第19章「崩れた国土」
第19章「崩れた国土」
【杉浦沙耶視点】
午前七時二十三分。
地殻変動観測チーム本部のモニターは、休むことなく動き続けていた。
空調の低い唸りが、静かな部屋に響いている。蛍光灯の白い光が目に刺さった。窓のブラインドは閉じられたままで、外が朝なのか夜なのかも分からない。
私は椅子に座ったまま、三十時間以上をこの部屋で過ごしている。最後にまともな食事をしたのがいつだったか、もう思い出せない。肩が鉛のように重く、目の奥がじんじんと痛んでいた。
隣のデスクでは山崎が仮眠から戻り、青白い顔でキーボードを叩いている。
「杉浦主任。被害状況の集計、まとまりました」
「……見せて」
声が掠れていた。コーヒーを飲みすぎたせいで、喉が張りついている。
山崎が画面を切り替える。
駿河湾沖を震源とするマグニチュード七・八の地震。最大震度七を静岡県東部で観測。津波警報は発令されたものの、沿岸部の退避が間に合った地域では被害は軽微——
数字が、並んでいく。
死者百十二名。行方不明者三百四十七名。負傷者は二千人を超える。
「……少ない」
思わず、呟いていた。
山崎が振り返る。
「少ない、ですか」
「退避計画が間に合った。だからこの数字で済んでいる」
退避計画が発令されていなければ。沿岸部に人が残っていれば。この数字は、桁が一つか二つ違っていたはずだ。
東堂さんの決断が、何千人もの命を救った。
でも——
私の目は、モニターの別の領域に向かっていた。
◆
リアルタイムで更新されるGPS観測点のデータ。
海底水圧計のグラフ。
地震計の波形。
どれも、「終わり」を示していなかった。
「山崎」
「はい」
「御前崎沖の観測点、変位量を出して」
「了解です」
山崎がデータを呼び出す。
私は立ち上がり、大型モニターの前に移動した。長時間座っていた足が、一瞬もつれた。
画面に、駿河トラフ周辺の地図が表示される。GPS観測点が点として示され、それぞれの変位がベクトルで描かれている。
地震の前と後で、陸地がどれだけ動いたか。
それを見れば、プレート境界で何が起きたかが分かる。
「……おかしい」
私は、画面に顔を近づけた。
「杉浦主任?」
「変位量が、小さすぎる」
山崎が私の隣に立った。
「小さすぎる、というのは——」
「M七・八の地震なら、もっと大きな地殻変動が起きるはず。でも、観測された変位は想定の六割程度しかない」
私は、画面を指差した。
「つまり——プレート境界で蓄積されたひずみが、全部解放されていない」
山崎の顔から、血の気が引いた。
「それって——」
「まだ、残っている。次の地震を起こすだけのエネルギーが、プレート境界に溜まったままだということ」
◆
私は、別のデータを呼び出した。
海底水圧計の時系列グラフ。
昨日の地震の前後で、海底の深さがどう変化したかを示している。
地震の瞬間、プレート境界が一気にずれ動く。海底が隆起するか、沈降するか——その変化が水圧計で観測できる。
グラフを見ると、地震の瞬間に急激な変化があった。当然だ。
問題は、その後だった。
「……まだ動いてる」
私は、呟いた。
地震から十時間以上が経過しているのに、海底の深さがゆっくりと変化し続けている。
これは、プレート境界が「ゆっくり滑っている」ことを意味する。
専門用語で言えば、「スロースリップ」——あるいは「余効滑り」。
通常なら、本震の後に発生するこの現象は、数日から数週間かけて収束していく。
でも、このデータは——
「収束していない」
私は、モニターを見つめたまま言った。
「むしろ、加速している」
山崎が、言葉を失ったように黙り込んだ。
「分からない。前例がない」
私は、首を横に振った。
「でも、一つ言えることがある」
山崎を見た。
「昨日の地震は、終わりじゃない。始まりに過ぎないかもしれない」
◆
東堂さんに連絡を取ったのは、午前八時過ぎだった。
電話の向こうで、東堂さんの声が聞こえた。疲労が滲んでいたが、それでも冷静だった。
『杉浦主任。状況は』
「データを分析しました。結論から言います」
私は、深呼吸をした。
「昨日の地震で、プレート境界のひずみは全て解放されていません。まだ、次の地震を起こすだけのエネルギーが残っています」
『……続けてください』
「海底水圧計のデータによると、プレート境界は今もゆっくり滑り続けています。通常であれば、余効滑りは時間と共に収束するはずですが——今回は違います」
私は、言葉を選んだ。
