第2章 沈黙の海底
第2章 沈黙の海底
【神谷迅視点】
翌朝、〇七五五。
格納庫前に立つと、杉浦沙耶はすでに待っていた。
昨日と同じポニーテール。白衣の代わりに、今日はオレンジ色のフライトスーツを着ている。サイズが合っていないのか、袖が少し余っていた。
「おはようございます、神谷三佐」
「……ああ」
俺は短く答え、機体の方へ歩き出した。UH-60J。昨日と同じ機体だ。整備班が夜通しで点検を終わらせてくれている。
「資料、読んでいただけましたか」
背後から杉浦の声が追いかけてくる。
「読んだ」
「どう思いましたか」
足を止めた。視線を向けると、杉浦は真剣な目でこちらを見ていた。目の下のクマが、昨日より濃くなっている気がする。
「どう思ったか、と聞かれても困る。俺は地震の専門家じゃない」
「でも、グラフが異常だってことは分かったでしょう」
「ああ。それで?」
「それで、って……」
杉浦は一瞬、言葉に詰まった。何かを言いかけて、飲み込む。
「……いえ。現地を見れば分かります」
俺たちは黙って機体に乗り込んだ。
◆
〇八一五、離陸。
浜松基地を後にし、駿河湾上空へ向かう。今日の任務は、御前崎沖に設置された海底観測機器のデータ回収と、周辺海域の目視確認だ。
コックピットには俺と副操縦士の二名。後部キャビンには杉浦と、もう一人——彼女のチームから派遣された技術者が乗っている。
「神谷三佐」
ヘッドセット越しに、杉浦の声が届いた。
「何だ」
「少し、説明させてもらっていいですか。駿河トラフのこと」
俺は計器から目を離さず、短く答えた。
「聞く」
「駿河トラフは、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいる場所です。年間約四センチのペースで」
「それは知ってる」
「はい。問題は、その沈み込みが最近、急に加速していることです」
加速。
昨夜のグラフを思い出す。右肩上がりに跳ね上がっていた線。
「この三ヶ月で、通常の二倍以上のペースで歪みが蓄積されています。特にこの二週間は、観測史上最速です」
「それが何を意味する」
「分かりません」
予想外の答えだった。俺は肩越しに後方を見た。
杉浦は、キャビンの窓から海を見つめていた。その横顔は、どこか疲れ切っているように見えた。
「分からないのか」
「ええ。だから見に行くんです」
彼女は視線を俺に向けた。
「科学って、そういうものです。分からないから観測する。観測したデータを積み上げて、やっと少しだけ分かる。予報なんて、その繰り返しの上に辛うじて成り立っている不完全なものです」
「不完全」
「はい。でも——」
杉浦は少し間を置いて、続けた。
「何も知らないよりは、マシだと思っています」
その言葉には、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。
俺は前を向き直し、操縦桿を握り直した。
「……御前崎沖、まもなく到着する」
◆
観測ポイントに到着したのは、〇八四五。
機体をホバリングさせ、後部キャビンから観測機器を海中に降ろす。杉浦と技術者が、モニターに張り付いてデータを確認していた。
「水温、異常なし。塩分濃度、正常範囲内」
技術者が読み上げる数値を、杉浦がタブレットに記録していく。
俺は計器を確認しながら、時折眼下の海面に目を向けた。
昨日見た濁りは、今日は見えない。海は穏やかで、初夏の陽光を受けて青く輝いている。
——気のせいだったのか。
そう思いかけた、その時だった。
「……ちょっと待って」
杉浦の声が、急に緊張を帯びた。
「どうした」
「海底の水圧センサーに異常値が出ています。急激に上昇して……いえ、これは」
彼女がモニターを凝視する。
「気泡だ」
「気泡?」
