第21章「避難所の女」
第21章「避難所の女」
【海野凛視点】
体育館は、人の気配で満ちていた。
蛍光灯の白い光が、広い空間を照らしている。床には青いビニールシートが敷かれ、その上に毛布やダンボールで区切られた小さな「部屋」がいくつも並んでいた。
咳をする老人。泣いている赤ちゃん。ひそひそと話す大人たち。
——ここが、私の新しい居場所。
そう思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
◆
避難所に着いてから、もう六時間が経っていた。
受付で名前と住所を書き、毛布とペットボトルの水をもらった。割り当てられたのは、体育館の隅——壁際のスペースだった。
ダンボールで仕切られた隣には、小さな女の子を連れた若いお母さんがいた。女の子は目を真っ赤にして、お母さんにしがみついている。
「大丈夫だからね。パパは後から来るから」
お母さんの声は震えていた。自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
私は、その親子から目を逸らした。
逸らしてしまった。
——何か、声をかけるべきだったのかもしれない。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
◆
毛布を広げて座っていると、ふと、迅くんのことを思い出した。
——必ず、迎えに行く。
別れ際に言ってくれた言葉。あの目。あの声。
忘れられるはずがなかった。
今頃、迅くんはどこで何をしているんだろう。
また危険な場所に飛び込んでいるんじゃないだろうか。休む暇もなく、誰かを助けに行っているんじゃないだろうか。
私は待っていることしかできない。
それが——悔しかった。嬉しいはずなのに、悔しい。守られているだけの自分が、もどかしかった。
◆
お昼過ぎ、配給の時間になった。
長い列ができていた。おにぎりと味噌汁。温かいものが食べられるのは、ありがたかった。
列に並んでいると、前にいた老婦人がよろめいた。
「大丈夫ですかっ」
私は思わず声をかけた。老婦人の腕を支える。
「ああ、ありがとう。立ちっぱなしは堪えるねえ」
老婦人は疲れた笑顔を浮かべた。
「お先にどうぞ。私は若いですから、全然平気ですっ」
私は老婦人に順番を譲った。
「そんな、悪いよ」
「いえいえ、気にしないでくださいっ」
老婦人は何度もお礼を言いながら、おにぎりを受け取っていった。
——こういう小さなこと、いくらでもできる。
そう思うと、気持ちが少し軽くなった。
◆
その女性に気づいたのは、配給の列から離れた時だった。
長い髪をひとつに結んだ女性が、忙しそうに動き回っていた。年齢は三十代くらいだろうか。スーツのジャケットを脱いで、シャツの袖をまくっている。
配給の指示を出している。物資を運んでいる人に声をかけている。ダンボールを積み直している。泣いている子どもの頭を撫でている。
一人で何役もこなしているように見えた。
「——あ、そっちのダンボール、もう少し奥にお願い!」
声が通る。明るくて、力強い声だった。
周りの人たちが、その女性の指示で動いている。自治体の職員かな、と最初は思った。でも、名札はつけていない。
——あの人、誰だろう。
◆
午後三時を回った頃、私は体育館の中を見渡していた。
何かできることはないだろうか。
ただ座って待っているのは、どうしても落ち着かなかった。迅くんは今も誰かを助けているかもしれないのに、私は毛布に包まって待っているだけ。
それが——嫌だった。
立ち上がって、さっきの女性を探した。
見つけたのは、体育館の入り口付近だった。物資の仕分けをしている。ダンボール箱を開けて、中身を確認して、振り分けて。一人で黙々と作業していた。
私は近づいた。
「あの——すみません」
女性が顔を上げた。
目が合った瞬間、驚いた。
疲れた顔をしていた。目の下に隈がある。でも、その目は——どこか、力強かった。
「何? 何か困ってる?」
女性の声は、さっきと同じように明るかった。
◆
「私——何か、手伝えることはありませんか」
言葉が、思ったより小さくなった。
女性は目を見開いた。それから、私を上から下まで見た。
「あんた、避難してきた子?」
「はいっ。今朝、ヘリで運ばれてきました」
「ヘリ……ああ、山で孤立してた人たちか」
女性は頷いた。
「怪我は?」
「ないですっ。大丈夫です」
「家族は?」
——その質問に、一瞬だけ言葉が詰まった。
「……祖母が、町に残りました」
女性の目が、ほんの少し細くなった。
何かを察したような、そんな目だった。
「そう」
それだけ言って、女性はダンボールに視線を戻した。
「……手伝いたいって言ったわね」
「はい」
「なんで?」
その質問に、私は考えた。
なんで。どうして。
うまく言葉にできない。でも——
「……じっとしていられないんです」
それが、正直な気持ちだった。
「誰かが頑張っているのに、私だけ何もしないで座っているのは——嫌なんです」
女性は、また私を見た。
今度は長く。
それから——笑った。
「いいわね、その根性」
女性はダンボールを持ち上げて、私に渡した。
「これ、奥のステージの方に運んで。毛布とタオルが入ってるから」
「は、はいっ!」
私は慌ててダンボールを受け取った。思ったより重かった。
「名前は?」
「海野凛です」
「凛ね。あたしはマリア。三条マリア」
マリアさんは、また笑った。
「よろしく、凛ちゃん」
◆
それから、私はマリアさんの手伝いを始めた。
ダンボールを運ぶ。毛布を配る。ペットボトルの水を並べる。ゴミを集める。
