表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/20

第17章「大地の鳴動」

第17章「大地の鳴動」

────────────────────────────────


アクセルを踏み込んでいた。


速度計の針が、八十キロを超えている。山間部の国道には不釣り合いな速度だ。

だが、足を緩める気にはなれなかった。


助手席の凛が、窓の外を見ていた。

さっきまで泣いていた目は、今は乾いている。でも、どこか虚ろだった。


無理もない。たった今、育ての親と永遠の別れをしたばかりだ。


「凛」


「……はい」


「気分が悪くなったら言え。止まるから」


「大丈夫、です」


凛は、小さく首を振った。


その横顔を、俺は視界の端で捉えていた。


——お前のことが好きなんだよ。昔から、ずっと。


トメさんの言葉が、頭の中で反響していた。


今は、それを考えている場合じゃない。分かっている。

だが、意識してしまう。隣に座る凛の存在を、やけに強く感じてしまう。


山が、近づいてきた。

海抜が上がっている。いい傾向だ。


沿岸部から離れれば、津波のリスクは下がる。あと三十分も走れば——


その時だった。


カーラジオから、聞き慣れた電子音が鳴った。

緊急地震速報。


『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください。静岡県、神奈川県、山梨県——』


「凛、伏せろ!」


俺は、ブレーキを踏んだ。

同時に、左手で凛の頭を押さえ、シートに伏せさせた。


そして——来た。


最初は、下から突き上げるような衝撃だった。

車体が跳ねた。タイヤが、一瞬地面を離れた感覚。


次に、横揺れ。

視界が、左右にぶれる。ハンドルを握る手に、異常な振動が伝わってくる。


「くっ——」


歯を食いしばった。

車を止めなければ。安全な場所に。


だが、どこが安全だ? 右は山の斜面。左は谷。前後には他の車。

道路の真ん中で、停まるしかない。


揺れが、続いている。

長い。十秒。二十秒。まだ終わらない。


車体が、勝手に動こうとする。サイドブレーキを引いても、じりじりと滑る。


「迅くん——」


「動くな。頭を下げてろ」


凛の声が、上擦っていた。


俺は、凛の肩を押さえたまま、フロントガラスの向こうを見た。

山の斜面が、崩れていた。


土砂が、道路に向かって流れ落ちてくる。

百メートルほど先。前方の車が、巻き込まれた。


「——っ」


声にならない声が、漏れた。

目の前で起きていることが、現実とは思えなかった。


土砂は、道路を塞いだ。完全に。

前には、進めない。


揺れが、ようやく収まり始めた。

三十秒。いや、四十秒近く揺れていたか。


体感時間は、その何倍にも感じた。


「凛、大丈夫か」


「……はいっ」


凛が、顔を上げた。

青ざめていた。唇が、わずかに震えている。


でも、目は——俺を見ていた。


「迅くん、今の——」


「地震だ。でかいやつ」


俺は、周囲を確認した。

後方にも、車が何台か停まっている。


前方は、土砂で塞がれている。

戻るしかない。だが——


バックミラーを見た。

後方、二百メートルほど先。


そこにも、土砂が崩れていた。


前も、後ろも、塞がれている。

俺たちは——挟まれた。


────────────────────────────────


車を降りた。


六月の空気が、妙に冷たく感じた。土と草の匂いが、鼻をついた。

山の斜面から、まだ小さな石が転がり落ちてくる。余震か、それとも崩落の続きか。


凛も、車を降りてきた。

足元が、おぼつかない。俺は、その腕を支えた。


「立てるか」


「はい……大丈夫、です」


凛は、頷いた。でも、手が震えていた。

気づいたら、俺はその手を握っていた。


冷たかった。


周囲を見回した。

俺たちの他に、五台ほどの車が道路上に取り残されていた。


前方の土砂崩れに巻き込まれた車は——屋根だけが、見えている。

中に人がいたかどうか、ここからは分からない。


「他の人は——」


凛が、声を上げようとした。

俺は、その肩を押さえた。


「動くな。余震が来るかもしれない」


言いながら、俺は携帯電話を取り出した。

画面を見る。


圏外。


山間部だ。基地局が少ない。地震で設備がやられた可能性もある。


舌打ちが、漏れた。


杉浦に連絡を取りたかった。現在地を伝えて、救助を要請したかった。

だが、それができない。


「迅くん」


凛が、俺の袖を引いた。


「あそこ——」


凛が指差した方向を見た。

後方の土砂崩れの手前。


一台の車から、人が降りてきていた。

中年の男性と、若い女性。そして——子ども。小学生くらいの男の子。


男性が、こちらに向かって歩いてくる。

俺は、凛の手を離し、その男性の方へ歩いた。