「海底から、大量の気泡が上がってきています。メタンか、それとも——」
その瞬間、機体が揺れた。
いや、違う。機体ではない。
海面だ。
眼下の海が、まるで沸騰しているかのように泡立っていた。白い気泡が、無数に、海底から噴き出している。低いゴボゴボという音が、ローターの轟音の隙間を縫って聞こえてきた。海水が泡立ち、弾ける音。生き物の蠢きにも似た、不気味な響き。
体の芯が、理由もなく凍りついた。
見たことがない。こんな現象は、八年間飛び続けて一度も見たことがない。頭が理解を拒んでいる。なのに、目が離せなかった。
「何だ、これは……」
副操縦士が呻く。
俺は反射的に高度を上げた。五十メートル、百メートル。だが、気泡の範囲は広がり続けている。直径二百メートル、三百メートル——
「杉浦」
俺は肩越しに後方を見た。
「これは何だ。説明しろ」
杉浦は、モニターを見つめたまま動かなかった。
その顔から、血の気が引いていた。唇が微かに震えている。
「……予想より、早い」
声がかすれていた。普段の理路整然とした口調が崩れ、言葉が途切れ途切れになっている。
「何が早い。何が起きてる」
「海底の地殻が——動き始め——いえ、待って、データを確認——」
彼女の指がタブレットの上で震えていた。早口で何かを呟きながら、画面を必死にスクロールしている。
「駿河トラフの——プレート境界が、滑り始めている可能性があります」
滑り始めている。
その言葉の意味を、俺は理解した。
地震だ。
それも、ただの地震じゃない。
「……まさか」
「まだ分かりません。データが不十分——でも、このペースで気泡が出続けているなら——」
杉浦が俺を見た。
その目には、恐怖があった。それを押し殺そうとする意志と、押し殺しきれない動揺が入り混じっていた。科学者としての冷静さを保とうとしている。だが、体は正直だった。
「神谷三佐。すぐに戻ってください。このデータを、一刻も早く本部に送らないと」
俺は頷いた。
「RTB。浜松へ帰投する」
機首を北に向ける。
背後で、杉浦が無線機を掴み、必死に何かを伝えようとしているのが聞こえた。声が上ずっている。データを読み上げる口調が、明らかに普段より速い。
だが、俺の耳には、別の音が残っていた。
海底から噴き出す、無数の気泡の音。
あの低い、ゴボゴボという響き。まるで海の底で、何か巨大なものが目を覚ましたような——
◆
浜松基地に着陸したのは、〇九三〇。
杉浦は機体を降りるなり、走り出した。オレンジ色のフライトスーツの背中が、隊舎の方へ消えていく。
俺はしばらく、コックピットに座ったまま動けなかった。
八年前の記憶が、頭の隅でちらついていた。
あの時も、海は静かだった。
何の前触れもなく、黒い波が押し寄せてきた。
——また、同じことが起きるのか。
握りしめた操縦桿が、汗で滑った。怒りなのか、恐怖なのか、焦燥なのか。感情の正体が分からない。ただ、胸の奥で何かがぐちゃぐちゃに渦を巻いている。
いや。
今回は違う。
今回は、「前触れ」がある。
杉浦が見つけた異常値。海底から噴き出す気泡。加速するプレートの動き。
全ては、何かが起きる前の——
「神谷三佐」
副操縦士の声で、我に返った。
「……ああ」
「大丈夫ですか。顔色が悪いですが」
「問題ない」
俺は飛行服のジッパーを上げ直し、機体を降りた。
格納庫の向こうで、杉浦が電話をしているのが見えた。激しく身振りを交えながら、何かを訴えている。
——何も知らないよりは、マシ。
彼女の言葉が、頭の中で反響していた。
だが、知ったところで、何ができる。
八年前、俺は何も知らなかった。だから、何もできなかった。
今回は、少しだけ知っている。
それで、何が変わる。
答えは出なかった。
ただ、胸の底に沈んだ重石が、昨日よりも重くなっているのを感じていた。
【第2章 終】




