第30章「告別」
第30章「告別」
【神谷迅視点】
観測室を出て、廊下を歩く。
足取りは重い。杉浦から聞いた言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
沼津市西部。浸水深最大八メートル。壊滅的被害。
そして——海野トメの安否が、確認できていない。
◆
凛は今、仮眠室で待っているはずだ。
俺が杉浦に呼ばれて出ていった後、「すぐ戻る」と言ったきり、もう一時間以上が経っている。
何と言って伝えればいい。
どんな顔をして、凛の前に立てばいい。
分からなかった。
こういう時、何が正解なのか。どんな言葉が相手を傷つけないのか。俺には、そういうことが分からない。
ただ——嘘はつけない。
凛には、真実を伝えなければならない。
◆
仮眠室の前で、足が止まった。
ドアの向こうに、凛がいる。
さっきまで——ほんの数時間前まで——俺たちは、穏やかな時間を過ごしていた。
「お前に会えて良かった」
「生きたいと思えるようになった」
そう伝えた。凛は泣きながら笑って、俺を抱きしめてくれた。
あの温もりを、今から壊そうとしている。
分かっていた。でも、避けることはできない。
◆
深く息を吸う。
ドアをノックした。
「凛。入るぞ」
返事を待たず、ドアを開けた。
凛は窓際に座っていた。外を見ていたのか、振り返る動作が一瞬遅れた。
「迅くんっ。遅かったですね、心配しましたよ」
いつもの笑顔。いつもの声。
その笑顔を見た瞬間、胸が軋んだ。
◆
「どうしたんですか? 顔色、悪いですよ」
凛が立ち上がって、俺の方へ歩いてくる。
「杉浦さんと、何かあったんですか? 任務の話?」
心配そうな目。俺の顔を覗き込もうとする。
俺は——口を開いた。
「凛。座ってくれ」
「え?」
「話がある」
凛の表情が変わった。
俺の声のトーンで、何かを察したのだろう。笑顔が消えて、真剣な顔になる。
「……分かりました」
凛はベッドの端に座った。俺はその前に立ったまま、言葉を探した。
◆
どう言えばいい。
「お前のおばあちゃんが行方不明だ」——そんな言い方でいいのか。
違う。もっと、もっと丁寧に。
でも、どれだけ言葉を飾っても、伝える内容は変わらない。
凛の故郷が壊滅したこと。凛のおばあちゃんの安否が分からないこと。
その事実は、どう伝えても凛を傷つける。
「迅くん」
凛の声で、我に返った。
「何があったんですか。私、待ってますから。ちゃんと聞きますから」
真っ直ぐな目だった。
どんな話でも受け止める。そう言っているような目。
俺は——膝をついた。
凛と同じ目線になるように。逃げないように。
◆
「杉浦から、被害状況の報告があった」
声が掠れた。
「沼津市西部——お前の故郷だ。津波の被害が、酷い」
凛の目が、微かに揺れた。
「浸水深は最大八メートル。沿岸部の建物は、ほとんど流されたらしい」
「……」
「お前の家も、たぶん——」
言葉が詰まった。
凛は何も言わなかった。ただ、俺を見ていた。
その目には、まだ「続きがある」と分かっているような色があった。
◆
「おばあちゃんの、ことですよね」
凛が言った。
静かな声だった。
「……ああ」
「安否が、分からないんですか」
俺は頷いた。
それ以上の言葉が出なかった。
凛は——しばらく、何も言わなかった。
窓の外を見ていた。冬の薄い光が、凛の横顔を照らしている。
表情は読み取れなかった。
◆
「……そう、ですか」
凛の声は、震えていなかった。
むしろ、不思議なほど落ち着いていた。
「まだ、分からないんですよね。見つかってないだけで……生きてるかもしれないんですよね」
「……ああ。行方不明者リストに名前があるだけだ。まだ、確定じゃない」
「じゃあ」
凛が、俺の方を向いた。
「まだ、希望はあるんですね」
その言葉に——俺は、何も言えなかった。
◆
浸水深八メートル。
その数字が意味することを、俺は知っている。
沿岸部に残っていた人間が、その津波から逃れられる確率は——低い。極めて低い。
トメばあちゃんは、避難指示の後も町に残っていた。
「私はここで待つよ」と言って、凛を送り出した。
あの町に残った理由を、俺は知らなかった。でも、きっと——
あの人は、分かっていたんだと思う。
自分がどうなるか。
それでも、残ることを選んだ。
◆
「迅くん」
凛の声で、顔を上げた。
凛は——笑っていた。
いつもの、穏やかな笑顔。でも、その目元が赤く滲んでいた。
「私、分かってたんです」
「……何を」
「おばあちゃんが、残ったこと。私を送り出した後、町を出なかったこと」
凛の声が、少しだけ震えた。
「最後に会った時——『幸せになりなさい』って言われたんです。『置いていく強さも必要だよ』って」
俺は黙って聞いていた。
「あれは——別れの言葉だったんだって、分かってました」
◆
凛の頬を、何かが伝った。
でも、凛は笑っていた。
「おばあちゃんは、私のために残ったんじゃないんです。この町が好きで——お父さんとお母さんの記憶がここにあって——だから、ここで終わりたかったんだと思います」
「凛……」
「私を送り出すのは、おばあちゃんなりの愛情で。でも、残ることも——おばあちゃんの選択で」
凛の手が、自分の胸元を押さえた。
