第28章「静謐なる朝」
第28章「静謐なる朝」
【神谷迅視点】
目を開けた時、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。体が重い。全身が鉛になったような疲労感。だが、不思議と心は穏やかだった。
横を向くと、椅子に座ったまま眠っている凛の姿があった。
毛布を膝にかけ、首を傾げるようにして眠っている。窓から差し込む朝の光が、その頬を照らしていた。
◆
少しずつ、記憶が戻ってくる。
昨夜——いや、今日の深夜か——基地に戻った。凛と再会した。抱きしめた。
その後、報告を済ませて、どうしたんだったか。
記憶が曖昧だった。たぶん、限界だったのだろう。報告の途中で意識が飛びかけて、誰かに支えられて——ここに運ばれた、のだと思う。
ここは仮眠室だ。基地の中にある、簡素な部屋。
凛は、ずっとそばにいてくれたのか。
椅子に座ったまま眠るなんて、体が痛くなるだろうに。
「……馬鹿だな」
小さく呟いた。
けれど、その言葉には苦みよりも、温かさが滲んでいた。
◆
体を起こそうとして、全身が軋んだ。
筋肉という筋肉が悲鳴を上げている。何日眠っていないんだったか。三日? 四日? もう分からない。
だが、少しだけ——ほんの少しだけ、楽になった気がした。
何時間眠ったのか分からないが、完全に意識を手放せたのは久しぶりだった。
凛がいたから、だろうか。
そう思った瞬間、少し照れくさくなった。
俺も、随分と弱くなったものだ。
◆
起き上がると、凛が目を覚ました。
「あ……迅くん」
寝ぼけた声。目を擦りながら、こちらを見る。
「起きちゃいました? もう少し寝ててもいいのに」
「お前こそ。椅子で寝たら体を壊すぞ」
「大丈夫ですっ。私、どこでも寝られるタイプなので」
凛は笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ締め付けられた。
昨日——いや、数時間前か——再会した時の凛の顔を思い出す。泣きそうな顔で俺に駆け寄ってきた。抱きついてきた。
あの時、俺は——何を言ったんだったか。
「俺はお前がいないとダメだ」。
そう言った。
今思い返すと、恥ずかしくなる。だが、嘘ではなかった。
◆
窓の外を見た。
朝だった。雲の切れ間から薄い日差しが差し込んでいる。嵐の後の静けさ、という言葉が浮かんだ。
だが、静かなのはこの部屋の中だけだ。
基地の外では、今も救助活動が続いているはずだった。俺がこうして眠っている間も、誰かが走り回り、誰かを助け、誰かを——助けられずにいる。
そう思った瞬間、体が動こうとした。
起き上がって、外に出なければ。まだやるべきことがある。まだ——
「迅くん」
凛の声が、俺を引き留めた。
「休むって、約束したでしょう」
真っ直ぐな目だった。
その目を見て、体から力が抜けた。
「……ああ。約束、したな」
「もう少しだけ、休んでください。お願いします」
凛の声には、懇願するような響きがあった。
俺は、ベッドの端に座り直した。
◆
ドアがノックされたのは、その時だった。
凛が立ち上がって扉を開けると、田村が立っていた。
「神谷三佐、起きてますか」
田村の顔は疲れていたが、俺よりはマシだろう。
「ああ。何かあったか」
「いえ……報告です。被害状況の暫定値が出ました」
田村は俺を見た。その目には、何かを迷っている色があった。
「今じゃなくても——」
「いい。聞く」
俺は答えた。
凛が心配そうな顔をしたが、俺は頷いた。
知らなければならない。目を逸らしてはいけない。
◆
田村が告げた数字は、重かった。
M8.1の本震と津波による被害。
確認された死者:八百七十三名。
行方不明者:千二百四十六名。
負傷者:三千名以上。
家屋の全半壊:推定二万戸以上。
避難者数:約十二万人。
「まだ暫定値です。行方不明者の多くは……」
田村は言葉を切った。
言わなくても分かる。行方不明者の多くは、おそらく——
「……そうか」
俺は呟いた。
気づくと、膝の上に置いた手が震えていた。握りしめようとしても、止まらなかった。
八百七十三名。その一人一人に名前があり、家族がいて、人生があった。
千二百四十六名。まだ見つかっていない。瓦礫の下か、海の中か。
俺が眠っている間にも、その数字は増えていたのだろう。
◆
田村が去った後、俺はしばらく動けなかった。
窓の外を見ていた。雲が流れていく。何事もなかったかのように、空は青い。
「迅くん」
凛の声が聞こえた。
振り返ると、凛がそこに立っていた。
「……大丈夫ですか」
「ああ」
嘘だった。
大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。
八百七十三人。
その中には、俺が間に合わなかった人もいるだろう。もう少し早く飛べば、もう少し早く判断していれば——救えた命が、あったかもしれない。
「俺は」
声が出た。自分でも驚くほど、掠れていた。
「昨日、何人救った?」
「……迅くん?」
「十二人だ。御前崎で老人を一人。その後、孤立した集落で十一人。全部で十二人」
数えていた。自分でも気づかないうちに、数えていた。
「十二人。それだけだ。他の隊員も合わせれば、もっといる。でも——」
言葉が詰まった。
「八百七十三人、死んだ。千二百四十六人が、まだ見つかっていない」
◆
凛が、俺の隣に座った。
何も言わなかった。ただ、そこにいた。
「全員は、救えない」
俺は言った。
分かっていた。最初から分かっていた。
どれだけ速く飛んでも、どれだけ早く判断しても、全員は救えない。それが災害というものだ。それが、現実だ。
でも。
頭で分かっていることと、心で受け入れることは違う。
「八年前もそうだった」
気づいたら、話していた。
