第27章「静かなる嵐」
第27章「静かなる嵐」
【海野凛視点】
揺れが始まった瞬間、私は基地内の待機室にいた。
最初は小さな振動だった。棚の上のペットボトルが微かに揺れる程度。でも、それがすぐに変わった。
ガタガタと窓が鳴り始める。天井の蛍光灯が激しく揺れる。
地震だ。
体が勝手に動いていた。机の下に潜り込む。頭を守る。おばあちゃんに教えられたこと。両親を失ったあの日から、体に染みついた動き。
◆
揺れは、長かった。
一分なのか、二分なのか。体感では、もっと長く感じた。
机の脚を握りしめながら、私は目を閉じていた。
迅くん。
今、どこにいるんだろう。
さっき「行ってくる」と言って出て行った。杉浦さんから連絡があって、すぐに。
疲れ切った顔をしていた。でも、目だけは真っ直ぐだった。
「今度は俺がお前を迎えに行く番だ」
そう言ってくれた。私は「待ってます」と答えた。
だから、待つ。
信じて、待つ。
◆
揺れが収まった。
ゆっくりと机の下から這い出して、周囲を見回す。
待機室は滅茶苦茶だった。本棚が倒れ、書類が散乱している。窓ガラスにヒビが入っている。
でも、怪我はなかった。
廊下に出ると、基地の隊員たちが走り回っていた。怒号が飛び交う。
「大津波警報だ! 沿岸部に大津波警報!」
「被害状況を確認しろ!」
「通信が繋がらない!」
その言葉に、息が止まった。
通信が繋がらない。
迅くんに、連絡が取れない?
◆
携帯を取り出した。
画面には「圏外」の文字。
何度か場所を変えてみる。窓際。廊下の端。屋外への出口近く。
どこでも同じだった。
繋がらない。
迅くんは今、どこにいるんだろう。無事なんだろうか。
さっきの地震。あれは、杉浦さんが言っていた「第二波」なんだ。
三日前より大きかった。ずっと大きかった。
大津波警報。沿岸部。
迅くんは、沿岸部に向かったはずだ。
◆
足が震えていることに気づいた。
壁にもたれて、深呼吸をする。
大丈夫。大丈夫だから。
迅くんは強い。誰よりも強い人だから。
絶対に、帰ってくる。
そう言ってくれたから。
「避難誘導中です! 建物内の方は、指示に従ってください!」
隊員の声が聞こえた。
私は顔を上げた。
立っていなきゃ。ここで座り込んでいる場合じゃない。
◆
基地の大きな建物、格納庫の隣にある施設に、避難者が集められていた。
私のような民間人は数人しかいなかった。ほとんどは隊員の家族らしい。
みんな、不安そうな顔をしていた。当然だ。家族が、大切な人が、今この瞬間、災害の現場にいるのだから。
窓の外では、サイレンが鳴り響いている。ヘリが次々と離陸していく。
迅くんも、あのヘリのどれかに乗っているのだろうか。
「お嬢さん、大丈夫?」
声をかけられて振り返ると、五十代くらいの女性が立っていた。
「あ……はい。大丈夫です」
「顔色が悪いわよ。ここ、座って」
女性は私を椅子に座らせてくれた。
「あなた、神谷三佐のお知り合いでしょう? さっき一緒にいたの、見たわ」
「……はい。幼馴染なんです」
「そう。あの人、この基地じゃ有名よ。無茶をする人だって」
女性は少し笑った。苦笑に近い笑みだった。
「うちの主人も救難隊なの。神谷三佐と同じ部隊。だから、よく話を聞くわ」
「そうなんですか」
「心配よね。分かるわ。私も何度も経験した」
女性の目には、深い理解があった。同じ立場の人だ。待つ側の人だ。
「でもね」
女性は私の手を握った。冷たくなっていた私の手を、温かい手で包んでくれた。
「あの人たちは、必ず帰ってくる。そう信じて待つのが、私たちにできることなの」
◆
テレビがついていた。
避難所になった部屋の隅に、大きなモニターが設置されている。
ニュースが流れていた。
『本日午後二時十三分頃、駿河湾を震源とするマグニチュード八・一の地震が発生しました。気象庁は静岡県沿岸部に大津波警報を発令しています。推定波高は八メートル以上』
画面に映し出されたのは、空撮映像だった。
海が、黒い壁が、陸地に押し寄せている。
家が、車が、まるで紙切れのように流されていく。
足から力が抜けそうになった。
あの中に、迅くんがいる。
「見ちゃダメよ」
さっきの女性が、私の視線を遮るように立った。
「見てると、どんどん不安になるから。信じて待つの。それしかできないから」
「でも」
「大丈夫。あの人たちはプロよ。何度もこういう現場を乗り越えてきてる」
女性の声は穏やかだったけど、その手は微かに震えていた。
