第18章「夜明けの翼」
第18章「夜明けの翼」
ヘリの音が、近づいてくる。
最初は夢かと思った。疲労で意識が朦朧としていた。凛の体温を感じながら、俺はいつの間にか眠っていたらしい。
だが——その音は、確かに現実だった。
ローター音が山間部に反響し、空気を震わせている。地面から微かな振動が伝わってくる。
凛が、俺の腕の中で身じろぎした。
「迅くん……」
「起きてたか」
俺は凛の肩を支えながら、東の空を見上げた。
山の稜線が、白み始めていた。六月の夜明け。雲の切れ間から、うっすらと朝焼けが滲んでいる。
冷たい朝の空気が、肺に沁みた。
その空に——一機のヘリが見えた。
救難ヘリ。UH-60J。
見慣れた機体だった。
◆
ヘリは道路上空を旋回し、着陸できる場所を探しているようだった。
俺は立ち上がり、周囲を見回した。
土砂崩れで道路が塞がれている。前後とも。だが、少し離れた場所に、かろうじてヘリが降りられそうな広場があった。
「こっちだ」
俺は声を張り上げた。
他の孤立者たちも、俺の声に反応して動き始める。
昨夜、一緒に待機していた中年男性が走り寄ってきた。
「自衛隊のヘリですか」
「救難隊だ」
「あなたが、誘導を?」
俺は首肯した。
「やれることをやる。それだけだ」
凛が、俺の隣に立った。
顔は疲れていたが、目には光が戻っていた。
「私も、手伝いますっ」
「……頼む」
俺は凛の頭に軽く手を置いた。
「お前は、他の人たちを安全な場所に集めてくれ。俺はヘリを誘導する」
「分かりました」
凛は力強く返事をして、孤立者たちの方へ走っていった。
◆
広場でヘリを待った。
ローター音が、さらに大きくなる。
機体が高度を下げ、土煙を巻き上げながらゆっくりと降下してくる。ローターの風圧が顔を打ち、髪を乱した。燃料の匂いが鼻をつく。
俺は両腕を広げ、着陸位置を示した。
救難隊員なら、この合図の意味が分かる。
UH-60Jが着陸した。
ローターが減速する間もなく、サイドドアが開いた。
降りてきたのは——見知った顔だった。
「神谷三佐!」
田村だった。
俺の部下。三年来の相棒。
「田村——」
「生きてたんすね。よかった」
田村の顔には、安堵と疲労が混じっていた。
昨夜から、休む暇もなく飛び続けていたのだろう。
「状況は」
「孤立者12名。うち負傷者1名。高齢女性、意識あり、骨折の疑いあり」
「了解っす。すぐに収容します」
田村が後ろを振り返り、機内のクルーに指示を出した。
救助員たちが担架を持って降りてくる。
俺は、凛たちのいる場所を指差した。
「あっちだ。全員、あそこにいる」
◆
救助作業は、手早く進んだ。
まず負傷した高齢女性を優先的に機内へ収容。
次に、子どもを連れた家族。
残りの孤立者も、順番に乗り込んでいく。
俺は最後まで地上に残り、誘導を続けた。
凛が、俺の隣に来た。
「迅くん、一緒に乗らないんですか?」
「俺は後だ。先に行け」
「でも——」
「大丈夫だ。すぐに行く」
凛は、何か言いたげな目で俺を見ていた。
だが、田村が凛の腕を取った。
「お嬢さん、こっちへ。神谷三佐は大丈夫っすから」
凛は振り返りながら、ヘリに乗り込んだ。
その目が、俺から離れなかった。
俺は小さく手を挙げた。大丈夫だ、と。
◆
全員の収容が完了した。
俺も機内に乗り込み、サイドドアを閉める。
ヘリが浮上し始めた瞬間、無線が入った。
『神谷三佐、聞こえますか——』
杉浦の声だった。
いつもの冷静さが、欠けていた。
「聞こえる」
『——よかった』
杉浦の声が、掠れた。
『無事だったんですね。本当に——』
そこで言葉が途切れた。
数秒の沈黙。深呼吸する音。
『……い、いえ、別に心配してたわけじゃ。観測データが気になってただけで——連絡が取れなかったから、その、確認しただけです』
早口だった。
明らかに動揺している。
俺は——少しだけ、口元が緩んだ。
「そうか。ありがとう」
『だ、だから礼を言われるようなことは——とにかく、無事で何よりです』
杉浦の声は、まだ震えていた。
取り繕おうとしているのに、取り繕えていない。
「そっちの状況は」
『……観測データは、正直あまり良くありません。でも——今はいいんです』
杉浦の声が、少しだけ柔らかくなった。
