第24章「限界」
第24章「限界」
【神谷迅視点】
空が白み始めていた。
何度目の夜明けだろう。
俺はヘリの操縦席に座ったまま、東の空を見ていた。雲の隙間から、薄い光が差し込んでくる。
三日目。だと思う。正確な時間の感覚は、もうなくなっていた。
◆
基地に戻ったのは、夜明け前だった。
短い仮眠を取れと田村に言われた。二時間だけ横になった。眠れたかどうかは分からない。目を閉じていただけかもしれない。
目を開けると、次の出動命令が出ていた。
静岡市の山間部。土砂崩れで家屋が倒壊。生き埋めの可能性あり。
飛行服を着直して、格納庫に向かった。空は曇っていた。雨が降りそうだった。
◆
現場に着いたのは〇七三〇。
山肌が崩れ、三軒の家が土砂に呑まれていた。
既に地上の救助隊が活動を開始している。俺たちは上空から状況を確認し、孤立した住民の搬送を担当した。
一人。また一人。
担架に乗せられた人々がヘリに運び込まれる。
老人。子ども。中年の男性。
生きている。まだ、生きている。
その事実だけを確認して、俺は次の任務に意識を向けた。
◆
午後になって、状況が変わった。
「神谷三佐、地上から連絡です。倒壊家屋の下に、まだ一名取り残されているとのこと」
田村の声が無線で届く。
「生存反応は」
「微弱ですが、あるそうです。ただ……」
田村が言い淀んだ。
「ただ、瓦礫の状況が悪い。二次崩落の危険がある、と」
俺は地上を見下ろした。
救助隊員たちが、崩れた家屋の周りで作業を続けている。重機が入れない場所。手作業で、少しずつ瓦礫を取り除いている。
「降りる」
「神谷三佐」
「俺が行った方が早い。田村、機体を頼む」
返答を待たずに、俺は降下の準備を始めた。
◆
瓦礫の山。
かつて家だったものの残骸。
木材と土砂が混ざり合い、異様な形を作っている。その下に、誰かが埋まっている。
「状況は」
地上で指揮を執っていた消防隊員に声をかけた。
「八十代の女性です。家族の話では、台所にいたはずだと。この辺りに……」
隊員が指差した場所。瓦礫の隙間から、かすかに布の切れ端が見えていた。
「声はかけたのか」
「反応が弱くなってきています。意識があるかどうか……」
俺は瓦礫に近づいた。
「聞こえますか」
声をかける。返答はない。
「救助隊です。今、助けに行きます」
耳を澄ませた。
微かに、呻き声のようなものが聞こえた気がした。
まだ、生きている。
「手を貸してくれ」
俺は周囲の隊員に声をかけ、瓦礫の除去を始めた。
◆
二時間。
二時間かけて、俺たちは瓦礫を取り除いた。
雨が降り始めていた。細かい雨が、土砂と混ざって泥になる。手袋が泥まみれになった。
ようやく、女性の姿が見えた。
白髪の、小柄な老婆だった。
目を閉じている。胸が、かすかに上下していた。
「生きてる。担架を」
俺は女性を抱え上げようとした。
その時。
女性の目が、薄く開いた。
「……あ」
掠れた声。
女性の手が、俺の腕を掴んだ。
「あなた……」
「大丈夫です。もう大丈夫ですから」
俺は女性に声をかけた。
女性の目が、俺を見ていた。
焦点が合っているのかどうか、分からなかった。
「息子は……」
「息子さんですか。息子さんはどこに」
「いっしょに……いたはずなの……」
俺は周囲を見回した。
この瓦礫の下に、もう一人いるのか。
「探します。必ず見つけますから」
女性の手に、力がこもった。
そして。
力が、抜けた。
「おい」
俺は女性の顔を覗き込んだ。
目が、閉じていた。
胸の動きが、止まっていた。
「おい、待て」
俺は女性の胸に手を当てた。
心臓の音が、聞こえなかった。
「救急、心肺停止だ」
叫んだ。
周囲の隊員が駆け寄ってくる。AEDが運ばれてくる。
俺は女性の胸を圧迫し始めた。
一回。二回。三回。
規則正しく。確実に。
でも。
分かっていた。
この人は、もう戻らない。
◆
心肺蘇生は、十五分続けられた。
医師が到着し、死亡が確認された。
午後四時二十三分。
俺は、女性の手を握ったまま、立ち尽くしていた。
冷たかった。
さっきまで、俺の腕を掴んでいた手。
もう、動かない。
「神谷三佐」
田村の声が、遠くで聞こえた。
「息子さんも……見つかりました」
俺は顔を上げた。
田村の表情を見れば、分かった。
「……そうか」
それだけ答えて、俺は女性の手を離した。
◆
基地に戻ったのは、日が暮れた後だった。
報告書を書いた。任務内容。救助人数。死亡確認された人数。
数字を並べた。
