第23章「同志の距離」
第23章「同志の距離」
【杉浦沙耶視点】
モニターの光が、私の顔を照らしている。
午前八時。内閣府地殻変動観測チーム本部——正式名称は長いから、皆「D-1」と呼んでいる。窓のないこの部屋で、私はもう何十時間も過ごしていた。
画面に並ぶ数字たち。GPS観測点の変位データ、プレート境界の応力分布、余効滑りの加速曲線。
どれも、良くない傾向を示している。
◆
「杉浦主任研究員。コーヒーです」
後輩の山崎がカップを差し出した。
「ありがとう」
受け取って、一口飲む。ぬるい。淹れてからしばらく経っているのだろう。
「……どうですか、データは」
「良くないわ」
私は椅子を回して、メインモニターを指差した。
「余効滑りが収束しない。むしろ加速してる」
「つまり……」
「本震が来た後、普通ならプレートの動きは落ち着くはず。でも今回は逆。まだ動き続けてる」
山崎の顔色が変わった。
「第二波が来る、ってことですか」
「……可能性が高い、としか言えないわ。科学は100%を言えないから」
その言葉を口にするたび、無力感が胸を締めつける。
分かっている。確率でしか語れないのが科学の限界だって。でも——
あの人たちは、数字の向こうで生きている。
神谷三佐のことを思い出した。疲弊した顔。それでも動き続ける姿。
無線で聞いた声が、まだ耳に残っている。
『——無事だ。凛も無事だ』
あの時の安堵を、私はまだ消化しきれていない。
◆
正午を過ぎた頃、D-1に一本の連絡が入った。
「浜松基地から神谷三佐が来る?」
東堂さんからの電話を受けて、私は思わず声を上げていた。
「ええ。現場の状況を直接報告したいそうよ。それと、最新の観測データを持ち帰りたいって」
「……分かりました」
電話を切った後、自分の心臓が速くなっているのに気づいた。
別に、動揺してるわけじゃない。
ただ、あの無線以来、神谷三佐とは話していなかった。無事だと分かって安心した。それだけだ。
それだけ、のはずなのに。
◆
午後二時。
D-1のドアが開いた。
「——失礼する」
その声を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
立っていたのは、神谷三佐だった。
飛行服のまま。目の下に濃い隈。頬がこけている。一週間前に会った時より、明らかに消耗していた。
「神谷三佐」
私は立ち上がった。声が硬くなる。
「……よく来ましたね。移動だけでも大変だったでしょう」
「いや、基地からヘリで三十分だ。問題ない」
そう言って、彼はD-1の中を見回した。
モニターの並ぶ部屋。数人のスタッフが作業を続けている。彼らもちらりと神谷三佐を見たが、すぐに画面に視線を戻した。
皆、疲れている。
私たちだけじゃない。この国全体が、限界に近づいている。
◆
「現場の状況を報告する」
神谷三佐が淡々と話し始めた。
「富士宮市の山間部、土砂崩れで孤立した集落が複数。沼津市沿岸部、津波被害の残存者捜索。静岡市内、建物倒壊による閉じ込めが継続」
数字と地名が並ぶ。どれも、命がかかった現場だ。
「救助率は」
「生存者発見は六割程度。発見できても間に合わないケースが増えてきた」
その言葉に、私は奥歯を噛みしめた。
「あなたは、何人救助したの」
「……数えてない」
嘘だ。数えているはずだ。あの人は、そういう人だから。
「神谷三佐」
「なんだ」
「休んでる?」
質問が口をついて出た。
神谷三佐の目が、一瞬だけ揺れた。
「……必要な分は取ってる」
「嘘ね」
私は一歩近づいた。
「顔色を見れば分かります。三十時間以上眠ってないでしょ。目の下の隈、頬のこけ方、姿勢の崩れ——」
「杉浦」
名前を呼ばれて、私は言葉を止めた。
神谷三佐は、静かに首を振った。
「俺は大丈夫だ」
その声には、有無を言わせない響きがあった。
◆
大丈夫じゃないでしょ。
そう言いたかった。言うべきだった。
でも、言えなかった。
あの目を見たら、分かる。この人は止まらない。止まれないんじゃなくて、止まったら終わりだと思っている。
「……観測データ、まとめてあります」
私は話題を変えた。逃げた、とも言える。
「プリントアウトしてある。持っていってください」
神谷三佐は頷いた。
「助かる」
「それと」
私は自分のデスクに戻りながら、続けた。
「余効滑りが加速してる。第二波の可能性は、まだ消えてないです」
「……ああ。東堂から聞いている」
「聞いてるなら分かりますよね。いつ来てもおかしくない。あなたも、無茶はしないで」
振り返らずに言った。振り返ったら、表情を見られる。
「俺は——」
「大丈夫、って言うんでしょう?」
私は遮った。
「何度も聞いた。でも、神谷三佐」
データをまとめたファイルを手に取って、振り返る。
「自分を省みない人間は、いつか壊れる。統計的にも明らかです」
神谷三佐は、私を見ていた。
何を考えているか、分からない目だった。
◆
「杉浦」
ファイルを受け取りながら、神谷三佐が言った。
「お前も休め。顔色が悪い」
は?