『また、連絡します。……気をつけて』
通信が切れた。
俺は無線機を下ろした。
隣に座る凛を見ると、窓の外を見ていた。
涙の跡が、頬に残っていた。
◆
ヘリは、内陸部の避難所に向かっていた。
機内は狭く、孤立者たちがぎゅうぎゅうに座っている。機体の振動が体に響く。エンジンの熱で、機内は蒸し暑かった。
昨夜助けた高齢女性は、担架に横たわったまま目を閉じていた。意識はあるが、疲労が激しい。
中年男性——昨夜、一緒に救助を手伝ってくれた人——が、俺に頭を下げた。
「ありがとうございました。あなたがいなかったら、どうなっていたか」
「……当然のことをしただけだ」
男性は、何か言いたそうだったが、黙って視線を落とした。
凛が、俺の袖を引いた。
「迅くん」
「何だ」
「……ありがとう、ですっ」
また、その言葉だった。
昨夜も、同じことを言っていた。
「何度も言われてる」
「何度でも言いますよっ。迅くんがいてくれて、本当に——」
凛は、言葉を詰まらせた。
そして——笑った。
疲れ切った顔だったが、その笑顔には——強さがあった。
◆
三十分ほどで、避難所に到着した。
市内の体育館が、臨時の避難所として開設されていた。
着陸後、孤立者たちは順番にヘリを降りていく。
負傷した高齢女性は、待機していた救急車に引き渡された。
中年男性が、家族と共に降りていく。振り返り、俺に向かって深く頭を下げた。
俺は軽く手を挙げて応えた。
凛も、降りる番だった。
だが——凛は、ヘリの縁で立ち止まった。
「迅くん」
「何だ」
「……これで、お別れですか?」
凛の声が、震えていた。
俺は、凛の前に立った。
「俺は浜松基地に戻る。お前は、ここで待ってろ」
「いつまで?」
「分からない。だが——」
俺は、凛の目を見た。
その瞳に、不安が揺れていた。
「必ず、迎えに行く」
凛の目が、大きく見開かれた。
「必ずだ。待ってろ」
「……約束、ですか?」
「約束だ」
凛は、深く息を吐いた。
震えていた肩から、力が抜けていく。
そして——笑った。
「分かりました。待ってます」
凛は、ヘリを降りた。
地上に立ち、振り返って俺を見た。
「迅くん」
「何だ」
「……気をつけてくださいね。無茶、しないでください」
俺は、答えなかった。
無茶をしない、とは言えない。
それが俺だから。
サイドドアが閉まる。
ヘリが浮上する。
窓から、凛の姿が見えた。
手を振っていた。小さく、でも確かに。
俺は——窓ガラスに手を当てた。
凛の姿が、小さくなっていく。
やがて、見えなくなった。
◆
浜松基地に向かう機内で、俺は目を閉じた。
疲労が、一気に押し寄せてくる。
昨夜からほとんど眠っていない。地震。土砂崩れ。救助。そして——凛との別れ。
——必ず、迎えに行く。
自分で言った言葉が、頭の中で反響していた。
約束。
俺は——約束を守れるのか。
八年前。母の最後の電話に、俺は出られなかった。
仕事中だった。気づいた時には、もう遅かった。
あれも、一種の約束だったのかもしれない。
母が最後に何を言いたかったのか、俺は知らない。
永遠に、知ることができない。
だから——今度は、違う。
凛との約束は、必ず守る。
何があっても。
——たとえ、俺がどうなっても。
その思考に、気づいた。
また、同じだ。
自分のことを後回しにしている。
トメさんの言葉が蘇った。
『優しいだけじゃ、人は救えない』
『時には、置いていく強さも必要だ』
分かっている。分かっているのに——俺は、変われない。
田村が、俺の肩を叩いた。
「神谷三佐。基地に着いたら、少し休んでくださいよ」
「……考えておく」
答えになっていなかった。
俺は目を開けた。
窓の外に、朝日が差し込んでいた。
六月の太陽。雲の切れ間から、光が降り注いでいる。
——夜は、明けた。
だが、これで終わりじゃない。
杉浦が言っていた。観測データは、あまり良くないと。
第二波が、来るかもしれない。
凛を避難所に残してきた。トメさんは、あの町に残った。
俺がやるべきことは、まだ山ほどある。
休んでいる暇など、ない。
ヘリは、浜松基地へと飛んでいた。
俺は——前を見た。
これからのことを、考えなければならない。
【第18章 終】




