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沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


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第20章「戦場へ」

第20章「戦場へ」

【神谷迅視点】


 浜松基地に降り立った時、太陽は既に高く昇っていた。


 六月の日差しが滑走路を焼いている。熱を帯びたアスファルトの匂いが、じわりと鼻を突いた。ヘリのローターが止まり、エンジン音が消えると、代わりに基地内の喧騒が耳に入ってきた。


 人が走っている。車両が動いている。無線の音。怒号。


 戦場だ。


 そう思った。


 ここは災害派遣の最前線——戦場だ。


         ◆


 格納庫に向かう途中、田村が隣に並んだ。


「神谷三佐。とりあえず仮眠取りませんか。昨夜からずっと動きっぱなしっすよ」


「後でいい」


「後でって……」


 田村の声には呆れと心配が混じっていた。三年来の相棒だ。俺の性分は知っている。


「被害状況は」


「駿河湾沿岸部を中心に、建物倒壊多数。津波は退避が間に合った地域は被害軽微っすけど、山間部で土砂崩れが相次いでます。道路寸断で孤立してる集落がいくつも」


 田村が早口で報告する。


「死者は現時点で百人超。行方不明者はその三倍以上」


「……そうか」


 数字だ。


 だがその数字の向こう側に、一人ひとりの命がある。


 杉浦が言っていた言葉を思い出した。


「次の出動は」


「十五分後っす。補給終わったらすぐ」


「分かった」


 俺は歩く速度を上げた。


         ◆


 出動までの十五分で、俺は缶コーヒーを一本飲んだ。それだけだ。


 食欲はなかった。胃の奥が重い。それが疲労なのか、別の何かなのか、分からなかった。


 格納庫の隅で、若い隊員たちが準備に追われている。


 その顔を見た。緊張している者。昂ぶっている者。不安を押し殺している者。


 三日前まで、ここは「日常」だった。訓練と待機の繰り返し。いつ来るか分からない「その時」を待つ日々。


 そして「その時」が来た。


 俺たちは、訓練してきたことをやるだけだ。


「神谷三佐」


 声をかけられて振り返ると、若い隊員が立っていた。入隊して二年目。名前は——確か、佐々木。


「何だ」


「自分も、今回の任務に同行させてください」


 佐々木の目は真剣だった。怖さを押し殺している目だ。


「お前は次のローテーションだ」


「でも、人手が——」


「命令だ」


 俺は短く言った。


 佐々木は唇を噛んだ。悔しそうだった。でも、反論はしなかった。


「……了解しました」


 敬礼して去っていく背中を見送った。


 焦るな。焦って現場に出ても、救える命は増えない。


 そう言いたかった。でも、言葉にはしなかった。


 俺自身が、焦っているからだ。


         ◆


 最初の任務地は、富士宮市の山間部だった。


 土砂崩れで道路が寸断され、集落が孤立している。住民は約三十人。高齢者が多い。


 ヘリの窓から見下ろすと、山肌が抉れていた。


 茶色い土砂が、緑の斜面を引き裂くように流れている。道路は完全に埋まっていた。


 上空から見ると、被害の規模がよく分かる。


 だが同時に、人の姿は見えにくくなる。


 あの土砂の下に、誰かがいるかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が軋んだ。


「着陸ポイント確認。降下準備」


 田村の声で、意識を切り替えた。


 今は、考えるな。動け。


         ◆


 集落に降り立つと、住民たちが集まってきた。


 安堵と疲労が入り混じった顔。涙を流している老婆。子どもを抱きしめる母親。


「自衛隊です。状況を確認させてください」


 俺は集落の代表らしき男性に声をかけた。六十代くらい。農作業着を着ている。


「ありがとうございます……助かりました」


 男性の声は震えていた。


「怪我人は」


「三人。骨折が二人、頭を打った者が一人。意識はあります」


「行方不明者は」


 男性の顔が曇った。


