第17章「大地の鳴動」
第17章「大地の鳴動」
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アクセルを踏み込んでいた。
速度計の針が、八十キロを超えている。山間部の国道には不釣り合いな速度だ。
だが、足を緩める気にはなれなかった。
助手席の凛が、窓の外を見ていた。
さっきまで泣いていた目は、今は乾いている。でも、どこか虚ろだった。
無理もない。たった今、育ての親と永遠の別れをしたばかりだ。
「凛」
「……はい」
「気分が悪くなったら言え。止まるから」
「大丈夫、です」
凛は、小さく首を振った。
その横顔を、俺は視界の端で捉えていた。
——お前のことが好きなんだよ。昔から、ずっと。
トメさんの言葉が、頭の中で反響していた。
今は、それを考えている場合じゃない。分かっている。
だが、意識してしまう。隣に座る凛の存在を、やけに強く感じてしまう。
山が、近づいてきた。
海抜が上がっている。いい傾向だ。
沿岸部から離れれば、津波のリスクは下がる。あと三十分も走れば——
その時だった。
カーラジオから、聞き慣れた電子音が鳴った。
緊急地震速報。
『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください。静岡県、神奈川県、山梨県——』
「凛、伏せろ!」
俺は、ブレーキを踏んだ。
同時に、左手で凛の頭を押さえ、シートに伏せさせた。
そして——来た。
最初は、下から突き上げるような衝撃だった。
車体が跳ねた。タイヤが、一瞬地面を離れた感覚。
次に、横揺れ。
視界が、左右にぶれる。ハンドルを握る手に、異常な振動が伝わってくる。
「くっ——」
歯を食いしばった。
車を止めなければ。安全な場所に。
だが、どこが安全だ? 右は山の斜面。左は谷。前後には他の車。
道路の真ん中で、停まるしかない。
揺れが、続いている。
長い。十秒。二十秒。まだ終わらない。
車体が、勝手に動こうとする。サイドブレーキを引いても、じりじりと滑る。
「迅くん——」
「動くな。頭を下げてろ」
凛の声が、上擦っていた。
俺は、凛の肩を押さえたまま、フロントガラスの向こうを見た。
山の斜面が、崩れていた。
土砂が、道路に向かって流れ落ちてくる。
百メートルほど先。前方の車が、巻き込まれた。
「——っ」
声にならない声が、漏れた。
目の前で起きていることが、現実とは思えなかった。
土砂は、道路を塞いだ。完全に。
前には、進めない。
揺れが、ようやく収まり始めた。
三十秒。いや、四十秒近く揺れていたか。
体感時間は、その何倍にも感じた。
「凛、大丈夫か」
「……はいっ」
凛が、顔を上げた。
青ざめていた。唇が、わずかに震えている。
でも、目は——俺を見ていた。
「迅くん、今の——」
「地震だ。でかいやつ」
俺は、周囲を確認した。
後方にも、車が何台か停まっている。
前方は、土砂で塞がれている。
戻るしかない。だが——
バックミラーを見た。
後方、二百メートルほど先。
そこにも、土砂が崩れていた。
前も、後ろも、塞がれている。
俺たちは——挟まれた。
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車を降りた。
六月の空気が、妙に冷たく感じた。土と草の匂いが、鼻をついた。
山の斜面から、まだ小さな石が転がり落ちてくる。余震か、それとも崩落の続きか。
凛も、車を降りてきた。
足元が、おぼつかない。俺は、その腕を支えた。
「立てるか」
「はい……大丈夫、です」
凛は、頷いた。でも、手が震えていた。
気づいたら、俺はその手を握っていた。
冷たかった。
周囲を見回した。
俺たちの他に、五台ほどの車が道路上に取り残されていた。
前方の土砂崩れに巻き込まれた車は——屋根だけが、見えている。
中に人がいたかどうか、ここからは分からない。
「他の人は——」
凛が、声を上げようとした。
俺は、その肩を押さえた。
「動くな。余震が来るかもしれない」
言いながら、俺は携帯電話を取り出した。
画面を見る。
圏外。
山間部だ。基地局が少ない。地震で設備がやられた可能性もある。
舌打ちが、漏れた。
杉浦に連絡を取りたかった。現在地を伝えて、救助を要請したかった。
だが、それができない。
「迅くん」
凛が、俺の袖を引いた。
「あそこ——」
凛が指差した方向を見た。
後方の土砂崩れの手前。
一台の車から、人が降りてきていた。
中年の男性と、若い女性。そして——子ども。小学生くらいの男の子。
男性が、こちらに向かって歩いてくる。
俺は、凛の手を離し、その男性の方へ歩いた。
「大丈夫ですか」
男性が、声をかけてきた。