今日の任務で救助できたのは、十二名。死亡が確認されたのは、三名。
十二名。
助けられた。
でも。
あの老婆の目が、頭から離れなかった。
「息子は……」
最後に発した言葉。
俺は、約束した。必ず見つける、と。
見つけた時には、もう遅かった。
二人とも、もう、いなかった。
◆
夜。
基地の屋上に、一人で来ていた。
空には雲がかかっていて、星は見えなかった。
冷たい風が吹いていた。雨上がりの、湿った空気。
俺は手すりに寄りかかって、空を見上げていた。
何を考えているのか、自分でも分からなかった。
頭が、うまく動かない。
疲労なのか、それとも。
八年前のことを、思い出していた。
母さんの電話。
出られなかった。
任務中だった。着信を見て、「後でかけ直そう」と思った。
後なんて、なかった。
あれが最後だった。
◆
何を言いたかったんだろう。
母さんは、最後に何を伝えようとしたんだろう。
「逃げなさい」と言おうとしたのか。「迅」と、俺の名前を呼ぼうとしたのか。
分からない。
永遠に、分からないままだ。
あの老婆も。
最後に何を言いたかったんだろう。
息子のことを心配していた。俺の腕を掴んで、息子のことを聞いた。
俺は「見つける」と言った。
見つけた時には、二人とも死んでいた。
また、間に合わなかった。
何人助けても。何度現場に飛んでも。
間に合わない時は、間に合わない。
そんなことは、分かっている。
分かっているはずなのに。
目が、熱くなった。
視界が、滲んだ。
「……くそ」
呟いた。
涙が、頬を伝った。
止められなかった。
八年分の、いや、それ以上の何かが、溢れ出してくるような気がした。
◆
携帯が、鳴った。
ポケットから取り出すと、画面に「海野凛」と表示されていた。
少し迷った。
今の状態で、話せるだろうか。
でも、出なければ心配させる。
通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『迅くん?』
凛の声が聞こえた。
いつもと変わらない、柔らかい声。
『今、大丈夫ですか? 邪魔じゃなかったですかっ』
「いや……大丈夫だ」
『そうですか。よかったですっ』
凛の声は、明るかった。
『今日も忙しかったですか?』
「……ああ。まあ、いつも通りだ」
『そうですか。ちゃんとご飯、食べてますかっ?』
「食べてる」
『本当にっ? 嘘じゃないですかっ?』
凛の声に、少し心配そうな色が混じった。
俺は、うまく答えられなかった。
沈黙が、数秒続いた。
『迅くん』
凛が、名前を呼んだ。
『……声が、いつもと違う』
見抜かれていた。
当然か。電話越しでも、分かるものなのか。
『何かあったんですか?』
「……」
『話したくなかったら、いいんです。でも……』
凛の声が、少し震えた。
『一人で抱え込まないでください。お願いです』
その言葉が、胸に刺さった。
一人で抱え込む。
ずっと、そうしてきた。
誰にも言わなかった。言えなかった。
弱音を吐くなんて、許されないと思っていた。
俺は「救う側」だから。弱さを見せたら、誰も救えなくなると思っていた。
でも。
「……今日」
気づいたら、口が動いていた。
「救助に行ったんだ。土砂崩れの現場」
『はい』
「老婆を助けようとした。二時間かけて、瓦礫を取り除いた」
声が震えていた。
「助け出した時には……まだ生きてた。目を開けて、俺を見た」
『……』
「でも」
言葉が、詰まった。
「息子を見つけてくれ、って言ったんだ。俺は、見つけると約束した」
『……』
「でも、見つけた時には、もう……」
「結局、俺は……」
言えなかった。
最後まで言葉にできなかった。
でも、凛は分かったんだろう。
長い沈黙があった。
電話の向こうで、凛の呼吸が聞こえた。
『迅くん』
凛が、名前を呼んだ。
『辛かったね』
その一言が。
胸の中で何かが崩れた。
声を殺して、呼吸が乱れる。
電話の向こうで、凛は何も言わなかった。
ただ、そこにいてくれた。
俺が落ち着くまで、ずっと。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
呼吸が落ち着いてきた。
「……すまない」
言ってから、後悔した。
弱音を吐いてしまった。凛に、こんな姿を見せてしまった。
でも、同時に。
胸の奥が、少しだけ軽くなっていた。
矛盾している。情けないのに、楽になっている。よく分からなかった。
『謝らないでください』
凛の声は、優しかった。