「……一軒、連絡が取れない家があります。土砂崩れの直下で……」


 俺は頷いた。


「案内してください」


         ◆


 土砂崩れの現場に着いた時、最悪の光景が広がっていた。


 家が、半分埋まっていた。


 二階建ての木造家屋。一階部分が完全に土砂に呑まれている。二階の窓だけが、かろうじて見えていた。


 土と草が混ざった、生臭い匂いが鼻を突く。雨上がりの山の匂いとは違う。何かが壊れた匂いだ。


「あの家に、山下さんって人が住んでたんです。八十過ぎのおばあさんで……」


 集落の代表が言った。声が震えている。


「昨日の地震の時、避難しようとしたんですけど、足が悪くて動けなくて……誰かが迎えに行こうとした時に、また揺れて……」


 俺は土砂の状態を観察した。


 二次崩落の危険がある。上の斜面がまだ不安定だ。


 だが、中に人がいるなら。


「田村」


「はい」


「斜面の状態を監視しろ。危険を感じたら即座に撤退の合図を出せ」


「了解っす」


 俺は土砂に足を踏み入れた。


         ◆


 土砂は柔らかく、足が沈む。


 一歩ごとに、バランスを取りながら進む。


 二階の窓まで、あと五メートル。三メートル。一メートル。


 窓ガラスは割れていた。中を覗き込む。


 暗い。土砂が一階から押し上げてきていて、二階の床も一部が歪んでいる。


「山下さん! 聞こえますか!」


 声を張り上げた。


 返事がない。


 もう一度。


「山下さん! 自衛隊です! 聞こえたら返事してください!」


 静寂。


 それから——かすかな音。


 うめき声。


「生きてる——田村! 生存者確認!」


 俺は窓枠を掴み、中に身体を入れた。


         ◆


 二階の部屋は、畳が斜めになっていた。


 家全体が傾いている。床を踏むたびに、軋む音がした。古い木材と埃の匂いが充満している。


 うめき声の方へ進む。


 隣の部屋。襖が外れて倒れている。その下に——


 老婆がいた。


 白髪。皺だらけの顔。目を閉じている。


 息はある。浅いが、ある。


「山下さん。聞こえますか」


 俺は老婆の傍に膝をついた。


 目が開いた。濁った瞳が、俺を見た。


「……誰……」


「自衛隊です。今、助けます」


 老婆の手を握った。冷たかった。


「……あの子は……」


「あの子?」


 老婆の視線が動いた。部屋の奥——押し入れの方。


「……孫が……隠れてる……」


 俺の心臓が跳ねた。


 押し入れに駆け寄る。襖を開ける。


 中に、子どもがいた。


 男の子。七、八歳くらい。膝を抱えて丸まっている。目を固く閉じて、震えていた。


「大丈夫だ」


 俺は声をかけた。できるだけ穏やかに。


「もう大丈夫だ。助けに来た」


 子どもの目が、ゆっくりと開いた。


 その瞳を見た瞬間——胸の奥で何かが軋んだ。


 恐怖。絶望。誰かを待ち続けた長い時間。


 そして——ここにいることへの罪悪感。


 生きていることが、なぜか後ろめたいという顔をしていた。


 ——知っている。この目を、俺は知っている。


 八年前。津波の後。瓦礫の中で、救助を待っていた自分。


 両親を失い、妹を失い、何も分からないまま、ただ震えていた自分。


 あの時、俺も同じ目をしていたはずだ。


 なぜ自分だけが生き残ったのか、分からなかった。分かりたくなかった。


「……おじいちゃんと、おかあさんは……」


 子どもの声が、掠れた。


 俺は喉が詰まった。何を言えばいいか、分からなかった。


「……助けに来た」


 それだけを言って、子どもの身体を抱き上げた。


 軽い。こんなに軽い。


 この身体を、守らなければ。


 今度こそ——守らなければ。


         ◆


 老婆と子どもを、ヘリまで運んだ。


 老婆は途中で意識を失った。呼吸は続いている。だが、状態は良くない。


 子どもは俺の服を掴んだまま離さなかった。


 田村がブランケットを持ってきて、子どもに掛けた。


「大丈夫っすよ。もう安全だから」


 田村の声は優しかった。


 子どもは頷かなかった。ただ、俺を見ていた。


 あの目で。


 八年前の俺と同じ目で。


「……おじさん」


 子どもが、小さな声で言った。