単純な作業だった。でも、体を動かしていると、気持ちが楽になった。
マリアさんは休むことなく動き続けていた。配給の調整をして、自治体の職員と話して、高齢者の様子を見て回って、子どもたちに声をかけて。
「マリアさんは、この避難所の責任者なんですか?」
私が聞くと、マリアさんは苦笑した。
「責任者? まさか。あたしはただのボランティアよ」
「ボランティア……?」
「たまたまここに来て、たまたま仕切り始めただけ。成り行きってやつね」
マリアさんは肩をすくめた。
「でも、誰かがやらなきゃでしょ。文句言ってても物資は運ばれないし、配給は始まらないし」
その言葉は、どこか——迅くんと似ていると思った。
誰かがやらなきゃ。
目の前で困っている人がいるなら、動く。
そういう人なんだ。
◆
夕方になった。
配給の準備をしている時、マリアさんがふと言った。
「凛ちゃん、ずっと動きっぱなしじゃない。休んだら?」
「大丈夫ですっ。まだ動けますから」
私が答えると、マリアさんは呆れたような顔をした。
「あんた、自分のことは後回しにするタイプでしょ」
図星だった。
「……よく分かりますね」
「見れば分かるわよ。あたしも若い頃、似たようなもんだったから」
マリアさんは、手を止めた。
「いい? 自分を壊したら、誰も助けられなくなるの。だから、休むのも仕事よ」
その言葉が、胸に刺さった。
——おばあちゃんも、同じようなことを言っていた。
『お前は人のことばかり考えて、自分のことを忘れる子だ』って。
「……はい」
私は頷いた。
マリアさんは満足そうに笑って、また作業に戻った。
◆
夜になった。
体育館の灯りが落とされて、静かになった。
毛布に包まって横になっても、なかなか眠れなかった。
隣のスペースでは、さっきの親子が寄り添って眠っている。女の子は、お母さんの腕の中で安らかな顔をしていた。
天井を見上げる。
蛍光灯の光が、ぼんやりと滲んでいた。
——迅くん。
今頃、どうしているだろう。
無事だろうか。ちゃんと休んでいるだろうか。
——休んでいないんだろうな。
あの人は、そういう人だから。
自分のことは後回しにして、誰かのために動き続ける人だから。
私は——そんな迅くんが心配で、誇らしくて、寂しかった。全部がごちゃまぜになって、うまく言葉にできなかった。
◆
眠れないまま、起き上がった。
体育館の隅に行って、窓から外を見た。
夜空には雲がかかっていて、星は見えなかった。
「眠れない?」
声がして振り返ると、マリアさんが立っていた。
缶コーヒーを二つ持っている。
「一本どう?」
「あ、ありがとうございますっ」
私は缶を受け取った。冷たかった。
マリアさんは、私の隣に立って、同じように窓の外を見た。
「誰かを待ってるの?」
その質問に、私は驚いた。
「……どうして分かるんですか」
「なんとなくよ。遠くを見る目をしてたから」
マリアさんは缶コーヒーを開けた。プシュッと音がした。
「彼氏?」
「え——いえ、違います。違う、というか……」
言葉に詰まる。
彼氏じゃない。幼馴染。でも——ただの幼馴染でもない。
「……大切な人、です」
それが、一番正直な答えだった。
マリアさんは笑った。
「いいじゃない。大切な人がいるって、それだけで強くなれるわよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
マリアさんの目は、窓の外を見ていた。
遠くを見る目。
——マリアさんにも、大切な人がいるんだろうか。
聞きたかったけど、聞けなかった。
◆
缶コーヒーを飲みながら、しばらく黙っていた。
マリアさんが、ふと言った。
「凛ちゃんは、今日一日よく動いてたわ。助かったわよ」
「……私なんて、大したことしてないですっ」
「そんなことないわよ。あんたが老人に順番譲ってたの、見てた」
え、と私は驚いた。
「あれ、いいなって思ったの。自然にできるって、なかなかないのよ」
マリアさんの声は、柔らかかった。
「明日もいる? 手伝ってくれると嬉しいんだけど」
その言葉に、私は——嬉しくなった。じわりと、温かいものが胸に広がる。
「はいっ。いさせてください」
マリアさんは満足そうに頷いた。
「じゃ、明日から本格的にお願いするわ。覚悟しておきなさいよ」
「はいっ」
マリアさんは笑って、缶コーヒーを飲み干した。
そして——ふと、真顔になった。
「凛ちゃん」
「はい」
「生き残ったってことは、生きなきゃいけないってことよ。分かるわよね」
その言葉に、私は息を呑んだ。
おばあちゃんの顔が浮かんだ。高橋先生の顔が浮かんだ。町に残った人たちの顔が浮かんだ。
——私は、生き残った側だ。
「……はい」
私は頷いた。
マリアさんは何も言わなかった。
ただ、私の肩をぽん、と叩いて、去っていった。
◆
一人になって、窓の外を見た。
暗い夜空。星は見えない。でも、雲の向こうには——きっと、あるはずだ。
迅くんは今、どこにいるんだろう。
無事でいてほしい。
でも、あの人は——きっと、今も誰かを助けている。
だから私も、ここで頑張ろう。
待っているだけじゃなくて、私にできることをしよう。
毛布を配ることでも、水を運ぶことでも、誰かに声をかけることでも。
小さなことしかできないけど——それでも、何もしないよりはずっといい。
——迅くん。
私、ちゃんと生きてますよ。
だから、あなたも——無事でいてください。
窓ガラスに、私の顔が薄く映っていた。
涙の跡はなかった。
今は、泣いている場合じゃないから。
【第21章 終】




