表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/22

第19章「崩れた国土」

第19章「崩れた国土」


【杉浦沙耶視点】


 午前七時二十三分。


 地殻変動観測チーム本部のモニターは、休むことなく動き続けていた。


 空調の低い唸りが、静かな部屋に響いている。蛍光灯の白い光が目に刺さった。窓のブラインドは閉じられたままで、外が朝なのか夜なのかも分からない。


 私は椅子に座ったまま、三十時間以上をこの部屋で過ごしている。最後にまともな食事をしたのがいつだったか、もう思い出せない。肩が鉛のように重く、目の奥がじんじんと痛んでいた。


 隣のデスクでは山崎が仮眠から戻り、青白い顔でキーボードを叩いている。


「杉浦主任。被害状況の集計、まとまりました」


「……見せて」


 声が掠れていた。コーヒーを飲みすぎたせいで、喉が張りついている。


 山崎が画面を切り替える。


 駿河湾沖を震源とするマグニチュード七・八の地震。最大震度七を静岡県東部で観測。津波警報は発令されたものの、沿岸部の退避が間に合った地域では被害は軽微——


 数字が、並んでいく。


 死者百十二名。行方不明者三百四十七名。負傷者は二千人を超える。


「……少ない」


 思わず、呟いていた。


 山崎が振り返る。


「少ない、ですか」


「退避計画が間に合った。だからこの数字で済んでいる」


 退避計画が発令されていなければ。沿岸部に人が残っていれば。この数字は、桁が一つか二つ違っていたはずだ。


 東堂さんの決断が、何千人もの命を救った。


 でも——


 私の目は、モニターの別の領域に向かっていた。


         ◆


 リアルタイムで更新されるGPS観測点のデータ。


 海底水圧計のグラフ。


 地震計の波形。


 どれも、「終わり」を示していなかった。


「山崎」


「はい」


「御前崎沖の観測点、変位量を出して」


「了解です」


 山崎がデータを呼び出す。


 私は立ち上がり、大型モニターの前に移動した。長時間座っていた足が、一瞬もつれた。


 画面に、駿河トラフ周辺の地図が表示される。GPS観測点が点として示され、それぞれの変位がベクトルで描かれている。


 地震の前と後で、陸地がどれだけ動いたか。


 それを見れば、プレート境界で何が起きたかが分かる。


「……おかしい」


 私は、画面に顔を近づけた。


「杉浦主任?」


「変位量が、小さすぎる」


 山崎が私の隣に立った。


「小さすぎる、というのは——」


「M七・八の地震なら、もっと大きな地殻変動が起きるはず。でも、観測された変位は想定の六割程度しかない」


 私は、画面を指差した。


「つまり——プレート境界で蓄積されたひずみが、全部解放されていない」


 山崎の顔から、血の気が引いた。


「それって——」


「まだ、残っている。次の地震を起こすだけのエネルギーが、プレート境界に溜まったままだということ」


         ◆


 私は、別のデータを呼び出した。


 海底水圧計の時系列グラフ。


 昨日の地震の前後で、海底の深さがどう変化したかを示している。


 地震の瞬間、プレート境界が一気にずれ動く。海底が隆起するか、沈降するか——その変化が水圧計で観測できる。


 グラフを見ると、地震の瞬間に急激な変化があった。当然だ。


 問題は、その後だった。


「……まだ動いてる」


 私は、呟いた。


 地震から十時間以上が経過しているのに、海底の深さがゆっくりと変化し続けている。


 これは、プレート境界が「ゆっくり滑っている」ことを意味する。


 専門用語で言えば、「スロースリップ」——あるいは「余効滑り」。


 通常なら、本震の後に発生するこの現象は、数日から数週間かけて収束していく。


 でも、このデータは——


「収束していない」


 私は、モニターを見つめたまま言った。


「むしろ、加速している」


 山崎が、言葉を失ったように黙り込んだ。


「分からない。前例がない」


 私は、首を横に振った。


「でも、一つ言えることがある」


 山崎を見た。


「昨日の地震は、終わりじゃない。始まりに過ぎないかもしれない」


         ◆


 東堂さんに連絡を取ったのは、午前八時過ぎだった。


 電話の向こうで、東堂さんの声が聞こえた。疲労が滲んでいたが、それでも冷静だった。


『杉浦主任。状況は』


「データを分析しました。結論から言います」


 私は、深呼吸をした。


「昨日の地震で、プレート境界のひずみは全て解放されていません。まだ、次の地震を起こすだけのエネルギーが残っています」


『……続けてください』


「海底水圧計のデータによると、プレート境界は今もゆっくり滑り続けています。通常であれば、余効滑りは時間と共に収束するはずですが——今回は違います」


 私は、言葉を選んだ。


「滑りが、加速しています。このパターンは、過去のデータにありません。前例がない」