「あの津波で、俺の両親と妹が死んだ。俺は——助けられなかった。電話に出ることすら、できなかった」
凛は黙って聞いていた。
「それから、救難隊に入った。もう二度と、助けられなかったなんて言いたくなかったから」
窓の外を見た。
「でも、何度でも言うことになる。何人救っても、救えなかった人の方が多い」
◆
凛が、俺の手を取った。
小さくて、温かい手だった。
「迅くん」
凛の声は、静かだった。
「十二人、救ったんですよね」
「ああ」
「その十二人には、家族がいます。帰りを待っている人がいます」
「……」
「迅くんがいなかったら、その人たちは——」
凛の手に、少しだけ力がこもった。
「私みたいに、なってたかもしれない」
俺は凛を見た。
凛の目には、涙が滲んでいた。
「八年前、両親が死んだ時——私、思ったんです。誰か助けてくれる人がいれば、って」
「凛……」
「もちろん、助けてくれた人はいました。救助の人たちが、たくさん動いてくれました。でも、両親には間に合わなかった」
凛は俺の手を握りしめた。
「だから、分かります。全員は救えないって。でも——」
凛の声が、震えた。
「救われた人にとっては、その一人が全てなんです。十二人は、十二の全てなんです」
◆
その言葉が、胸に染み込んでいった。
十二人は、十二の全て。
当たり前のことだ。
でも、俺は——忘れていたのかもしれない。
数字ばかり見ていた。救えなかった数。間に合わなかった数。それに囚われて、救えた命の重さを、見失いかけていた。
「……お前は」
声が掠れた。
「強いな」
「そんなことないですっ」
凛は首を振った。
「私は弱いです。一人じゃ何もできない。迅くんがいてくれなかったら、私——」
言葉を切って、凛は俯いた。
「おばあちゃんに置いていかれた時、本当は怖かった。一人になるのが、怖かった」
凛の肩が、小さく震えていた。
「でも、迅くんがいてくれたから。待っていられた。信じていられた」
顔を上げた凛の目は、涙で濡れていたけれど、真っ直ぐだった。
「だから——今度は、私が。迅くんのそばに、いたいんです」
◆
俺は、凛を見つめていた。
この小さな体に、どれだけの強さがあるのだろう。
どれだけの優しさが詰まっているのだろう。
俺は——こいつに、何度救われた?
電話で弱音を吐いた時。再会して抱きしめた時。そして今。
俺はずっと、誰かを救うことでしか自分の価値を見出せなかった。
誰かのために動くことでしか、生きている意味を感じられなかった。
でも。
「凛」
名前を呼んだ。
凛が顔を上げる。
「俺は——お前に会えて、良かった」
言葉が、勝手に出てきた。
「お前がいなかったら、俺は——とっくに壊れてた。止まれなくなって、どこかで消えてた」
「迅くん……」
「お前のおかげで、俺は——生きたいと思えるようになった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが解けた気がした。
ずっと抱えていた何か。八年間、喉の奥に刺さっていた棘。
それが——消えたわけじゃない。まだそこにある。
でも、少しだけ。ほんの少しだけ——楽になった。
◆
凛が、細い腕を伸ばして俺の首に回した。
引き寄せるように、そっと。
「私も」
耳元で、凛の声がした。
「私も、迅くんに会えて、良かったです」
俺は凛の背中に腕を回した。
壊れ物を扱うようにではなく。今度は、しっかりと。
この温もりを、失いたくないと思った。
この手を、離したくないと思った。
それは——自分のために生きたいという、初めての願いだった。
◆
どれくらいそうしていたか、分からない。
やがて、凛がゆっくりと身体を離した。
少し照れたような顔をしている。頬が赤い。
「あの……朝ごはん、食べました?」
凛が言った。
「いや」
「じゃあ、何か持ってきますねっ。避難所のおにぎりですけど、すっごく美味しいんですよ。昆布が入ってるやつがあって、私三つも食べちゃいましたっ」
こんな時に、食べ物の話をする。
凛らしいと言えば凛らしい。俺は少しだけ笑った。
「……そうか」
凛は立ち上がろうとして——俺は、その手を掴んだ。
「待て」
「え?」
「少しだけ。もう少しだけ、ここにいてくれ」
我ながら、情けない声だと思った。
でも、凛は笑った。
「はいっ」
椅子ではなく、ベッドの端に座り直す。
俺たちは肩を並べて、窓の外を見ていた。
朝の光が、少しずつ強くなっていく。
嵐は去った。
だが、まだ終わりじゃない。これからもっと大変なことが待っているだろう。復興への長い道のり。見つからない行方不明者の捜索。傷ついた人々の心のケア。
でも——
今だけは。この数分だけは。
俺は、この穏やかな時間を味わいたかった。
凛がいる。
俺は生きている。
それだけで——今は、十分だった。
◆
携帯が鳴ったのは、その時だった。
杉浦からだった。
「神谷三佐、起きてますか」
「ああ。何かあったか」
「……少し、お話があります。後で本部に来られますか」
杉浦の声には、いつもの冷静さがあった。だが、その奥に何かを隠しているような——そんな響きがあった。
「分かった。一時間後に行く」
電話を切った。
凛が心配そうな顔をしていた。
「杉浦さんから?」
「ああ。話があるらしい」
何の話だろう。被害状況の詳細か。それとも——
嫌な予感がした。
だが、今はまだ。
「腹が減った」
俺は言った。
「おにぎり、持ってきてくれるか」
凛の顔が、ぱっと明るくなった。
「はいっ。すぐ持ってきますねっ。昆布のやつ、取っておきますから!」
凛が部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、俺は窓の外を見た。
空は青かった。
嵐の後の、穏やかな朝だった。
【第28章 終】