「大丈夫ですか」


男性が、声をかけてきた。

四十代くらい。スーツ姿。顔は青ざめているが、声は落ち着いていた。


「ええ。そちらは」


「家族は無事です。ただ——」


男性が、前方を見た。

土砂に埋まった車。


「あの車……中に人がいたら——」


「行きます」


俺は、言った。


「俺は、航空自衛隊の救難隊員です。救助の訓練を受けています」


男性の目が、わずかに見開かれた。


「あなたが行くなら——私も手伝います」


「いえ、あなたは家族のそばに。余震が来たら、すぐに山から離れた場所へ移動してください」


俺は、凛の方を振り返った。

凛は、不安そうな目で俺を見ていた。


「凛。ここにいろ」


「でも——」


「いいから」


俺は、凛の肩に手を置いた。


「俺は、すぐ戻る。お前は、他の人たちと一緒にいろ」


凛の瞳が、揺れた。

何か言いたそうだった。唇が動きかけて、止まった。飲み込んだのだ、言葉を。


「……分かり、ました」


小さな声だった。震えていた。


俺は、頷いた。

そして、土砂崩れの方へ歩き出した。


——凛を置いていく。


その事実が、胸の奥でチクリと痛んだ。

守ると約束したばかりだ。トメさんに。


でも、目の前に救えるかもしれない命がある。

見て見ぬふりはできない。できるはずがない。


……分かってる。矛盾してる。

凛を守りたい。でも、助けに行かずにはいられない。

どっちも本心だ。どっちも嘘じゃない。


だから——走った。


────────────────────────────────


土砂に近づくにつれ、状況が見えてきた。


崩れた土砂は、道路を完全に塞いでいる。高さは、二メートル以上。幅は、道路の端から端まで。

その中に、車が一台、埋まっていた。


軽自動車。白。屋根と、後部のガラスだけが見えている。


俺は、土砂の上に登った。

足元が不安定だ。石と土が混ざっている。大きな岩もある。湿った土の匂いが、濃い。


慎重に、車の方へ近づいた。

後部ガラスから、中を覗き込んだ。


暗い。土砂が窓を塞いでいて、光が入らない。


俺は、携帯電話のライトをつけた。

中を照らす。


——人がいた。


運転席に、一人。

高齢の女性。白髪。目を閉じている。


動かない。


「聞こえますか!」


俺は、声を張り上げた。

反応がない。


ガラスを叩いた。

反応がない。


俺は、周囲を見回した。

石。手頃な大きさの。


それを拾い上げ、後部ガラスに叩きつけた。

一度。二度。三度——


ガラスが、砕けた。

破片が飛び散る。俺は、腕で顔を庇いながら、車内に手を伸ばした。


「聞こえますか!」


女性の肩に触れた。


——温かい。まだ生きている。


「意識はありますか!」


女性の瞼が、わずかに動いた。

唇が、何かを言おうとしている。


「大丈夫です。今、助けます」


俺は、車内に上半身を入れた。

狭い。土砂が車体を押しつぶしていて、空間が歪んでいる。


運転席のシートベルトを外す。女性の体を、後部座席の方へ引っ張る。

重い。


俺の腕だけでは、限界がある。

だが——


「手伝います」


声がした。

振り返ると、さっきの中年男性が来ていた。


「来るなと言ったはずです」


「家族は、他の人たちと一緒にいます。私も、何かしたい」


男性の目は、真剣だった。


俺は、一瞬迷った。

だが——時間がない。余震が来れば、さらに土砂が崩れる可能性がある。


「……分かりました。俺が中から押します。あなたは、外から引っ張ってください」


「はい」


俺は、車内に戻った。

女性の体を抱え、後部座席の方へ押し出す。


男性が、外から女性の腕を掴み、引っ張る。

少しずつ。少しずつ。


女性の体が、砕けたガラス窓から出てくる。


——その時だった。


足元が、揺れた。

余震。


「くそっ——」


俺は、女性の体を強く押した。

男性が、女性を抱きかかえるようにして引っ張り出した。


俺も、車内から這い出る。

土砂が、動いていた。


上から、新たな石が転がり落ちてくる。


「離れろ!」


俺は叫んだ。

男性が、女性を抱えたまま土砂から離れる。


俺も、飛び降りるようにして土砂から離れた。

背後で、崩れる音がした。


振り返ると、さっきまで俺がいた場所に、新たな土砂が積もっていた。


——危なかった。


心臓が、激しく打っていた。

怖い。怖かった。認めよう。

でも、生きてる。女性も、男性も、俺も。


────────────────────────────────


女性を、道路脇の安全な場所に寝かせた。


意識は朦朧としているが、呼吸はある。外傷も、見た限りでは軽傷だ。

骨折や内臓損傷の可能性はあるが、今の俺には判断できない。


「ありがとうございます」


中年男性が、頭を下げた。


「あなたがいなかったら——」


「まだ終わりじゃない」


俺は、空を見上げた。

