔は、夕日に照らされて、表情が読めなかった。
◆
浜松基地が見えてきた。
滑走路の灯りが、夕闇の中で点灯し始めている。
俺は窓の外を見ながら、考えていた。
トメの葬儀の手配。凛の今後の住居。俺自身の任務。
やるべきことは山積みだ。
災害はまだ終わっていない。被災地では今も、救助を待っている人がいる。
今夜だけは。
凛の傍にいよう。
そう決めた。
◆
ヘリが着陸した。
機体の揺れが収まり、ドアが開く。
外の空気が流れ込んでくる。潮の匂いはない。代わりに、基地特有の油と金属の匂い。
凛がシートベルトを外し、立ち上がった。
「迅くん」
「ああ」
俺も立ち上がり、凛の手を取った。
二人で、ヘリを降りる。
沈みゆく夕日が、滑走路を赤く染めていた。
「明日から、また大変になるね」
凛が言った。
「ああ」
俺は凛の方を向いた。
「一緒に乗り越えよう」
凛が、笑った。
涙の跡が残った頬で、それでも笑った。
「うん。一緒に」
【第32章 終】