この人も、不安なんだ。同じように、大切な人を心配しているんだ。
でも、それでも、笑って私を励ましてくれている。
◆
時間が、ゆっくりと流れていった。
午後三時。午後四時。午後五時。
通信は復旧しない。テレビのニュースは、被害の拡大を伝え続けている。
死者・行方不明者は、数百人規模になる見込み。
その言葉を聞くたびに、胸が締め付けられた。
迅くんは、大丈夫だろうか。
怪我はしていないだろうか。
ちゃんと、生きているだろうか。
◆
夕方になって、少しだけ通信が回復した。
携帯の電波が、微かに繋がるようになった。
私は急いで迅くんに電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。一回。二回。三回。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか』
繋がらなかった。
メッセージを送った。
『迅くん、無事ですか? 連絡ください』
既読はつかない。
もう一度、電話をかける。
やっぱり、繋がらない。
◆
窓の外が暗くなってきた。
冬の日は短い。もう午後五時過ぎだというのに、外はすっかり薄暗くなっている。
避難所には、続々と人が集まってきていた。
基地の隊員たちは、ひっきりなしに出入りしている。誰もが疲れ切った顔をしていた。
でも、迅くんの姿はなかった。
「あの」
私は近くにいた隊員に声をかけた。
「神谷三佐のこと、何か分かりませんか」
隊員は少し困った顔をした。
「神谷三佐は、今もヘリで沿岸部を飛んでいるはずです。通信が不安定で、詳しいことは」
「でも、無事なんですよね?」
「……はい。最後の通信では、無事だと」
「最後の通信って、いつですか」
「……二時間ほど前です」
二時間。
その間に、何が起きていても分からない。
◆
不安が、どんどん膨らんでいく。
考えまいとしても、考えてしまう。
八年前のこと。両親のこと。迎えに来ようとして、津波に呑まれたこと。
あの時も、こうして待っていた。
学校で、先生に連れられて体育館に避難して。
両親が迎えに来てくれるのを、ずっと待っていた。
でも、来なかった。
二人とも、来なかった。
◆
気づいたら、視界がぼやけていた。
慌てて目元を押さえる。ダメだ。泣いちゃダメだ。
迅くんは、あの時の両親とは違う。
救難隊のプロだ。何度も災害を乗り越えてきた人だ。
必ず、帰ってくる。
そう言ってくれたから。
「今度は俺がお前を迎えに行く番だ」って。
「お嬢さん」
声をかけられて、顔を上げた。
さっきの女性だった。温かいお茶を持っていた。
「これ、飲んで。少しは落ち着くから」
「……ありがとうございます」
紙コップを受け取った。温かさが、手のひらに染み込んでいく。
「私もね」
女性が、隣に座った。
「主人が出動した日は、いつもこんな感じよ。テレビを見て、不安になって、連絡を待って」
「……慣れますか?」
「慣れないわ」
女性は、はっきりと言った。
「何年経っても、慣れない。毎回、怖い。毎回、不安になる」
「……」
「でもね」
女性の目が、少しだけ優しくなった。
「帰ってきた時の顔を見ると、全部吹き飛ぶの。『お帰り』って言えることが、どれだけ幸せか。待ってる側にしか分からないわ」
その言葉が、胸に沁みた。
待つということ。信じるということ。
それは、弱さじゃない。
強さなんだ。
◆
午後七時。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
避難所には毛布が配られ、みんな床に座ったり横になったりしている。
私は窓際に座って、外を見ていた。
暗い空。時折飛んでいくヘリのライト。サイレンの音。
迅くん。
心の中で、何度も名前を呼んだ。
無事でいて。お願いだから。
帰ってきて。私のところに。
◆
携帯が、震えた。
飛び上がるようにして画面を見る。
メッセージが届いていた。
杉浦さんからだった。
『神谷三佐は無事です。現在も救助活動中。通信が不安定ですが、本人から「凛に伝えてくれ」と頼まれました』
その文字を、何度も読み返した。
無事。
迅くんは、無事なんだ。
喉が詰まって、声にならなかった。嬉しいのか、安心したのか、それとも他の何かなのか。よく分からないけど、胸の奥がぎゅっと締まる感覚があった。
◆
杉浦さんに返信を送った。
『ありがとうございます。迅くんに、待ってますって伝えてください』
すぐに既読がついた。
『伝えます。あなたも、ご無事で』
