第3章 数字と命
第3章 数字と命
【神谷迅視点】
その日の午後、俺は東京にいた。
杉浦からの緊急連絡を受けた上層部が、観測データの報告会議を招集したのだ。俺は「現場の目撃者」として呼び出され、午後一時には官邸の会議室に座っていた。
長いテーブルの周りに、十数人の人間が並んでいる。
内閣府の危機管理担当者。気象庁の幹部。防衛省の連絡官。そして、俺には見覚えのない顔がいくつか。
杉浦は、テーブルの端でノートパソコンを開いていた。頬がわずかにこけている。昨夜、ほとんど眠っていないのだろう。
「では、杉浦主任研究員。報告をお願いします」
議長役の男が促すと、杉浦は立ち上がった。
スクリーンに、今朝俺たちが見た海底の映像が映し出される。白い気泡が、無数に噴き出している光景。
「本日〇八四五、御前崎沖の観測ポイントにおいて、大規模な気泡噴出を確認しました」
杉浦の声は、淡々としていた。データを読み上げる研究者の声。意図的に抑揚を消しているのが分かる。
「気泡の成分分析はまだ完了していませんが、海底の水圧変動データと合わせて考えると、駿河トラフのプレート境界付近で、何らかの地殻変動が始まっている可能性があります」
「何らかの、とは」
質問したのは、テーブルの中央に座った女だった。
ショートボブの黒髪。薄いメイク。年齢は三十前後か。スーツの着こなしが、周囲の官僚たちとは少し違う。どこか、隙がない。
「東堂危機管理監補佐官」
杉浦が名前を呼んだ。二人は面識があるらしい。
「現時点では、断定できません。ただ、過去三ヶ月の地殻変動データと合わせて考えると——」
「断定できないなら、何が言えるんですか」
東堂という女の声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。
「私たちが知りたいのは、『いつ』『どこで』『どの規模の』地震が起きるのか、です。それが分からなければ、退避計画も立てられない」
「それは——」
「杉浦主任。あなたのチームは、三ヶ月前から『異常な歪みの蓄積』を報告し続けていますね。でも、その間、何も起きていない。今回も同じではないんですか」
会議室の空気が、張り詰めた。
俺は黙って、二人のやり取りを見ていた。
杉浦の肩が、わずかに強張っている。それでも、彼女は声を荒げなかった。
「東堂補佐官。地震予知は、そういうものではありません」
「そういうもの、とは」
「私たちにできるのは、『危険度の上昇』を示すことです。『いつ起きるか』を正確に予測することは、現在の科学では不可能です」
「では、今日のデータで、危険度はどれくらい上昇したんですか」
杉浦は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、静かに答えた。
「……従来の想定より、三〇パーセント以上高い確率で、今後一ヶ月以内にマグニチュード七以上の地震が発生する可能性があります」
会議室がざわついた。
「三〇パーセント?」
「一ヶ月以内?」
声が重なる中、東堂だけは表情を変えなかった。
「三〇パーセント、ですか」
「はい」
「つまり、七〇パーセントの確率で起きない、ということですね」
杉浦の目が、一瞬だけ揺れた。
「……数字上は、そうなります」
「では、その三〇パーセントを根拠に、数百万人規模の退避を発令しろと?」
「私は、そこまでは——」
「杉浦主任」
東堂が、杉浦の言葉を遮った。
「あなたの仕事は、データを提供することです。そのデータをどう使うかは、私たちが決めます。『三〇パーセント』という数字で、国民をパニックに陥れることはできません」
俺は、杉浦の顔を見た。
彼女は下唇を噛みしめていた。何かを言いたそうに、でも言葉が見つからないように。その表情に、名前のつけられない感情が渦巻いているのが見えた。悔しさなのか、怒りなのか、諦めなのか——たぶん、全部だ。
——俺も、同じだった。
八年前。あの時も、きっとどこかでこういう会議が行われていたのだろう。科学者が警告を出し、政治家がそれを「数字」として処理し、結局——
「……発言してもいいか」
気づいたら、声が出ていた。
体が勝手に動いていた。頭で考えるより先に、喉が震えていた。
全員の視線が、俺に集まる。東堂の硬い視線も。
「神谷三佐、でしたか。現場の報告は後ほど」
「報告じゃない」
俺は立ち上がっていた。いつの間にか。
「今朝、俺はあの海の上にいた。海底から気泡が噴き出すのを、この目で見た」
「それは映像で確認しています」
「映像じゃ分からない」
俺は、東堂の目を見た。
「あの海は、おかしかった。俺は十年以上、この仕事をやってる。海の上で何百回も飛んできた。でも、あんな光景は初めてだった」
「それは、あなたの主観ですね」
「主観だ。でも、現場にいた人間の主観は、数字より正確なこともある」
東堂は、一瞬だけ目を細めた。
「神谷三佐。あなたの意見は参考にします。ですが、政策判断は客観的なデータに基づいて行われるべきです。『おかしかった』という感覚では、予算も人員も動かせません」
「じゃあ、何なら動かせる。何人死んだら動くんだ」
会議室が、静まり返った。
