第31章「帰郷」
第31章「帰郷」
【海野凛視点】
ヘリが、海沿いを飛んでいく。
窓の向こうに広がる景色を、私は見つめ続けていた。
見慣れているはずの海岸線。見覚えのあるはずの町並み。
でも、そこに広がっているのは、私の知らない光景だった。
◆
浜松基地を出発してから、四十分ほど経っていた。
ヘリの中には、迅くんと杉浦さん、そして捜索隊の隊員たちが乗り込んでいる。
私は迅くんの隣に座って、窓の外を見ていた。
何か話さなければ、と思うのに、言葉が出てこなかった。
「凛」
迅くんの声で、我に返った。
「もうすぐ着く。覚悟しておけ」
静かな声だった。でも、その言葉の重さは分かっていた。
「……はい」
私は頷いた。
◆
窓の外で、景色が変わり始めた。
最初に見えたのは、傾いた電柱。折れ曲がった看板。道路に散乱した何か。車のパーツだろうか。
それが、段々と増えていった。
傾いていた建物が、半壊になり、全壊になり、そして何もなくなった。
更地。
そこにあったはずの建物が、全て消えている。
瓦礫の山と、茶色く変色した泥だけが広がっている。
「……」
声が出なかった。
分かっていた。覚悟していた。
杉浦さんから聞いた時も、迅くんから伝えられた時も、ちゃんと受け止めたつもりだった。
でも。
これを、見るのとは、違う。
◆
「着陸態勢に入ります」
パイロットの声が、機内に響いた。
ヘリが高度を下げていく。
窓の外に広がる景色が、どんどん近づいてくる。
私は目を逸らさなかった。
逸らしてはいけないと思った。
これが、私の故郷だから。
おばあちゃんが残った、この町だから。
◆
ヘリが着陸したのは、高台の公園だった。
かつて、ここから町を見下ろした記憶がある。お父さんとお母さんと三人で、花火を見に来た夏の夜。
でも今、その場所から見える景色は。
「凛」
迅くんが、私の手を握った。
「降りるぞ」
私は頷いた。声を出せなかった。
ヘリのドアが開いて、外の空気が流れ込んでくる。
潮の匂い。土の匂い。そして、何か焼けたような、腐ったような、嗅いだことのない匂い。
足が竦んだ。
でも、迅くんの手が、私を支えていた。
◆
公園から見下ろす町は、町ではなかった。
茶色い泥と瓦礫の海。折れ曲がった電柱。横転した車。
ところどころに、かつて建物だったものの残骸が突き出ている。
壁だけが残っている家。屋根だけが残っている家。何もかも押し流されて、基礎だけが露出している場所。
あの角を曲がったところに、コンビニがあったはずだ。
あの通りに、小さな本屋さんがあったはずだ。
あの場所に。
私の家が、あったはずだ。
「……」
何も、見えなかった。
全部、消えていた。
◆
「海野さん」
杉浦さんの声だった。
「大丈夫ですか」
私は、何と答えればいいのか分からなかった。
「……はい」
声が掠れた。
「大丈夫、です」
嘘だった。全然大丈夫じゃなかった。
でも、そう言わなければ、立っていられない気がした。
「捜索隊が二手に分かれます」
杉浦さんが、私に説明してくれた。
「一隊は避難所として使われていた小学校の跡地へ。もう一隊は、沿岸部の被害が大きい地区へ」
「おばあちゃんの家は……」
私は、声を絞り出した。
「沿岸部、です」
◆
迅くんが、捜索隊の隊長と話をしていた。
私は少し離れた場所で、町を。町だった場所を、見つめていた。
足元には、瓦礫が転がっている。
拾い上げてみると、それは写真立てだった。
割れたガラスの向こうに、ぼやけた写真が見える。誰かの家族写真。笑顔で寄り添う四人家族。
この人たちは、今どこにいるんだろう。
無事だといい。生きていてほしい。
でも。
八メートルの津波から、どれだけの人が逃げられたんだろう。
「凛」
迅くんが戻ってきた。
「沿岸部に向かう。俺と一緒に来い」
「はいっ」
私は写真立てを、元の場所に戻した。
どこかの誰かが、これを探しに来るかもしれないから。
◆
瓦礫の中を歩くのは、想像以上に大変だった。
足元がぬかるんでいる。泥が、靴にまとわりつく。
ところどころに、水たまりのように見えるものがある。でもそれは水たまりじゃなくて、海水だ。まだ引いていない海水が、低い場所に溜まっている。
