第26章「第二波」
第26章「第二波」
【神谷迅視点】
基地を出た時、空は灰色だった。
凛の笑顔がまだ目に焼き付いている。「待ってます」——その言葉を、俺は胸の奥にしまった。
ヘリのローターが回り始める。田村が隣で計器を確認している。
「神谷三佐、行き先は?」
「D-1」
杉浦から連絡があった。第二波の兆候。余効滑りがさらに加速している。
まず観測データを確認しなければ、次に何が起きるか分からない。
◆
D-1——内閣府地殻変動観測チーム本部。
ビルの三階に設置された管制室に入ると、複数のモニターが地震波形とGPSデータを映し出していた。
杉浦が振り返った。目の下に濃い隈。俺と同じだ。
「神谷三佐……来てくれたんですね」
「状況は」
「良くありません」
杉浦がモニターを指差した。
画面に表示されているのは、駿河湾周辺のGPS観測点の変位データ。赤い矢印が、東へ向かって伸びている。
「三日前の地震——M7.8——で、プレート境界のひずみが解放されるはずでした」
杉浦の声は、いつもより硬い。
「でも、変位量が想定の六割程度で止まっている。つまり——」
「まだ溜まってる」
「はい。しかも余効滑りが収束していません。むしろ加速しています」
俺は画面を見つめた。
赤い矢印の長さが、時間とともに伸びていく。
「普通なら、本震の後は余効滑りが徐々に減速して収束します。でも今回は——」
杉浦が言葉を切った。
「加速している。前例のないパターンです」
「それが意味するのは」
「最悪の場合——」
杉浦の目が、俺を捉えた。
「三日前の地震は、前震だった可能性があります」
◆
前震。
その言葉の重さを、俺は理解していた。
三日前のM7.8——あれだけの被害を出した地震が、まだ「前触れ」だったというのか。
「本震の規模は」
「推定でM8.0以上。最悪の場合、M8.3に達する可能性も」
M8.3。
その数字が意味するものを、俺は知っている。
津波。大規模な地盤沈下。建物の倒壊。火災。
三日前の比じゃない。
「いつ来る」
「分かりません。ただ——」
杉浦がデータを操作した。画面に、余効滑りの加速曲線が表示される。
「この曲線が示す傾向から見ると、今日中か、明日には」
今日中。
俺は携帯を確認した。
凛は浜松基地にいる。内陸部だ。津波の心配はない。だが——
「沿岸部の避難状況は」
「三日前の避難指示がまだ継続中です。ただ、一部の住民が戻り始めているという報告が」
「戻ってる?」
「家の片付けとか、貴重品の回収とか……警察と消防が説得に当たっていますが」
杉浦の声が、沈んだ。
「全員を止めるのは、難しい状況です」
◆
東堂葵が、管制室に入ってきたのはその時だった。
スーツ姿。だが、いつもの毅然とした雰囲気が、どこか疲弊して見えた。
「杉浦主任、最新のデータは」
「お渡しした通りです。余効滑りの加速が続いています」
東堂がモニターを見つめた。
「避難指示の再強化……間に合うかしら」
「やるしかありません」
俺は言った。
東堂が振り返る。
「神谷三佐」
「間に合うかどうかじゃない。やるしかないんです」
東堂は、少しだけ目を細めた。
「……そうね。やるしかない」
彼女は携帯を取り出した。
「官邸に連絡します。避難指示の対象地域を拡大——」
その瞬間だった。
床が、揺れた。
◆
最初は、小さな振動だった。
コーヒーカップの中身が、微かに波立つ程度。
だが、その振動は止まらなかった。
むしろ——大きくなっていく。
「緊急地震速報——」
誰かが叫んだ。
管制室のスピーカーから、けたたましい警報音が響く。
『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください。駿河湾、遠州灘——』
床が、大きく跳ねた。
俺は壁に手をついた。机の上の書類が滑り落ちる。モニターが激しく揺れる。
「全員、机の下へ!」
東堂の声。
杉浦がよろめきながら、モニターにしがみついている。
「データ……データを……」
「杉浦、離れろ!」
俺は杉浦の腕を掴んだ。