声が裏返っていた。自分でも分かった。喉の奥が熱い。手が震えている。——まずい。感情的になってる。分かってる。でも、止められなかった。
八年前のことが、頭の中でちらついていた。母の声。出なかった電話。あの時、俺が電話に出ていれば。もっと早く情報があれば。何かが変わっていたかもしれない。
変わらなかったかもしれない。
分からない。永遠に分からない。それが一番苦しい。
「……失礼しました」
俺は座り直した。膝が笑っているのが、自分でも分かった。
東堂は、しばらく俺を見つめていた。その目には、何も映っていないように見えた。だが、どこかで——本当にどこかで、何かを堪えているようにも見えた。気のせいかもしれない。
「杉浦主任。引き続きデータの収集をお願いします。次回の報告は、三日後に」
「三日後では——」
「それ以上は、現時点では対応できません」
東堂は立ち上がった。
「この会議は、ここまでとします」
◆
会議室を出ると、廊下で杉浦が待っていた。
「神谷三佐」
「……悪かった。余計なことを言った」
「いえ」
杉浦は首を横に振った。
「言ってくれて……」
そこで言葉が途切れた。彼女は視線を落とし、何かを探すように口を開いては閉じた。
「……ありがとう、とは違うんです。でも、なんて言えばいいのか分からなくて」
その声は、小さかった。いつもの理路整然とした口調が崩れている。
「あの人——東堂補佐官は、悪い人じゃないんです」
「そうは見えなかったが」
「彼女も、板挟みなんです。私たちが出す『確率』と、政治家が求める『確定情報』の間で」
杉浦は、窓の外を見た。
東京の空は、どこまでも青かった。何も起きていないかのように。
「科学は、白黒をつけられない。でも、政治は白黒をつけないと動けない。その隙間に、いつも人が落ちる」
「……隙間」
「今朝、海で見たものを覚えていますか」
「忘れられるわけがない」
「あれが、何の前兆でもない可能性もあります。ただの自然現象で、何も起きないかもしれない」
杉浦が、俺を見た。
彼女の目には、覚悟があった。この先に何が待っているか、分かっている人間の目だ。
俺は、昨日の夜に彼女が送ってきたメッセージを思い出した。
『明日、私が何を見に行くのか。それを知った上で、飛んでほしいんです』
彼女は、最初から分かっていたのだ。
自分が見に行くものが、何を意味するのか。そして、それを伝えても、簡単には信じてもらえないことを。
「杉浦」
「はい」
「三日後の会議、俺も出る。そう上に伝えておいてくれ」
杉浦は、少し目を見開いた。
「……いいんですか」
「いいも悪いもない。俺は見た。見たものを、伝える義務がある」
それが何かを変えるかどうかは、分からない。
でも、黙っているよりはマシだ。
——何も知らないよりは、マシ。
彼女の言葉が、また頭の中で響いた。
◆
官邸を出ようとした時、背後から声をかけられた。
「神谷三佐」
振り向くと、東堂葵が立っていた。
会議室では気づかなかったが、近くで見ると、彼女の目元にも疲労の影があった。杉浦ほど露骨ではないが、隠しきれていない。
「さっきは、失礼しました」
「……俺の方こそ」
「いえ。あなたの発言は、記録に残しておきます」
東堂の声は、会議室の時と同じように抑制が効いていた。だが、廊下の静けさの中で聞くと、どこか違う響きがあった。
「現場の声は、重要です。数字だけでは見えないものがある。それは、私も分かっています」
「なら、なぜ——」
「分かっていても、動けないことがあるんです」
東堂は、俺の目を真っ直ぐに見た。
「三〇パーセントで退避を発令したら、残りの七〇パーセントの時、誰が責任を取るんですか。空振りが続けば、次の警告を誰も信じなくなる。そして本当に起きた時、もっと多くの人が死ぬ」
「……」
「私の仕事は、最小の死者で済む判断をすることです。そのために、時には非情に見える決断もする。それが、私の役割です」
彼女の声は平坦だった。まるで、何度も繰り返し唱えてきた言葉のように。だが、その平坦さの奥に——何かを押し殺しているような、張り詰めた糸のような緊張が透けて見えた。
「神谷三佐。あなたは、救助の現場で何人もの人を助けてきたんでしょう。私は、その人たちをどこに逃がすかを決める側です。立場は違いますが、目指すところは同じはずです」
「同じ、か」
「ええ。一人でも多く、生き残らせる。そのために、私は嫌われ役を引き受けます」
東堂は、小さく頭を下げた。
「三日後、また会議でお会いしましょう」
そう言って、彼女は廊下の奥へ消えていった。
その背中は、真っ直ぐだった。一分の隙もなく、完璧に姿勢を保っている。
でも、俺には分かった。
あの背中は、誰にも弱みを見せまいとしている背中だ。
「……嫌われ役、か」
呟いて、俺は官邸を後にした。
——最小の死者で済む判断。
それは、裏を返せば、「誰かは死ぬ」ことを前提にした言葉だ。
誰を救い、誰を切り捨てるか。
その線引きを、彼女は毎日やっているのだろう。
俺には、できない仕事だ。
俺は、目の前の一人を救うことしかできない。
でも、彼女は——
空は、まだ青かった。
でも、どこかで雲が動き始めているような気がした。
【第3章 終】