短いやり取り。でも、それだけで十分だった。
迅くんは生きている。戦っている。
だから、私も、待ち続ける。
信じて、待ち続ける。
◆
夜が更けていく。
避難所の中は、少しずつ静かになっていった。
疲れて眠る人。寄り添って話す家族。一人で窓の外を見つめる人。
私は毛布を肩にかけて、窓際に座っていた。
眠れなかった。眠る気にもなれなかった。
迅くんが帰ってくるまで、起きていたかった。
待っていたかった。
おばあちゃん。
心の中で、呟いた。
私、ちゃんと待ててるかな。
迅くんを信じて、ちゃんと待ててるかな。
「置いていく強さも必要」って、おばあちゃんは言った。
私はまだ、その強さを完全には分かっていないかもしれない。
でも、待つ強さは、少しだけ分かった気がする。
信じて待つこと。帰りを信じて、ここにいること。
それも、一つの強さなんだって。
◆
深夜一時。
避難所の外が、騒がしくなった。
ヘリの音。車のエンジン音。人の声。
「帰ってきた! 第一陣が帰ってきたぞ!」
その声を聞いて、私は立ち上がった。
窓の外を見る。
格納庫の前に、ヘリが降りてきていた。
迅くんの、ヘリだろうか。
手が震えていた。期待と不安が入り混じって、足がすくんで動けなかった。
もし、違ったら。
もし、迅くんじゃなかったら。
◆
避難所の扉が開いた。
疲れ切った隊員たちが、次々と入ってくる。
家族が駆け寄る。抱き合う。泣いている人もいる。
私は、その光景を見つめていた。
探していた。迅くんの姿を。
いない。
いない。
いない。
「凛」
声が聞こえた。
低くて、掠れた声。
振り返る。
入り口に、迅くんが立っていた。
飛行服は汚れていた。顔には疲労の色が濃い。目の下には濃い隈。
でも、生きていた。
ここに、いた。
「迅くんっ」
足が、勝手に動いていた。
走った。転びそうになりながら、走った。
そして、迅くんの胸に、飛び込んだ。
◆
「……心配かけた」
迅くんの腕が、私を抱きしめた。
力強くて、でも優しい腕。
「心配しましたっ……すごく、心配したんですっ……」
声が震えていた。何かが込み上げてくる。
「連絡が来なくて……テレビで津波の映像見て……怖かったですっ……」
「ああ……すまない」
迅くんの声も、掠れていた。
「通信が繋がらなくて。杉浦に頼んで」
「聞きましたっ。杉浦さんからメッセージが来ましたっ」
「そうか……届いたか」
迅くんの腕に、少しだけ力がこもった。
「待っててくれたんだな」
「当たり前ですっ」
顔を上げた。滲んだ視界で、迅くんを見た。
「待ってるって、言ったでしょう。ずっと、待ってるって」
迅くんの目が、少しだけ揺れた。
そして、微かに、笑った。
疲れ切った顔の中に、確かな温かさがあった。
「……ああ。お前は、強くなったな」
「強くなんかないですっ。ずっと怖かったし、泣きそうだったし」
「それでも、待ってた」
迅くんの手が、私の頬に触れた。
「待っててくれて、ありがとう」
その言葉が、胸に沁みた。
私は迅くんの胸に顔を埋めた。
温かかった。
生きている温もりだった。
◆
しばらくそうしていた。
どれくらい時間が経っただろう。
やがて、迅くんが体を離した。
「少しだけ、休ませてくれ。報告を済ませたら」
「休んでくださいっ」
私は迅くんの腕を掴んだ。
「ちゃんと休んでください。お願いですっ」
「……ああ。分かってる」
迅くんは頷いた。
「今回は、休む」
その言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。
迅くんは変わり始めている。少しずつ。
自分のことも、大切にしようとしている。
「報告が終わったら、戻ってくる。ここで待っててくれ」
「はいっ」
迅くんは私の頭を軽く撫でると、踵を返した。
その背中を見送りながら、私は思った。
待つということ。
信じて待つということ。
それは、一人ぼっちの時間じゃない。
帰ってくる人がいるから、待てる。待っている人がいるから、帰ってこられる。
繋がっているから、私たちは、強くなれるんだ。
◆
窓の外では、まだサイレンが鳴り響いている。
災害は、終わっていない。
これからも、まだ続くのかもしれない。
でも。
迅くんがいる。私がいる。
支え合って、待ち合って、生きていく。
それが、私たちの強さなんだ。
おばあちゃんの言葉を思い出した。
「幸せになりなさい」
なるよ、おばあちゃん。
迅くんと一緒に。
どんなことがあっても、一緒に。
【第27章 終】