「だから——私は、悲しいけど……恨んでないです。おばあちゃんを」
その言葉には、悲しみと、感謝と、そして諦めに似た何かが混じっていた。
言葉にできない複雑な感情が、凛の中で渦巻いているのが分かった。
◆
俺は——言葉が出なかった。
こんな時に、何と言えばいいのか。分からなかった。
「大丈夫だ」なんて嘘は言えない。
「きっと生きてる」なんて無責任なことも言えない。
でも——
「凛」
気づいたら、手を伸ばしていた。
凛の手を取る。小さくて、冷たくなっていた。
「俺は——何も言えない。気の利いた言葉も、慰めの言葉も、思いつかない」
「……」
「でも」
凛の手を、握りしめた。
「俺は、ここにいる。お前の傍に、いる」
◆
凛の目が熱くなったのが分かった。
堰を切ったように、嗚咽が漏れた。
「……迅くんっ……」
凛が、俺の胸に顔を埋めた。
小さな体が震えていた。声を殺して泣いていた。
俺は凛を腕の中に引き寄せた。
何も言わなかった。ただ、その体を支えていた。
それしか——できなかった。
◆
どれくらい、そうしていただろう。
凛の嗚咽が、少しずつ収まっていった。
俺の服は、凛の涙で濡れていた。でも、そんなことはどうでもよかった。
「……ごめんなさい」
凛が、顔を上げた。
目は真っ赤だった。でも、声の震えは止まっていた。
「泣いちゃいました。迅くんの服、濡れちゃいましたね」
「いい。気にするな」
「でも」
「いいんだ」
俺は凛の頬に触れた。濡れた跡を、指で拭う。
「お前は——強いな」
「そんなこと、ないですっ」
凛は首を振った。
「私、ずるいんです。分かってたから——覚悟してたから——泣けるんです」
◆
「覚悟していたから泣ける」
その言葉が、胸に刺さった。
凛は——分かっていたんだ。
おばあちゃんと別れた時から。あの「幸せになりなさい」という言葉を受け取った時から。
覚悟していた。
だから——今、泣ける。
「お前のおばあちゃんに、会ったことがある」
俺は言った。
凛が顔を上げた。
「前に——お前を迎えに行った時だ。トメばあちゃんが、俺に言った」
「何て……言ったんですか」
「『凛を頼む』って」
◆
凛の目が、大きく見開かれた。
「おばあちゃんが……」
「ああ。『あの子は強い子だけど、一人で抱え込むから』って。『迅ちゃんがいてくれると安心だ』って」
凛の目元が、また潤んだ。
「それから——」
俺は、少し迷ってから、続けた。
「『凛は迅ちゃんのことが好きなんだよ』って。教えてくれた」
「えっ」
凛の顔が、一瞬で赤くなった。
「お、おばあちゃん……何てこと言って……」
「だから——俺は、お前を守ると決めた」
凛が、俺を見た。
「トメばあちゃんに託されたからじゃない。お前のことが——大切だからだ」
◆
凛の目から、また何かが込み上げてきた。
今度は——嬉しいのか、悲しいのか、本人にも分からないような顔だった。
「迅くん……」
「俺は、お前のおばあちゃんを救えなかった」
声が震えた。
「避難指示を出すのが遅かったのかもしれない。もっと早く動いていれば——」
「違いますっ」
凛が、俺の胸を叩いた。
「迅くんのせいじゃないです。おばあちゃんは、自分で決めたんです。町に残るって」
「でも」
「それは——おばあちゃんの選択だったんです」
凛の目が、迷いのない強さで俺を見た。
「だから、迅くんは自分を責めないでください。お願いです」
◆
俺は——何も言えなかった。
救えなかった。
その事実は変わらない。
でも——凛がそう言うなら。
「……分かった」
俺は、凛の頭を撫でた。
「お前がそう言うなら——俺は、自分を責めない」
嘘だった。
完全に責めないなんて、できない。
でも——凛の前では、そう言わなければならないと思った。
これ以上、凛を苦しめたくなかった。
◆
「迅くん」
凛が、俺の手を握った。
「捜索隊が出るんですよね」
「……ああ。杉浦が同行するって言ってた。二時間後に」
「私も——行きたいです」
俺は、凛を見た。
「無理だ」
「でもっ」
「被災地だ。危険すぎる」
「でも——おばあちゃんが——」
凛の声が震えた。
「もし、生きてたら。私が行かなかったこと、後悔するかもしれない」
◆
俺は——考えた。
凛の気持ちは分かる。
もし俺が同じ立場だったら、同じことを言うだろう。
八年前。両親と妹が津波に呑まれた時——俺は何もできなかった。現場にさえ、行けなかった。
あの時の無力感は、今でも消えない。
凛に、同じ思いをさせたくない。
でも——
「……分かった」
俺は言った。
「俺が連れていく。杉浦の捜索隊に同行する」
「本当ですかっ」
「ただし、条件がある」
俺は凛の肩を掴んだ。
「俺の指示には絶対に従え。危険だと判断したら、すぐに離脱する。いいな」
凛は——頷いた。
「はいっ。約束します」
◆
窓の外では、冬の太陽がゆっくりと傾き始めていた。
二時間後——俺たちは、凛の故郷へ向かう。
そこに待っているのは、希望か。それとも——
分からない。
でも、行かなければならない。
凛のために。
そして——トメばあちゃんに託された約束を、果たすために。
「凛」
「はい」
「何があっても——俺は、お前の傍にいる」
凛は——微笑んだ。
目元が赤いまま、それでも、笑った。
「はいっ。私も——迅くんの傍に、います」
【第30章 終】