「足元に気をつけろ」
迅くんが、私の前を歩きながら言った。
「釘やガラスが埋まってる可能性がある。長靴を履いてるとはいえ、踏み抜いたら危ない」
「はい」
私は迅くんの後を、慎重についていった。
杉浦さんは、もう一つの捜索隊と一緒に小学校の跡地へ向かった。「現地の地質状況を確認する」と言っていたけれど、たぶん、違う。
杉浦さんは、私たちのために場所を空けてくれたんだと思う。
◆
歩きながら、私は辺りを見回していた。
見覚えのある場所を探していた。
でも、何も分からなかった。
道路がどこだったのかすら、分からない。
建物が全てなくなると、こんなにも景色は変わってしまうんだ。
「あの……」
私は、捜索隊の隊員さんに声をかけた。
「すみません。ここは……どの辺りですか」
隊員さんは、手元の地図を確認してくれた。
「元・浜通り商店街の辺りです。沿岸部まであと二百メートルほど」
浜通り商店街。
知ってる。
おばあちゃんとよく買い物に来た場所だ。
あの八百屋さん。あの魚屋さん。あの和菓子屋さん。
全部、消えている。
「……」
目の奥が熱くなった。
でも、泣いている場合じゃない。
おばあちゃんを、探さなければ。
◆
沿岸部に近づくにつれて、被害は酷くなっていった。
建物の残骸すらまばらになり、代わりに船が陸に打ち上げられていた。
漁船だ。
元々は港にあったものが、ここまで流されてきたんだ。
その船の下敷きになっている、潰れた車。
その横に転がっている、何かの看板。
そして。
「止まれ」
迅くんが、私を制した。
「あの辺りは地盤が緩んでる。俺が先に確認する」
「でも」
「いいから、待ってろ」
迅くんの声は、有無を言わさない強さがあった。
私は、頷くしかなかった。
◆
迅くんが前に進んでいく間、私はその場に立ち尽くしていた。
辺りを見回す。
どこかに、見覚えのあるものはないか。
おばあちゃんの家の手がかりになるものはないか。
あった。
足元に、何か青いものが埋まっている。
しゃがんで、泥をかき分ける。
それは、看板の一部だった。
「海野」という文字が、かろうじて読める。
海野鮮魚店。
おじいちゃんが生きていた頃、魚屋をやっていた。
私が生まれる前に店は畳んだけれど、看板だけは、おばあちゃんがずっと庭に飾っていた。
ここだ。
ここが、おばあちゃんの家があった場所だ。
◆
「迅くんっ」
気がついたら、私は叫んでいた。
「ここです! おばあちゃんの家は、ここですっ」
迅くんが振り返った。
「待ってろと言っただろ」
「でも」
私は立ち上がって、辺りを見回した。
何もなかった。
家があった場所には、何もなかった。
基礎の跡すら、分からない。
全て。全て、流されていた。
「……」
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちそうになって。
「凛っ」
迅くんが駆け寄ってきて、私を支えた。
「しっかりしろ」
「……迅くん」
私は、迅くんの胸に顔を埋めた。
「なくなってる。全部、なくなってる」
視界が滲んだ。
「おばあちゃんの家も、おじいちゃんの看板も、お父さんとお母さんの写真も。全部」
◆
どれくらい、そうしていただろう。
迅くんは何も言わずに、私を抱きしめてくれていた。
捜索隊の人たちが、少し離れた場所で作業を続けているのが聞こえた。
瓦礫をどかす音。声を掛け合う声。
生存者を探している。
私も、泣いている場合じゃない。
「……ごめんなさい」
私は顔を上げた。
「もう、大丈夫です」
「無理するな」
「無理じゃないですっ」
声が上ずった。
「私……おばあちゃんを探さなきゃ。ここで泣いてる場合じゃ」
「凛」
迅くんが、私の頬に手を当てた。
「お前が泣くのは、悪いことじゃない」
「でも」
「泣きたい時は泣いていい。俺がここにいる」
その言葉に、また何かが込み上げてきた。
でも今度は、悲しみだけじゃなかった。
迅くんがいてくれることへの、安心感だった。
◆
目元を拭って、私は立ち上がった。
迅くんに手を引かれて、捜索隊に合流する。