 電話の向こうで、沈黙が落ちた。


『……それは、どういう意味ですか』


「最悪の場合——昨日の地震は、本震ではなく前震だった可能性があります」


 私は、はっきりと言った。


「第二波が来るかもしれません。昨日よりも、大きな地震が」


 長い沈黙。


 そして、東堂さんの声が聞こえた。


『確率は』


「……正直に言います。計算できません」


 私は、自分の無力さを噛み締めながら答えた。


「このパターンは前例がない。モデルに当てはめることができない。だから、確率を出せない」


『では、あなたの直感は』


 また、直感を聞かれた。


 科学者に、直感を。


 でも——東堂さんは、いつも私の答えを待っている。数字が出せない時でも、私が何を感じているかを聞いてくれる。


「……来ると思います」


 私は、答えた。


「いつかは分かりません。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。でも——このまま何も起きないとは、思えない」


『分かりました』


 東堂さんの声は、静かだった。


『避難指示の延長と、対象地域の拡大を検討します。あなたの報告を、官邸に上げます』


「お願いします」


『杉浦主任。あなたは、できる限りのことをしています。それは分かっています』


 その言葉が、胸に沁みた。


 分かっている。分かっているけど——できる限りのことが、十分ではないかもしれない。


 その恐怖と、それでも続けなければという使命感が、同時に胸の中でせめぎ合っていた。


「……ありがとうございます」


『引き続き、監視をお願いします。何か変化があれば、すぐに連絡を』


「はい」


 通話が切れた。


 私は、受話器を置いた。


 手が、かすかに震えていた。


         ◆


 窓の外を見た。


 東京の空は、曇っていた。


 昨夜から降り続いていた雨は止んだが、雲は厚く、太陽の光は届かない。


 ——神谷三佐は、今頃どうしているだろう。


 夜明け前の通信で、無事だと分かった。


 「別に心配してたわけじゃ」と言ったのに、声が震えていた。バレバレだったと思う。


 恥ずかしい。……いや、恥ずかしいなんて言ってる場合じゃない。


 でも——生きていてくれて、よかった。


 あの人には、守りたい人がいる。


 避難民を一人、連れていると言っていた。きっと、あの女の子——海野凛のことだろう。


 幼馴染。大切な人。


 私には——


 私には、何がある?


 データ。予報。確率。


 それが誰かの命を救うことに繋がるなら——それが、私の答えだと思っていた。


 でも、今は。


 データが叫んでいるのに、「いつ」と言えない。


 「来る」と思っているのに、証明できない。


 科学は、100パーセントを言わない。


 だから——最後の最後で、役に立たない。


 そんな思いが、胸を締めつけた。


         ◆


 午前九時。


 私は、データの監視を続けていた。


 山崎は仮眠に戻った。私も休むべきなのは分かっている。でも、目を離せなかった。


 モニターの波形が、小刻みに揺れている。


 微動。プレート境界で、小さな地震が断続的に起きている。


 これは、何かの前兆なのか。それとも、余震の一種なのか。


 分からない。


 分からないけど、見続けるしかない。


 それが、今の私にできる唯一のことだから。


 ——M七・八。死者百十二名。


 数字を、頭の中で反芻した。


 この数字の向こう側に、百十二人の人生があった。


 家族がいて、友人がいて、夢があって、日常があった。


 それが、一瞬で終わった。


 そして——もしかしたら、これは始まりに過ぎないのかもしれない。


 もっと大きな地震が来たら。


 もっと多くの人が死んだら。


 私は、それを防げるのか。


 防げなくても——せめて、警告を発することはできるのか。


 コーヒーカップを手に取った。


 もう冷めきっている。


 それでも、一口飲んだ。


 苦かった。


 ——でも。


 私は、モニターを見つめた。


 私にできることは、見続けること。


 データが何かを告げる瞬間を、見逃さないこと。


 それが「いつ」かを言えなくても、「何か」が起きると警告することはできる。


 東堂さんは、私の直感を信じてくれた。


 神谷三佐は、私が発した情報で命を守った。


 ——科学は、100パーセントを言わない。


 でも、0パーセントでもない。


 できることが、まだある。


 私は、モニターを見つめ続けた。


 波形が、揺れている。


 まるで、大地が何かを訴えているように。


 ——頼むから、間に合ってくれ。


 祈りながら、私は見続ける。


 それが、今の私にできる、精一杯のことだから。


【第19章 終】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