私は固まった。
「……私のことは関係ないでしょう」
「関係ある」
神谷三佐の声は、相変わらず淡々としていた。
「お前たちのデータがなかったら、俺たちは何も見えない。科学者がダウンしたら、救える命も救えなくなる」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まった。
そうやって、いつも他人のことばかり。
「……あなたって」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
「本当に、自分のことは後回しなのね」
「お互い様だろ」
ふ、と。
神谷三佐の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というには程遠い。でも——
今、この人、笑った。
その瞬間、私の心臓が跳ねた。
◆
神谷三佐が去った後、私はしばらく動けなかった。
ドアが閉まる音。遠ざかる足音。
ファイルを渡した時に触れた、彼の指先。冷たかった。血行が悪いのだ。疲労が蓄積している証拠。
何をしてるの、私は。
頭を振る。
彼には守りたい人がいる。避難所にいる、あの女の子。幼馴染だと聞いた。
知っていた。最初から知っていた。
無線で彼が言った声。「凛も無事だ」——あの時の、安堵の滲んだ響き。
あれは、私に向けられたものじゃない。
分かっている。
分かっているのに。
◆
夜になった。
D-1のスタッフは、交代で仮眠を取っている。私は、まだモニターの前にいた。
データを見ているふりをして、実際には何も頭に入ってこなかった。
「お互い様だろ」——あの言葉が、頭から離れない。
彼は私を気遣った。仕事上の協力者として。同じ目標を持つ同志として。
それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
でも。
あの時、私は嬉しかった。
認めたくない。でも、嘘はつけない。
彼が私を見てくれたこと。私の体調を気にかけてくれたこと。
それが、こんなにも嬉しかった。
◆
私は椅子から立ち上がり、D-1の隅にある休憩スペースに向かった。
誰もいない。小さな窓から、夜空が見えた。
雲が多くて、星は見えない。
私は、あの人のことが気になっている。
仕事として。科学者として。そう言い聞かせてきた。
でも、違う。
今日、彼の顔を見た瞬間——息が止まった。
彼が去った後——胸がざわついて、落ち着かなかった。
彼が笑った時——呼吸を忘れていた。
「……馬鹿みたい」
窓ガラスに手をついて、私は呟いた。
あの人には、守りたい人がいる。
私じゃない。
分かっている。最初から分かっている。
なのに。
「これは」
声に出して、確かめた。
「——恋、なのかもしれない」
言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。
認めたくなかった。科学者として、感情で判断を曇らせるわけにはいかない。
でも、認めざるを得なかった。
私は——神谷三佐のことが、好きなのかもしれない。
◆
どれくらいそうしていたか、分からない。
「杉浦主任研究員」
山崎の声で、我に返った。
「なに」
「……大丈夫ですか。顔色、悪いですよ」
私は、自分の頬に手を当てた。
熱い。まさか、赤くなってるんじゃ——
「問題ないわ。ちょっと疲れただけ」
「そうですか? あの、神谷三佐が来てから、ずっと様子が変だったので——」
「変じゃないわよ」
声が大きくなる。山崎が目を丸くした。
「……す、すみません」
「いえ、こっちこそごめんなさい。少し疲れてるだけ」
私は深呼吸した。
落ち着け。私らしくない。
感情で動くなんて、私のやり方じゃない。
冷静に。論理的に。それが私のスタイルだ。
◆
でも——
モニターの前に戻っても、データが頭に入ってこなかった。
神谷三佐の顔が、ちらついて消えない。
あの疲れた目。こけた頬。それでも前に進もうとする姿。
あの人は、いつか壊れる。
その予感が、胸を刺す。
守りたい人のために、自分を省みない。全員を救えないと分かっていても、目の前の一人を救うために飛び込む。
それは——尊いことだと思う。
でも同時に、危うい。
あの人を止められる人間は、いるのだろうか。
避難所にいる、あの女の子——凛、という名前だったか。
彼女なら、もしかしたら。
私じゃ、ダメなんだろうな。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
嫉妬、かもしれない。
みっともない感情だ。でも、否定できなかった。
◆
夜が更けていく。
データの監視を続けながら、私は何度も神谷三佐のことを考えた。
彼が笑った瞬間。「お互い様だろ」という言葉。冷たい指先。
好きになっても、どうしようもない。
分かっている。
彼には彼の守りたい人がいて、私には私の守りたいものがある。
この国の命運を左右するかもしれないデータ。第二波の予測。避難指示の精度を上げること。
それが、私の仕事だ。私の使命だ。
恋愛なんかに現を抜かしている場合じゃない。
でも——
「……困ったな」
私は小さく呟いた。
感情は、論理で制御できない。それは科学的に証明されている。
だったら、認めるしかない。
私は神谷三佐のことが気になっている。
好き、という言葉を使うのは抵抗があるけれど——少なくとも、どうでもいい相手ではない。
遠くから見守ることしかできなくても。
この想いを伝えることは、たぶんないだろうけど。
それでも——
◆
午前三時。
D-1のモニターに、新しいデータが表示された。
余効滑りの加速曲線。さらに傾きが急になっている。
来る。
科学者の直感が、警告を発していた。
第二波が来る。今日か、明日か、それとも——
私は携帯を手に取った。
東堂さんに報告しなければ。
そして——
神谷三佐にも、伝えなければ。
彼が無茶をしないように。彼が壊れないように。
それが、私にできる精一杯のことだから。
窓の外、空が少しずつ白み始めていた。
夜明けが近い。
でも、本当の夜明けは、まだ遠い——そんな気がした。
【第23章 終】