その瞬間、天井から何かが落ちてきた。
蛍光灯のカバーだ。杉浦の頭上を掠める。
「きゃっ——」
「伏せろ!」
俺は杉浦を抱えるようにして、床に倒れ込んだ。
揺れは、まだ続いている。
いや——激しくなっている。
これは——
これは、三日前の比じゃない。
◆
揺れが収まったのは、どれくらい経ってからだろう。
体感では数分。実際には——分からない。
俺は身を起こした。
管制室は、滅茶苦茶だった。
モニターは半分が落下。書類は床一面に散乱。天井のパネルが何枚か剥がれ落ちている。
「杉浦、大丈夫か」
「は、はい……」
杉浦が、俺の腕の中から顔を上げた。
顔は青白かったが、怪我はなさそうだ。
「東堂さんは」
「こちらです。無事です」
東堂の声が、机の下から聞こえた。
俺は杉浦を立たせ、周囲を見回した。
他のスタッフも、少しずつ起き上がっている。負傷者は——確認が必要だ。
「全員の安否確認を」
俺は声を上げた。
その時、窓の外から——音が聞こえた。
サイレン。
それも、一つや二つじゃない。
何十という数のサイレンが、街中で鳴り響いている。
◆
管制室を出て、廊下を走った。
非常階段から屋上へ。
扉を開けた瞬間、俺は足を止めた。
目の前に広がっていたのは——
煙だった。
東の方角。静岡市の中心部。あちこちから、黒い煙が立ち上っている。
火災。
三日前の地震で損傷した建物が、今回の揺れで——
「神谷三佐」
田村の声が、無線から聞こえた。
『こちらは浜松基地です。今の地震、M8.1と推定。震源は駿河湾沖、深さ約二十キロ。沿岸部に大津波警報が発令されました』
M8.1。
杉浦の予測通りだ。
「津波の到達予想時刻は」
『最短で十五分から二十分。御前崎から伊豆半島東岸にかけて、推定波高八メートル以上』
八メートル。
俺は煙の立ち上る街を見つめながら、拳を握りしめた。
——助けに行かなければ。
頭より先に、体がそう叫んでいた。
「浜松基地の状況は」
『こちらは軽微な被害です。滑走路に問題なし。ヘリの出動準備、完了しています』
「凛は——海野凛はどうした」
田村の声が、一瞬途切れた。
『……無事です。基地内の避難場所に移動しています』
安堵と、別の感情が混ざった。
嬉しい。でも、まだ終わっていない。
沿岸部には、まだ人がいる。
三日前の避難指示を無視して、家に戻った人々。
津波まで、あと十五分もない。
◆
俺は管制室に戻った。
杉浦がモニターを必死に復旧させていた。何台かは、まだ生きている。
「杉浦、津波の到達予想範囲は」
「今、計算しています。待って——」
杉浦の指が、キーボードを叩く。
画面に、地図が表示された。
静岡県の沿岸部。そこに、赤い色が塗られていく。
「御前崎から焼津にかけて、最大浸水深八メートル以上。清水区から駿河区の沿岸部は五メートル以上」
赤い区域が、どんどん広がっていく。
「伊豆半島の東岸は——」
杉浦の声が、途切れた。
「十メートルを超える可能性があります」
俺は地図を見つめた。
赤い区域。
そこに、どれだけの人がいる。
逃げ遅れた人。足の悪い老人。動けない病人。
全員を——救えるのか。
「俺は行く」
俺は言った。
「ヘリで沿岸部へ向かう。取り残された住民を搬送する」
「神谷三佐——」
杉浦が俺を見た。
その目に、何かが浮かんでいた。
心配。不安。そして——言葉にならない何か。
「……っ、あ……」
杉浦が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
一拍の沈黙。
「……気をつけて」
声が、掠れていた。
「絶対に、戻ってきてください」
俺は頷いた。
「約束した。迎えに行くって」
杉浦の目が、少し見開かれた。
「——凛、に、ですか」
「ああ」
俺は踵を返した。
「だから、死ぬわけにはいかない」
◆
屋上のヘリポートに向かう途中、東堂から声をかけられた。
「神谷三佐」
振り返る。
東堂は、携帯を握りしめたまま立っていた。
「官邸から連絡がありました。救助活動の統括指揮は——」