「滑りが、加速しています。このパターンは、過去のデータにありません。前例がない」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
『……それは、どういう意味ですか』
「最悪の場合——昨日の地震は、本震ではなく前震だった可能性があります」
私は、はっきりと言った。
「第二波が来るかもしれません。昨日よりも、大きな地震が」
長い沈黙。
そして、東堂さんの声が聞こえた。
『確率は』
「……正直に言います。計算できません」
私は、自分の無力さを噛み締めながら答えた。
「このパターンは前例がない。モデルに当てはめることができない。だから、確率を出せない」
『では、あなたの直感は』
また、直感を聞かれた。
科学者に、直感を。
でも——東堂さんは、いつも私の答えを待っている。数字が出せない時でも、私が何を感じているかを聞いてくれる。
「……来ると思います」
私は、答えた。
「いつかは分かりません。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。でも——このまま何も起きないとは、思えない」
『分かりました』
東堂さんの声は、静かだった。
『避難指示の延長と、対象地域の拡大を検討します。あなたの報告を、官邸に上げます』
「お願いします」
『杉浦主任。あなたは、できる限りのことをしています。それは分かっています』
その言葉が、胸に沁みた。
分かっている。分かっているけど——できる限りのことが、十分ではないかもしれない。
その恐怖と、それでも続けなければという使命感が、同時に胸の中でせめぎ合っていた。
「……ありがとうございます」
『引き続き、監視をお願いします。何か変化があれば、すぐに連絡を』
「はい」
通話が切れた。
私は、受話器を置いた。
手が、かすかに震えていた。
◆
窓の外を見た。
東京の空は、曇っていた。
昨夜から降り続いていた雨は止んだが、雲は厚く、太陽の光は届かない。
——神谷三佐は、今頃どうしているだろう。
夜明け前の通信で、無事だと分かった。
「別に心配してたわけじゃ」と言ったのに、声が震えていた。バレバレだったと思う。
恥ずかしい。……いや、恥ずかしいなんて言ってる場合じゃない。
でも——生きていてくれて、よかった。
あの人には、守りたい人がいる。
避難民を一人、連れていると言っていた。きっと、あの女の子——海野凛のことだろう。
幼馴染。大切な人。
私には——
私には、何がある?
データ。予報。確率。
それが誰かの命を救うことに繋がるなら——それが、私の答えだと思っていた。
でも、今は。
データが叫んでいるのに、「いつ」と言えない。
「来る」と思っているのに、証明できない。
科学は、100パーセントを言わない。
だから——最後の最後で、役に立たない。
そんな思いが、胸を締めつけた。
◆
午前九時。
私は、データの監視を続けていた。
山崎は仮眠に戻った。私も休むべきなのは分かっている。でも、目を離せなかった。
モニターの波形が、小刻みに揺れている。
微動。プレート境界で、小さな地震が断続的に起きている。
これは、何かの前兆なのか。それとも、余震の一種なのか。
分からない。
分からないけど、見続けるしかない。
それが、今の私にできる唯一のことだから。
——M七・八。死者百十二名。
数字を、頭の中で反芻した。
この数字の向こう側に、百十二人の人生があった。
家族がいて、友人がいて、夢があって、日常があった。
それが、一瞬で終わった。
そして——もしかしたら、これは始まりに過ぎないのかもしれない。
もっと大きな地震が来たら。
もっと多くの人が死んだら。
私は、それを防げるのか。
防げなくても——せめて、警告を発することはできるのか。
コーヒーカップを手に取った。
もう冷めきっている。
それでも、一口飲んだ。
苦かった。
——でも。
私は、モニターを見つめた。
私にできることは、見続けること。
データが何かを告げる瞬間を、見逃さないこと。
それが「いつ」かを言えなくても、「何か」が起きると警告することはできる。
東堂さんは、私の直感を信じてくれた。
神谷三佐は、私が発した情報で命を守った。
——科学は、100パーセントを言わない。
でも、0パーセントでもない。
できることが、まだある。
私は、モニターを見つめ続けた。
波形が、揺れている。
まるで、大地が何かを訴えているように。
——頼むから、間に合ってくれ。
祈りながら、私は見続ける。
それが、今の私にできる、精一杯のことだから。
【第19章 終】