『迅くんが泣いてくれて、私、嬉しかったんです』
「……嬉しい?」
『変な言い方ですよね。でも……迅くんって、いつも一人で抱え込むから』
凛の声が、少し震えた。
『弱いところを見せてくれないから。いつも強くて、いつも誰かのために動いて。自分のことは後回しにして』
『……』
『だから、弱いところを見せてくれて、嬉しかったんです。私に』
その言葉が、胸に沁みた。
「……凛」
『はい』
「俺は……」
言葉を探した。
何を言えばいいのか、分からなかった。
「……分からないんだ」
『え?』
「自分が何をしたいのか。何のために動いているのか。分からなくなってきた」
本音が、零れ出た。
「誰かを救いたい。目の前で苦しんでいる人を、放っておけない。それは本当だ」
『……』
「でも、救えない時も、ある。今日みたいに。どれだけ頑張っても、間に合わない時がある」
声が、掠れていた。
「そういう時、思うんだ。俺がいたって、何も変わらないんじゃないか、って」
『迅くん……』
「俺は……」
言葉が、止まった。
何を言おうとしていたのか、分からなくなった。
長い沈黙。
電話の向こうで、凛の呼吸が聞こえた。
『私ね』
凛が、静かに話し始めた。
『迅くんがいてくれて、よかったって思ってるんです』
『……』
『迅くんがいなかったら、私、今ここにいないから』
凛の声は、穏やかだった。
『あの時、迎えに来てくれた。一緒に逃げてくれた。ヘリで助けてくれた。全部、迅くんがいたからですっ』
『……』
『今日救えなかった人がいたとしても……今日救えた人もいたはずでしょう?』
凛の言葉が、胸に響いた。
『全部は救えなくても、誰かは救えた。それって、すごいことだと思うんですっ』
『……』
『だから、自分を責めないで。お願いです』
凛の声が、少し震えた。
『迅くんがいなくなったら、私……』
言葉が途切れた。
俺は、何も言えなかった。
ただ、凛の言葉を、受け止めていた。
◆
『迅くん』
凛が、名前を呼んだ。
『約束、覚えてますか?』
「約束……」
『必ず迎えに行くって、言ってくれましたよね』
ああ。
あの日。ヘリで別れる時に、俺は凛にそう言った。
必ず迎えに行く、と。
「覚えてる」
『私、待ってますっ』
凛の声は、真っ直ぐだった。
『だから、ちゃんと、戻ってきてください。お願いですっ』
その言葉が。
俺の中で、何かが動いた。
戻ってくる。
凛のところに。
それは、俺が「生きる」ということだ。
「……ああ」
俺は答えた。
「分かった」
『本当ですか?』
「ああ。約束する」
凛の声が、少し明るくなった。
『よかった。……本当に、よかったですっ』
その声を聞いて。
俺は、少しだけ、楽になった気がした。
◆
電話を切った後も、しばらく屋上にいた。
空は相変わらず曇っていた。星は見えない。
でも、雲の向こうには、きっとある。
凛が言ってくれた言葉を、反芻していた。
全部は救えなくても、誰かは救えた。
今日救えた十二人。
あの人たちは、生きている。
俺がいたから、かどうかは分からない。でも、少なくとも、俺はそこにいた。
それで十分なのかもしれない。
十分だと、思いたかった。
まだ、答えは出ない。
自分が何のために動いているのか。何のために生きているのか。
分からないままだ。
でも。
凛が待っている。
それだけは、確かだった。
◆
屋上を降りようとした時、携帯がまた鳴った。
今度は杉浦だった。
「杉浦か。どうした」
『神谷三佐……』
杉浦の声が、いつもと違った。
緊張している。
『すみません、こんな時間に。でも、伝えなければと思って』
「何があった」
俺は足を止めた。
杉浦が、深呼吸する音が聞こえた。
『余効滑りが、さらに加速しています。午前三時のデータで確認しました』
「……」
『第二波が、来ます。いつとは断言できませんが、そう遠くない』
俺は、空を見上げた。
曇り空。星の見えない夜。
本当の夜明けは、まだ遠い。
「……分かった」
俺は答えた。
「ありがとう、杉浦。知らせてくれて」
『……お体は、大丈夫ですか』
杉浦の声が、少し柔らかくなった。
「ああ。大丈夫だ」
今度は、嘘じゃなかった。
完全に大丈夫なわけじゃない。でも、少しだけ、立ち直れた気がした。
『休んでください。お願いします』
「ああ。分かってる」
電話を切った。
第二波が来る。
まだ、終わりじゃない。
でも、今は。
少しだけ、休もう。
明日のために。
凛のところに戻るために。
【第24章 終】