「俺は現場に出る」
俺は言った。
「指揮は、田村に任せる。俺は自分の手で——」
「分かっています」
東堂が、遮った。
「だから、言いに来たんです」
東堂の目が、真っ直ぐに俺を捉えた。
「あなたは、自分を大切にしない人だ。でも——」
言葉を切った。
「今日だけは、帰ってきてください。あなたを待っている人がいる」
俺は、何も言えなかった。
東堂の言葉が、胸に刺さった。
——あなたを待っている人がいる。
凛の笑顔が、浮かんだ。
あいつが待っている。俺が戻るのを、信じて待っている。
「……分かってる」
俺は答えた。
「行ってくる」
◆
ヘリが浜松基地を離陸したのは、地震発生から八分後だった。
眼下に広がる景色は、一変していた。
道路には亀裂が走り、倒壊した建物が瓦礫の山を作っている。
あちこちで火の手が上がり、黒煙が空に昇っている。
三日前の地震で傷ついた街が、今度こそ——崩壊しようとしていた。
「神谷三佐、沿岸部に接近中です」
田村の声が聞こえた。
俺は窓の外を見た。
海が——見えた。
だが、その海が——
「……引いてる」
俺は呟いた。
海岸線から、水が後退していた。
砂浜が、異様なほど広く露出している。
引き波だ。
津波の前兆。
これから——来る。
◆
御前崎の沿岸部に差し掛かった時、俺は目を疑った。
海の向こうに——壁があった。
水平線に沿って、黒い壁が立ち上がっている。
それが、近づいてくる。
ゆっくりと。しかし確実に。
津波だ。
八メートル——いや、もっと高いかもしれない。
「田村、あれは——」
「見えています。推定波高、十メートル以上」
田村の声が、張り詰めていた。
「沿岸部に残っている住民は——」
俺は地上を見下ろした。
港の近くに、人影が見えた。
走っている。必死に、高台に向かって走っている。
だが——
間に合わない。
津波は、もうすぐそこまで来ている。
「降りる」
「神谷三佐——」
「あそこに人がいる。降ろしてくれ」
「間に合いません! 津波が——」
「分かってる!」
俺は叫んだ。
「分かってる。でも——見捨てられない」
田村は、何も言わなかった。
一瞬の沈黙の後——ヘリが高度を下げ始めた。
◆
地上に降り立った瞬間、津波の轟音が耳を打った。
振り返ると——
黒い壁が、海岸線を呑み込んでいた。
建物が、車が、電柱が——まるで紙切れのように巻き上げられていく。
あと数十秒で、ここまで来る。
「こっちだ!」
俺は走った。
人影に向かって。
老人だった。
杖をついた、八十代くらいの老人。
足がもつれて、倒れかけている。
「立て!」
俺は老人の腕を掴んだ。
「ヘリがある! 走れ!」
「わ、わしの足じゃ——」
「構うな!」
俺は老人を担ぎ上げた。
走った。
ヘリに向かって。
背後で、轟音が迫ってくる。
水の音。何かが砕ける音。悲鳴。
振り返るな。
走れ。
走れ。
——走れ。
◆
ヘリのローターが風を巻き起こす中、俺は老人を機内に押し込んだ。
「上がれ!」
叫んだ瞬間、ヘリが浮上した。
俺の足元を——濁流が掠めた。
黒い水。瓦礫を巻き込んだ激しい流れ。
機内に転がり込んだ俺は、荒い息を吐いた。
間一髪——いや、運が良かっただけだ。
もう少し判断が遅れていたら、俺も老人も——
「神谷三佐……」
田村の声には、安堵と非難が入り混じっていた。
「無茶しすぎです」
「……ああ」
俺は窓の外を見た。
さっきまで俺が立っていた場所は、もう水の下だった。
建物の二階まで水が押し寄せ、車が浮き上がり、流されていく。
——これが、第二波。
◆
ヘリの中で、俺は携帯を取り出した。
凛に——連絡を。
無事だと。生きていると。
だが——圏外だった。
通信網が、ダウンしている。
俺は携帯を握りしめた。
凛。
待っていてくれ。
必ず——戻る。
窓の外では、津波がさらに内陸へと押し寄せていた。
黒い水が、全てを呑み込んでいく。
家も、道路も、人も——
何人、救えるだろう。
何人、救えないだろう。
分からない。
分からないが——
俺は、止まれない。
【第26章 終】