雲が、厚くなっている。雨が降るかもしれない。


雨が降れば、さらに土砂崩れのリスクが上がる。


「ここにいるのは危険です。道路の真ん中は避けて、山側からも離れた場所へ」


俺は、周囲を見回した。

谷側に、少し広くなっている場所がある。ガードレールの外側。


そこなら、土砂崩れからは離れている。


「あそこへ移動しましょう。全員で」


俺は、他の車の乗員たちにも声をかけた。

合計で、十二人。


その中に、凛の姿もあった。


「迅くん——」


凛が、駆け寄ってきた。

その目に、安堵と、別の何かが混ざっていた。


「無事だった……よかったですっ」


声が、掠れていた。泣きそうになるのを堪えているのが分かった。


「ああ」


俺は、短く答えた。

凛の顔を見る。まだ顔色は戻っていないが、さっきよりは落ち着いている。


「これから、全員であそこに移動する。お前も来い」


「はいっ」


凛が、頷いた。


俺は、凛の手を取った。

さっきより、少しだけ温かくなっていた。


────────────────────────────────


全員を安全な場所へ移動させた後、俺は再び携帯電話を確認した。


まだ圏外だった。


空を見上げた。

曇天。陽の位置からすると、午後五時を過ぎている。


あと二時間もすれば、暗くなる。


救助が来るまで、どのくらいかかるか分からない。

道路が寸断されているなら、陸路での救助は難しい。


ヘリか——だが、この天候では飛べない可能性もある。


「迅くん」


凛が、俺の隣に立った。


「どうするんですか」


「……待つしかない」


俺は、正直に答えた。


「今の俺たちにできることは、ここで待つこと。救助が来るのを」


凛は、黙っていた。

しばらくして、小さな声で言った。


「迅くんは——さっき、あの人を助けに行きましたよね」


「ああ」


「怖く、なかったですか?」


俺は、凛を見た。

その目は、真剣だった。


「怖かった」


嘘は、言わなかった。


「土砂がいつ崩れるか分からない。余震がいつ来るか分からない。怖かったよ」


「……でも、行ったんですね」


「ああ」


俺は、前方の土砂崩れを見た。

あの下に、まだ車が埋まっている。


「救えるかもしれない命があるなら、行くしかない。それが——俺の仕事だから」


言いながら、思った。

仕事だから? 本当にそれだけか?


違う。分かってる。

行かずにいられないんだ。理屈じゃない。目の前で誰かが苦しんでいたら、手を伸ばさずにはいられない。

それが俺という人間で——たぶん、どこか壊れてるんだと思う。


凛は、何も言わなかった。

ただ、俺の腕にそっと触れた。


「……迅くんは、すごいです」


「そんなことない」


「ううん。すごいですよ」


凛の声が、掠れていた。


「私は——何もできませんでした。ただ、怖くて、震えてただけで」


「それでいい」


俺は、凛の頭に手を置いた。


「お前は、生きてればいい。それだけで、十分だ」


凛の目から、涙が零れた。

一筋。二筋。


でも、声は出さなかった。

ただ、俺の腕を握りしめていた。


────────────────────────────────


空が、暗くなり始めていた。

気温が、下がってきた。


六月とはいえ、山間部の夜は冷える。


俺は、車からブランケットを持ってきた。

凛に渡す。


「これ、被ってろ」


「迅くんは、いいんですか?」


「俺は、大丈夫だ」


凛は、ブランケットを受け取った。でも、被らなかった。


「一緒に、被りましょう」


「……」


「一人だと、寒いですから」


凛の目が、俺を見ていた。

何かを訴えるような目だった。遠慮でも、甘えでもない。もっと切実な何か。


俺は——断れなかった。


二人で、ブランケットを被った。

凛の体温が、伝わってくる。


小さな体。強張っている。寒さのせいか、それとも——


「迅くん」


「何だ」


「……ありがとうございます」


「何がだ」


「迎えに来てくださって。一緒にいてくださって」


凛の声が、小さかった。


「おばあちゃんが、言ってました。迅くんを信じなさいって」


「……」


「信じて、よかったです」


俺は、何も言えなかった。

喉の奥が詰まっていた。何かが込み上げてきて、言葉にならなかった。


ただ、凛の肩を引き寄せた。


小さな体が、俺の腕の中に収まった。


——守る。


トメさんに、約束した。

この子を、必ず守ると。


俺は、暗くなっていく空を見上げた。

雲の切れ間から、一つだけ星が見えた。


それが、何かの希望に思えた。


どこかで、ヘリの音が聞こえた気がした。


────────────────────────────────


【第17章 終】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