「おかあさん、どこ……」


 口を開きかけて、閉じた。今の俺に、この子に言える言葉があるのか。


 この子の母親が無事かどうか、俺には分からない。


 土砂の下にいるのかもしれない。既に——


 いや。考えるな。今は考えるな。


「探す」


 俺は、それだけを言った。


「必ず探す。だから、ここで待ってろ」


 子どもの目に、涙が溢れた。


 声を上げずに、涙だけが頬を伝っていく。


 俺は——その頭を、そっと撫でた。


 八年前、俺を救ってくれた救助隊員も、こうしてくれたのかもしれない。


 覚えていない。あの時のことは、ほとんど覚えていない。


 だが、誰かの手が温かかったことだけは、覚えている。


         ◆


 その後も、救助活動は続いた。


 孤立した集落から住民を搬送。倒壊した建物からの捜索。物資の輸送。


 太陽が傾き始めても、任務は終わらなかった。


 子どもの母親は——見つからなかった。


 土砂の下から、遺体として発見された。


 俺がそれを聞いたのは、三度目の出動から戻った時だった。


 田村が、俺に伝えた。


「……あの子、どうしてる」


「避難所に移送されました。親戚に連絡が取れたみたいっす」


「……そうか」


 それ以上、俺は口を開かなかった。何を言っても、嘘になる気がした。


 ——救えなかった。


 母親を、救えなかった。


 あの子は今、俺と同じ痛みを抱えて生きることになる。


 両親を失った痛み。取り戻せない喪失。


 俺には分かる。その痛みが、どれだけ深いか。


 だから——


 止まれない。


 俺は、止まれない。


         ◆


 基地に戻ったのは、日が沈んでからだった。


 身体が重かった。目の奥がじんじんと痛む。何時間眠っていないか、もう分からない。


 格納庫の隅で、俺は壁に背中を預けていた。


 田村が、缶コーヒーを持ってきた。


「神谷三佐。とりあえず、これ」


「……ああ」


 受け取って、一口飲む。苦い。胃が重い。


「今日は、ここまでにしましょう」


 田村が言った。声が真剣だった。


「明日も出動あるんすから。休まないと——」


「まだだ」


 俺は、田村の言葉を遮った。


「まだ、終わってない。行方不明者が、まだいる」


「神谷三佐——」


「止まったら、終わりなんだ」


 言葉が、勝手に口から出た。


 止まったら、終わり。


 考えてしまう。あの子の母親のことを。救えなかった命のことを。


 そして——八年前のことを。


 止まったら、全部が押し寄せてくる。


 だから、動き続けるしかない。


「……神谷三佐」


 田村が、俺を見ていた。


 その目に、何かがあった。心配。それ以上の何か。


「あの子のこと、気にしてるんすか」


「……」


「今日、助けた子ども。ずっと神谷三佐のこと見てたっすよね」


 俺は、返す言葉を持たなかった。


「……自分にもガキがいるんで、分かるんすけど」


 田村が、ぽつりと言った。


「ああいう目をした子どもを見ると、胸が潰れそうになりますよね」


「……ああ」


「でも、神谷三佐。あの子を助けたのは、あんたっすよ」


 田村の声が、静かだった。


「母親は救えなかった。でも、あの子は生きてる。それは——神谷三佐がいたからっす」


 俺は、黙って田村の言葉を聞いていた。


 分かっている。分かっているんだ。


 全員は救えない。救える命を、一つでも多く救う。それしかできない。


 それでも——


 救えなかった命が、重い。


 いつも、いつまでも、重い。


「……明日も、頼む」


 俺は、それだけを言った。


 田村は頷いた。


「了解っす。でも、今日は休んでくださいよ」


「……考えておく」


 答えになっていない。自分でも分かっていた。


 田村は、それ以上何も言わなかった。


 俺は缶コーヒーを飲み干して、空を見上げた。


 星が出ていた。


 あの避難所で、凛は今頃何をしているだろう。


 無事でいるだろうか。


 ——必ず、迎えに行く。


 そう約束した。


 だから、俺は——まだ、止まれない。


【第20章 終】


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