第22章「彼女の傷」
第22章「彼女の傷」
【三条マリア視点】
避難所の朝は、四時半に始まる。
まだ薄暗い体育館。蛍光灯の半分を落としたまま、あたしは物資の確認を始めていた。
毛布の在庫。ペットボトルの水。カップ麺の箱。医薬品——絆創膏と消毒液は足りているが、解熱剤が残り少ない。
ノートに数字を書き込みながら、今日の配給の段取りを頭の中で組み立てる。
——八時に朝食配給。十時に物資の追加搬入。昼前に医療班が巡回。
やることは山ほどある。
でも、それでいい。
動いている方が、余計なことを考えなくて済む。
◆
六時を過ぎると、避難者たちが少しずつ起き始めた。
「おはようございます」
柔らかい声。振り返ると、昨日から手伝いを買って出てくれた少女——凛ちゃんが立っていた。
「早いわね。よく眠れた?」
「あ、はい。毛布、暖かかったですっ」
相変わらず変な敬語だ。でも、この子の言葉には嫌味がない。本心からそう思っているのが伝わってくる。
「今日も手伝ってくれる?」
「もちろんですっ」
凛ちゃんは元気よく返事をした。その顔に、曇りはなかった。
——強い子だ。
昨日聞いた話を思い出す。祖母を町に残してきたこと。両親を津波で亡くしていること。
それなのに、この子は笑顔を絶やさない。
あたしには、分かる。
あの笑顔の裏に、何があるのか。
◆
朝食の配給は、いつも通り混雑した。
避難者は約三百人。自治体の職員だけでは手が足りない。だからあたしがいる。
「はい、お味噌汁どうぞ。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
「おばあちゃん、足元気をつけて。滑りやすいから」
「すみませんねえ、お姉さん」
声を出し続ける。笑顔を作り続ける。
疲れていないわけじゃない。昨夜も三時間しか眠れなかった。
でも、止まれない。
あたしが止まったら、この場所が回らなくなる。
◆
昼過ぎ、凛ちゃんと二人で物資を仕分けていた。
「マリアさんって、いつからここにいるんですか?」
凛ちゃんが聞いた。
「地震の翌日かな。たまたま近くにいて、気づいたら仕切ってた」
「たまたま……」
「成り行きよ。誰かがやらなきゃいけないことだったから」
ダンボールを積み上げながら、あたしは肩をすくめた。
本当は、もう少し複雑な事情がある。でも、この子に話すほどのことじゃない。
「マリアさんって、お仕事は何をされてるんですか?」
「んー、いろいろよ。今は、まあ、無職みたいなもんかな」
「え、でも……すごく手際がいいですっ」
凛ちゃんの目が丸くなる。
「昔、似たようなことをしてたの。人を仕切る仕事」
それ以上は言わなかった。
凛ちゃんも、それ以上は聞かなかった。
この子は、踏み込むべきじゃない領域を本能的に分かっている。
——賢い子だ。それとも、傷つくことに慣れているのか。
◆
夕方、配給の準備をしている時だった。
「あの、マリアさん」
凛ちゃんが、少し躊躇うように声をかけてきた。
「ん?」
「……私、聞いてもいいですか」
「何を?」
「マリアさんには、大切な人がいるんですか」
——不意を突かれた。
動きが止まる。一瞬だけ。でも、凛ちゃんには気づかれただろう。
「……なんで?」
「昨日の夜、マリアさんが窓の外を見てた時」
凛ちゃんは続けた。
「私と同じ目をしてたから」
胸の奥が、きしむ。
この子には、隠せないのかもしれない。
「……いたわ」
気づいたら、口が動いていた。
「昔ね。大切な人がいた」
凛ちゃんは黙って聞いている。
「でも、もういないの」
それだけ告げて、あたしは表情を作った。
「さ、配給の準備しなきゃ。手伝って」
凛ちゃんは何も言わずに頷いた。
その目が、優しかった。
——そういうところ、あんたの大切な人に似てるわよ。
そう思ったけど、言葉にはしなかった。
◆
夜になった。
避難者たちが寝静まった後、あたしは体育館の裏口から外に出た。
冷たい夜風が、火照った頬を冷やす。
空を見上げる。雲が多くて、星は見えない。
——こういう夜は、嫌いだ。
思い出してしまう。
五年前のこと。
◆
彼の名前は、もう口にしないと決めている。
でも、顔は忘れられない。
不器用で、口下手で、いつも無茶ばかりする人だった。
救助活動をしていた。あたしと同じ職場。
あの時——五年前の災害で、彼は死んだ。
目の前で。
あたしの目の前で、瓦礫の下に消えた。
助けに行こうとした。でも、別の隊員に止められた。
「行くな、危険だ」
「でも、あの人がっ——」
「もう、遅い」
その言葉を聞いた瞬間、あたしの中で何かが壊れた。
◆
涙が、頬を伝っていた。
いつの間にか泣いていた。
「……馬鹿」
誰もいない夜に、呟く。
「あんたがいなくなって、あたしはどうすりゃいいのよ」
返事はない。当たり前だ。
五年経っても、この痛みは消えない。
消えるわけがない。
——なんで止められたんだろう。
怒りがこみ上げる。あの時止めた隊員に、ではない。
止められて動けなかった自分に。
「もう、遅い」——その一言で足が竦んだ自分に。
悲しいのか、悔しいのか、それとも自分が許せないのか。
全部だ。全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
見ていることしかできなかった。
——生き残ってしまった。
その事実が、今も胸に刺さっている。
◆
どれくらいそうしていたか、分からない。
「マリアさん」
声がして、振り返った。
凛ちゃんが立っていた。
「……なんであんたがここに」
慌てて涙を拭う。見られた。最悪だ。
「あの、すみません。眠れなくて、外の空気を吸おうと思ったら……」
凛ちゃんは気まずそうに視線を落とした。でも、逃げようとはしなかった。
「……見たわね」
「はい」
「忘れなさい。今のは見なかったことにして」
「できません」
凛ちゃんは、静かに答えた。
「マリアさんが泣いてたこと、忘れるなんてできません」
——この子は。
あたしは、溜息をついた。
「……あんた、人の傷に踏み込むタイプ?」
「踏み込んでるつもりはないんですけど……」
凛ちゃんは少し困ったように口元を緩めた。
「でも、一人で泣いてる人を放っておけないんです」
その言葉に、胸が詰まった。
◆
いつの間にか、二人で並んで座っていた。
体育館の裏口の段差に腰掛けて、夜空を見上げている。
「……昔、大切な人を失ったの」
あたしは、ぽつりと口を開いた。
「災害で。目の前で死んだ」
凛ちゃんは黙って聞いていた。
「助けようとした。でも、できなかった。見てることしかできなかった」
声が震える。情けない。こんな年下の子に、何を話しているんだろう。
「それから、ずっと——」
言葉が詰まった。
「私も」
凛ちゃんが口を開いた。
「両親を、津波で亡くしました」
「……知ってる。昨日、聞いた」
「八年前です。私が十歳の時」
凛ちゃんの声は、穏やかだった。
「両親は、私を迎えに来ようとしてくれたんです。学校に残ってた私を」
「……」
「でも、その途中で津波に呑まれました」
凛ちゃんは、夜空を見上げたまま続けた。
「私を迎えに来なければ、二人は助かってたかもしれません」
その言葉に、あたしは何も返せなかった。
「ずっと、自分のせいだって思ってました」
凛ちゃんは告げた。
「でも、おばあちゃんが教えてくれたんです。『お前は悪くない。二人はお前を愛してたから、迎えに行ったんだ』って」
「……」
「信じられなかったです。何年も。でも——」
凛ちゃんは、あたしを見た。
「今は、少しだけ分かる気がします」
その瞳に、涙はなかった。
でも、その奥には——八年分の痛みが、静かに沈んでいた。
◆
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、あたしだった。
「……あんた、強いわね」
「そんなことないですっ」
凛ちゃんは首を振った。
「今でも泣きます。一人の時に」
「それでいいのよ」
あたしは答えた。
「泣けるうちは、まだ大丈夫。泣けなくなった時が、本当にやばい」
凛ちゃんは、少し驚いたようにあたしを見た。
「経験者は語る、ってやつ」
苦笑しながら、あたしは続けた。
「あたしはね、しばらく泣けなかったの。何年も。感情が、どこかに消えちゃったみたいで」
「……」
「でも、ある時ふいに泣けた。そしたら、少しだけ楽になった」
凛ちゃんは静かに頷いた。
「だから——」
あたしは、凛ちゃんの肩をぽんと叩いた。
「生き残ったってことは、生きなきゃいけないってことよ。分かるわよね」
「……はい」
凛ちゃんは小さく首を縦に振った。
「おばあちゃんも、同じことを言ってました」
「いいおばあちゃんね」
「はい。世界一です」
その言葉に、凛ちゃんの目が少し潤んだ。
でも、泣かなかった。今は、泣いている場合じゃないと分かっているのだろう。
——この子は、あたしより強いかもしれない。
そう思った。
◆
「マリアさん」
「ん?」
「大切な人のこと、教えてくれてありがとうございます」
凛ちゃんが言った。
「……別に。あんたに見られたから、しょうがなく話しただけよ」
「でも、話してくれました」
凛ちゃんは柔らかく微笑んだ。
「私、マリアさんのこと、もっと好きになりました」
——なんなの、この子は。
あたしは呆れた。呆れたけど、嬉しくないわけじゃなかった。
「あんた、人たらしね」
「え、そうですか?」
「自覚ないのがまた厄介なのよ」
凛ちゃんは首を傾げた。
「あんたの『大切な人』って男も、大変ね」
「え、えっと……」
凛ちゃんの顔が、一気に赤くなった。
「なに、図星?」
「そ、そういうんじゃないですっ」
「あらあら、分かりやすい」
からかうと、凛ちゃんはますます赤くなった。
——可愛いわね。
こういう子が、誰かの光になれるんだろう。
あたしみたいに、過去に囚われていない。
前を向いて、歩いていける。
「さ、そろそろ戻りましょ。明日も早いわよ」
「は、はいっ」
立ち上がって、体育館に戻る。
夜空には、まだ星が見えなかった。
でも——雲の向こうには、きっとあるはずだ。
そう思えるようになっただけ、少しはマシになったのかもしれない。
【第22章 終】