四十代くらい。スーツ姿。顔は青ざめているが、声は落ち着いていた。
「ええ。そちらは」
「家族は無事です。ただ——」
男性が、前方を見た。
土砂に埋まった車。
「あの車……中に人がいたら——」
「行きます」
俺は、言った。
「俺は、航空自衛隊の救難隊員です。救助の訓練を受けています」
男性の目が、わずかに見開かれた。
「あなたが行くなら——私も手伝います」
「いえ、あなたは家族のそばに。余震が来たら、すぐに山から離れた場所へ移動してください」
俺は、凛の方を振り返った。
凛は、不安そうな目で俺を見ていた。
「凛。ここにいろ」
「でも——」
「いいから」
俺は、凛の肩に手を置いた。
「俺は、すぐ戻る。お前は、他の人たちと一緒にいろ」
凛の瞳が、揺れた。
何か言いたそうだった。唇が動きかけて、止まった。飲み込んだのだ、言葉を。
「……分かり、ました」
小さな声だった。震えていた。
俺は、頷いた。
そして、土砂崩れの方へ歩き出した。
——凛を置いていく。
その事実が、胸の奥でチクリと痛んだ。
守ると約束したばかりだ。トメさんに。
でも、目の前に救えるかもしれない命がある。
見て見ぬふりはできない。できるはずがない。
……分かってる。矛盾してる。
凛を守りたい。でも、助けに行かずにはいられない。
どっちも本心だ。どっちも嘘じゃない。
だから——走った。
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土砂に近づくにつれ、状況が見えてきた。
崩れた土砂は、道路を完全に塞いでいる。高さは、二メートル以上。幅は、道路の端から端まで。
その中に、車が一台、埋まっていた。
軽自動車。白。屋根と、後部のガラスだけが見えている。
俺は、土砂の上に登った。
足元が不安定だ。石と土が混ざっている。大きな岩もある。湿った土の匂いが、濃い。
慎重に、車の方へ近づいた。
後部ガラスから、中を覗き込んだ。
暗い。土砂が窓を塞いでいて、光が入らない。
俺は、携帯電話のライトをつけた。
中を照らす。
——人がいた。
運転席に、一人。
高齢の女性。白髪。目を閉じている。
動かない。
「聞こえますか!」
俺は、声を張り上げた。
反応がない。
ガラスを叩いた。
反応がない。
俺は、周囲を見回した。
石。手頃な大きさの。
それを拾い上げ、後部ガラスに叩きつけた。
一度。二度。三度——
ガラスが、砕けた。
破片が飛び散る。俺は、腕で顔を庇いながら、車内に手を伸ばした。
「聞こえますか!」
女性の肩に触れた。
——温かい。まだ生きている。
「意識はありますか!」
女性の瞼が、わずかに動いた。
唇が、何かを言おうとしている。
「大丈夫です。今、助けます」
俺は、車内に上半身を入れた。
狭い。土砂が車体を押しつぶしていて、空間が歪んでいる。
運転席のシートベルトを外す。女性の体を、後部座席の方へ引っ張る。
重い。
俺の腕だけでは、限界がある。
だが——
「手伝います」
声がした。
振り返ると、さっきの中年男性が来ていた。
「来るなと言ったはずです」
「家族は、他の人たちと一緒にいます。私も、何かしたい」
男性の目は、真剣だった。
俺は、一瞬迷った。
だが——時間がない。余震が来れば、さらに土砂が崩れる可能性がある。
「……分かりました。俺が中から押します。あなたは、外から引っ張ってください」
「はい」
俺は、車内に戻った。
女性の体を抱え、後部座席の方へ押し出す。
男性が、外から女性の腕を掴み、引っ張る。
少しずつ。少しずつ。
女性の体が、砕けたガラス窓から出てくる。
——その時だった。
足元が、揺れた。
余震。
「くそっ——」
俺は、女性の体を強く押した。
男性が、女性を抱きかかえるようにして引っ張り出した。
俺も、車内から這い出る。
土砂が、動いていた。
上から、新たな石が転がり落ちてくる。
「離れろ!」
俺は叫んだ。
男性が、女性を抱えたまま土砂から離れる。
俺も、飛び降りるようにして土砂から離れた。
背後で、崩れる音がした。
振り返ると、さっきまで俺がいた場所に、新たな土砂が積もっていた。
——危なかった。
心臓が、激しく打っていた。
怖い。怖かった。認めよう。
でも、生きてる。女性も、男性も、俺も。
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女性を、道路脇の安全な場所に寝かせた。
意識は朦朧としているが、呼吸はある。外傷も、見た限りでは軽傷だ。
骨折や内臓損傷の可能性はあるが、今の俺には判断できない。
「ありがとうございます」
中年男性が、頭を下げた。
「あなたがいなかったら——」
「まだ終わりじゃない」
俺は、空を見上げた。
