第16章「数字の向こう側」
第16章「数字の向こう側」
【杉浦沙耶視点】
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午後四時十五分。
内閣府・地殻変動観測チーム本部。
空調の低い唸りが、部屋全体を満たしていた。蛍光灯の白い光が、無機質に降り注いでいる。
私は、モニターの前に座っていた。
画面には、駿河トラフ周辺のリアルタイムデータが流れている。地震計の波形。GPS観測点の変位。海底水圧計の数値。
どれも——異常だった。
「杉浦主任」
山崎が、私の隣に立った。
まだ二十代半ばの若手研究員。眼鏡の奥の目が、不安に揺れていた。
「また、跳ねました」
「見てる」
私は、画面から目を離さなかった。
海底水圧計のグラフが、不規則に振れている。
三十分前から、このパターンだ。
規則的だった変動が、突然乱れ始めた。
「これは——」
山崎が、言葉を詰まらせた。
「何かが、起きてるんですよね」
「……ええ」
私は、答えた。
何が起きているのか。知りたい。でも、知るのが怖い。
いや、違う——知っても何もできないかもしれない。
その可能性が、一番怖かった。
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私は神谷三佐に電話をした。
確率が八二パーセントに達したことを伝えた。
『地震が、予想より早く来るかもしれません』
そう言った。
でも、「いつ」とは言えなかった。
明日かもしれない。今夜かもしれない。一時間後かもしれない。
——それが、私たちの限界だった。
科学は万能じゃない。
何も知らないよりはマシ。でも、すべてを知ることはできない。
そのことを、私は誰よりも分かっていたはずだった。
なのに——
今、この瞬間。
データが叫んでいる。何かが近づいていると。
でも、それが「いつ」なのか。
答えられない自分が、情けなかった。
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「杉浦主任!」
山崎の声が、背後から飛んできた。
「GPS観測点、また動きました」
私は、別のモニターに目を移した。
伊豆半島東部の観測点。
数値が、じわじわと変化している。
地殻が、動いている。ゆっくりと、でも確実に。
「……プレートが、滑ってる」
私は、呟いた。
「滑り始めてる」
「それって——」
「このまま止まるかもしれないし、一気に解放されるかもしれない」
私は、首を横に振った。
「予測できない」
その言葉が、自分の口から出た。科学者として、一番言いたくない言葉。
でも、それしか言えない。悔しい。情けない。
なのに、どこかで——嘘をつかなくて済んだという安堵があった。
その矛盾が、余計に胸を抉った。
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午後四時三十分。
私は、東堂補佐官に電話をかけた。
『杉浦主任。状況は』
東堂の声は、いつも通り冷静だった。
「データが、異常です。海底水圧計のパターンが変わりました。GPS観測点も動いています」
『それは——どういう意味ですか』
「プレート境界で、何かが起きています。ゆっくり滑っているのか、それとも——」
私は、言葉を切った。
『それとも?』
「大きな地震の前兆かもしれません」
電話の向こうで、東堂が息を止める気配がした。
「ただ、断言はできません。このパターンは、過去のデータにありません。前例がないんです」
気づけば、早口になっていた。言葉が次々と溢れ出す。
「だから、いつとも、どのくらいの規模とも言えない。確率は上がってる、危険度は上がってる、でも具体的な数字を出せと言われたら——」
『杉浦主任』
東堂の声が、静かに遮った。
『落ち着いて』
「……すみません」
自分でも分かっていた。動揺している。理論武装が、崩れかけている。
『謝らないでください。あなたは、できる限りのことをしている。それは分かっています』
「……」
『で、あなたの直感は?』
直感。
科学者に、直感を聞くのか。
でも——東堂は、本気で聞いていた。
データの向こう側を見ようとしていた。
「……来ると思います」
私は、答えた。
「今日か、明日。そう遠くない」
『分かりました。対応を強化します』
「お願いします」
『杉浦主任。あなたも、気をつけて』
電話が、切れた。
私は、受話器を置いた。
手が、小さく震えていた。
指先が冷たい。六月だというのに。
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午後四時四十五分。
私は、コーヒーを淹れに席を立った。
頭が、ぼんやりしていた。
昨夜から、ほとんど眠っていない。
データを見続けて、シミュレーションを回し続けて、報告書を書き続けて。
体は疲れ切っているのに、神経だけが張り詰めている。
給湯室で、カップにコーヒーを注いだ。
濃い匂いが、鼻をついた。インスタントの安っぽい香り。でも、今はそれでいい。
一口飲む。苦い。砂糖を入れ忘れた。
窓の外を見た。
東京の空は、曇っていた。
——神谷三佐、今頃どうしてるだろう。
さっきの電話では、「内陸に向かってる」と言っていた。
避難民を一人、連れていると。
あの人には、守りたい人がいる。
私には——
私には、何がある?
データ。予報。確率。
それが誰かの命を救うことに繋がるなら——それが、私の答えだったはずだ。
私の存在意義だったはずだ。
でも、今は。
データが叫んでいるのに、私は「いつ」と言えない。
確率を上げることしかできない。
八二パーセント。八五パーセント。九〇パーセント。
数字が上がっていく。でも、一〇〇パーセントにはならない。
科学は、一〇〇パーセントを言わない。
だから——最後の最後で、役に立たない。
そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。
違う。そんなはずない。役に立っている。役に立っているはずだ。
あの確率があるから、避難が始まった。あのデータがあるから、対策が進んでいる。
でも——じゃあ、なぜこんなに苦しいの。
コーヒーカップを、両手で包んだ。
温かい。その温もりだけが、今は確かなものに思えた。
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給湯室を出ようとした時、廊下を走る足音が聞こえた。
「杉浦主任!」
山崎だった。
息を切らしている。眼鏡がずれていた。血の気が引いて、顔が白い。
「どうした」
「微動です! 微動が、始まりました!」
私は、コーヒーカップを窓枠に置いた。
走った。
本部に戻ると、職員たちがモニターの前に集まっていた。
キーボードを叩く音。誰かの押し殺した声。緊張が、空気を重くしていた。
画面を見た。
地震計の波形が、小刻みに揺れていた。
微動。
プレート境界で、小さな地震が連続して起きている。
これは——
「杉浦主任」
山崎が、掠れた声で言った。唇が、微かに震えている。
「これ、前震じゃ——」
「断定はできない」
私は、遮った。
「前震かもしれないし、そのまま収まるかもしれない」
でも——
心臓が、激しく鳴っていた。
これは、何かの始まりだ。
理屈じゃない。直感が、そう言っていた。
科学者として、こんな曖昧な根拠で判断してはいけない。
でも——体が、知っていた。
「東堂補佐官に連絡を」
私は、言った。
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「それから、気象庁にも。全観測点のデータを共有してもらって」
「は、はい」
山崎が、電話に飛びついた。
私は、モニターを見つめていた。
波形が、揺れ続けている。
小刻みに。執拗に。
まるで、何かが目覚めようとしているかのように。
——神谷三佐。
胸の中で、その名前を呼んだ。
何をしてるんだろう、私は。
科学者が、祈りに縋ってどうする。馬鹿みたいだ。
非科学的だ。根拠がない。意味がない。
でも——祈らずにはいられなかった。
どうか、無事で。
……別に、あの人のためだけじゃない。
貴重なパイロットを失うのは、国家的損失だから。
そう、それだけのこと。
自分に言い聞かせながら、モニターを見つめ続けた。
波形は、止まらなかった。
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【第16章 終】