「すみません、お待たせしました」
隊長さんが、優しい目で私を見た。
「気にしないでください。ご実家の場所は特定できましたか」
「はいっ。あの看板が」
私は、青い看板を指差した。
「あれが、家にあったものです。だから……この辺りが」
隊長さんが頷いた。
「分かりました。重点的に捜索します」
◆
捜索が始まった。
隊員さんたちが、瓦礫をひとつひとつ確認していく。
生存者がいないか。遺留品がないか。
私も手伝おうとしたけれど。
「お前は離れてろ」
迅くんに止められた。
「でも」
「訓練を受けてない人間が瓦礫をいじると、二次災害の危険がある。それに」
迅くんは、言葉を切った。
「見つかった時、お前がいた方がいい場所がある」
おばあちゃんが、見つかった時。
私は、頷いた。
「分かりました」
私は少し離れた場所で、捜索を見守った。
祈るような気持ちで。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
三十分か。一時間か。
太陽が西に傾き始めた頃。
「こちら第二分隊、遺留品を発見しました」
無線が入った。
私の心臓が、跳ねた。
「現在地は、元・海野鮮魚店跡地の東側約十五メートル。仏壇の一部と思われる破片、及び」
隊員さんの声が、一瞬詰まった。
「衣類を発見。女性用と思われる。確認をお願いします」
気がついたら、私は走り出していた。
「凛っ」
迅くんの声が聞こえた。
でも、止まれなかった。
おばあちゃんの服かもしれない。おばあちゃんがいるかもしれない。
生きているかもしれない。
◆
現場に着いた時、隊員さんたちが瓦礫をどかしていた。
その中から、見覚えのある布地が見えた。
紺色の、花柄の。
おばあちゃんが、よく着ていた割烹着だ。
「……おばあちゃん」
声が掠れた。
「おばあちゃんっ」
迅くんが、後ろから私の肩を掴んだ。
「落ち着け」
「でも」
「今、隊員たちが確認してる。お前が近づくと危険だ」
私は足を止めた。
でも、目は逸らせなかった。
隊員さんたちが、慎重に瓦礫をどかしていく。
割烹着が、少しずつ見えてくる。
そして。
◆
隊員さんが、振り返った。
その表情を見た瞬間、私は全てを理解した。
「……」
首を、横に振っている。
「ご遺族の方ですか」
隊長さんが、私に近づいてきた。
「……はい」
「確認をお願いしてもよろしいですか。辛いとは思いますが」
「はいっ」
私は頷いた。
逃げない。逃げてはいけない。
おばあちゃんと、最後の別れをしなければ。
◆
隊員さんたちが場所を開けてくれた。
迅くんが、私の手を握ってくれた。
私は、ゆっくりと近づいた。
瓦礫の下から、おばあちゃんが見えた。
目を閉じている。
穏やかな顔だった。
まるで、眠っているみたいに。
「……おばあちゃん」
不思議だった。
声は震えなかった。
涙も、出てこなかった。
ただ、心の中に、静かな何かが広がっていった。
◆
おばあちゃんは、笑っていた。
そう見えた。
最後に、何を思っていたんだろう。
この町のことだろうか。おじいちゃんのことだろうか。お父さんとお母さんのことだろうか。
それとも、私のことだろうか。
「おばあちゃん」
私は、しゃがみ込んだ。
おばあちゃんの顔を、見つめた。
「……ありがとう」
言葉が、自然と出てきた。
「育ててくれて、ありがとう。私を、送り出してくれて、ありがとう」
頬に、温かいものが伝った。
「私、ちゃんと生きるから。おばあちゃんが教えてくれたこと、全部覚えてるから」
おばあちゃんは、何も答えなかった。
でも、分かった気がした。
おばあちゃんは、最後まで、この町と一緒にいることを選んだ。
それは、おばあちゃんの選択だった。
悲しいけれど、尊重するべき選択だった。
◆
「凛」
迅くんの声だった。
「……はい」
私は立ち上がった。
「大丈夫か」
「……はいっ」
目元を拭った。
「おばあちゃん、見つかりました」
迅くんは、何も言わなかった。
ただ、私を抱きしめてくれた。
強く、優しく。
私はその腕の中で、泣いた。
声を上げて泣いた。
おばあちゃんとの別れを、受け入れるために。
【第31章 終】