雲が、厚くなっている。雨が降るかもしれない。
雨が降れば、さらに土砂崩れのリスクが上がる。
「ここにいるのは危険です。道路の真ん中は避けて、山側からも離れた場所へ」
俺は、周囲を見回した。
谷側に、少し広くなっている場所がある。ガードレールの外側。
そこなら、土砂崩れからは離れている。
「あそこへ移動しましょう。全員で」
俺は、他の車の乗員たちにも声をかけた。
合計で、十二人。
その中に、凛の姿もあった。
「迅くん——」
凛が、駆け寄ってきた。
その目に、安堵と、別の何かが混ざっていた。
「無事だった……よかったですっ」
声が、掠れていた。泣きそうになるのを堪えているのが分かった。
「ああ」
俺は、短く答えた。
凛の顔を見る。まだ顔色は戻っていないが、さっきよりは落ち着いている。
「これから、全員であそこに移動する。お前も来い」
「はいっ」
凛が、頷いた。
俺は、凛の手を取った。
さっきより、少しだけ温かくなっていた。
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全員を安全な場所へ移動させた後、俺は再び携帯電話を確認した。
まだ圏外だった。
空を見上げた。
曇天。陽の位置からすると、午後五時を過ぎている。
あと二時間もすれば、暗くなる。
救助が来るまで、どのくらいかかるか分からない。
道路が寸断されているなら、陸路での救助は難しい。
ヘリか——だが、この天候では飛べない可能性もある。
「迅くん」
凛が、俺の隣に立った。
「どうするんですか」
「……待つしかない」
俺は、正直に答えた。
「今の俺たちにできることは、ここで待つこと。救助が来るのを」
凛は、黙っていた。
しばらくして、小さな声で言った。
「迅くんは——さっき、あの人を助けに行きましたよね」
「ああ」
「怖く、なかったですか?」
俺は、凛を見た。
その目は、真剣だった。
「怖かった」
嘘は、言わなかった。
「土砂がいつ崩れるか分からない。余震がいつ来るか分からない。怖かったよ」
「……でも、行ったんですね」
「ああ」
俺は、前方の土砂崩れを見た。
あの下に、まだ車が埋まっている。
「救えるかもしれない命があるなら、行くしかない。それが——俺の仕事だから」
言いながら、思った。
仕事だから? 本当にそれだけか?
違う。分かってる。
行かずにいられないんだ。理屈じゃない。目の前で誰かが苦しんでいたら、手を伸ばさずにはいられない。
それが俺という人間で——たぶん、どこか壊れてるんだと思う。
凛は、何も言わなかった。
ただ、俺の腕にそっと触れた。
「……迅くんは、すごいです」
「そんなことない」
「ううん。すごいですよ」
凛の声が、掠れていた。
「私は——何もできませんでした。ただ、怖くて、震えてただけで」
「それでいい」
俺は、凛の頭に手を置いた。
「お前は、生きてればいい。それだけで、十分だ」
凛の目から、涙が零れた。
一筋。二筋。
でも、声は出さなかった。
ただ、俺の腕を握りしめていた。
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空が、暗くなり始めていた。
気温が、下がってきた。
六月とはいえ、山間部の夜は冷える。
俺は、車からブランケットを持ってきた。
凛に渡す。
「これ、被ってろ」
「迅くんは、いいんですか?」
「俺は、大丈夫だ」
凛は、ブランケットを受け取った。でも、被らなかった。
「一緒に、被りましょう」
「……」
「一人だと、寒いですから」
凛の目が、俺を見ていた。
何かを訴えるような目だった。遠慮でも、甘えでもない。もっと切実な何か。
俺は——断れなかった。
二人で、ブランケットを被った。
凛の体温が、伝わってくる。
小さな体。強張っている。寒さのせいか、それとも——
「迅くん」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「迎えに来てくださって。一緒にいてくださって」
凛の声が、小さかった。
「おばあちゃんが、言ってました。迅くんを信じなさいって」
「……」
「信じて、よかったです」
俺は、何も言えなかった。
喉の奥が詰まっていた。何かが込み上げてきて、言葉にならなかった。
ただ、凛の肩を引き寄せた。
小さな体が、俺の腕の中に収まった。
——守る。
トメさんに、約束した。
この子を、必ず守ると。
俺は、暗くなっていく空を見上げた。
雲の切れ間から、一つだけ星が見えた。
それが、何かの希望に思えた。
どこかで、ヘリの音が聞こえた気がした。
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【第17章 終】




